第262話
翌朝、リルドは昨日の「歌唱訓練」の影響か、驚くほどスッキリとした目覚めを迎えた。一方で、枕元のラッファードは、どこか魂が抜けたような、静かな魔力を漂わせている。
「おはよう、ラッファード。なんだか喉の調子がすごくいいよ!」
『……おはよう、リルド。お主が健康なら何よりだ。ただ、我が耳(意識)は、まだ昨日の「絶唱」から立ち直っておらぬ。今日はなるべく、静寂を愛でる仕事を提案したい……』
リルドは笑いながら身支度を整え、持ち家の玄関を出た。今日もいつもの茶トラ猫がいて、「ニャッ」と一鳴きして、どこか「お前、昨日すごかったな」と言いたげな顔でリルドを見送った。
ギルドへ着くと、今日も食堂では熱い議論が交わされていた。
「いいか、やっぱり鹿の背肉のカルパッチョが一番だ! あの野性味溢れる味がたまらねぇ!」
「甘いな。俺はラムの香草焼きを推すぜ! 香りが鼻を抜ける瞬間が最高なんだよ」
そんな冒険者たちの喧騒を横目に、リルドは掲示板から一枚の穏やかな依頼を選んだ。
『図書館の「静寂の魔導書」の整理』
「これならラッファードも安心だね。静かに作業するよ」
依頼場所である古い図書館の地下書庫へ向かうと、そこには勝手に独り言を呟いたり、ページをめくる音を立てたりする「お喋りな魔導書」たちが乱雑に積み重なっていた。
『……リルド、あやつらはお喋りがすぎて、書庫の平穏を乱しておる。お主の魔力で「黙らせる」のだ』
リルドは本を一冊ずつ手に取り、背表紙を優しくなでながら、魔力で封印の紐を締め直していく。
「静かにしてね。みんなが読みにくくなっちゃうから」
リルドが囁きながら作業を進めると、騒がしかった魔導書たちが、まるで魔法にかけられたように大人しくなっていった。
『……ふむ。お主が「歌わぬ」のであれば、その魔力は実に慈愛に満ちておるな。……おや、あの一番奥にある古い本が、何か言いたげだぞ』
一番奥の棚にあった、ひときわ重厚な黒い本。リルドが手を伸ばすと、その本は自らページを開き、白紙のページにスラスラと文字を浮かび上がらせた。
『昨日の歌声……地獄の底まで響きました。感謝します。おかげで長年の便秘が治りました』
「……お礼を言われちゃった。良かったね、ラッファード」
『……感謝の内容が非常に複雑だが、まあ、良しとしよう』
夕暮れ時、リルドは静まり返った書庫を後にしてギルドへ戻った。
「ただいま、受付さん。本たち、みんな静かになったよ」
「おかえりなさい、リルドさん! 司書さんが『あんなに荒れていた書庫が、聖域のように静かになった』と涙を流して喜んでいましたよ。はい、こちら報酬の銅貨です」
「ありがとう。……帰ろう、ラッファード」
『うむ。静寂を操り、知識の守り手を助ける。……今日のお主は、まさに「知の調停者」であったな。さて、今夜は静かに、お主の「料理神」としての腕前だけを堪能させてもらおうか』
「(ふふ、わかったよ。今日は野菜たっぷりのシチューにするね)」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、静かな夜の空気を吸い込みながら、リルドは茜色の道を歩いていった。
万年Fランク冒険者の日常は、時には騒がしく、時には静かに、街の平穏を支えながら更けていく。




