第261話
ギルドの扉を開けると、そこは朝から酒の香りと食欲をそそる匂いに満ちていた。
「やはりこのキルシュ(さくらんぼの蒸留酒)は美味えな! 喉にガツンと来るぜ」
「同意だ。だが、このフルーティーなアマルシェも捨て難いぞ。この甘みが疲れに効くんだ」
冒険者たちが酒談義に花を咲かせる中、リルドは掲示板の隅で奇妙な依頼書を見つけた。
『音パネルの操作および、歌唱による調整』
「音パネル? 歌を歌う……? 変わった依頼だね、ラッファード」
『ふむ、音響魔法の装置のメンテナンスだろう。お主の清らかな声なら適任かもしれんな』
依頼場所は、街の広場にある巨大な魔導オルガンの内部だった。リルドは指示書に従い、魔力が流れる「音パネル」を操作していく。
「ええと、ここをこうして……最後は音波を安定させるために、歌を歌って調整、か。……ふぅ。……〜〜♪」
リルドが喉を震わせ、歌い始めた瞬間だった。
『!!? や、やめーい!!……な、なんだ!? この破壊的な響きは!?』
ラッファードが鞘の中で絶叫せんばかりに振動した。リルド本人は至って真面目に、そして心地よさそうに歌っているのだが、その声には「精霊を驚かせ、物質の分子構造を揺さぶる」という、ある種の天災に近い超音波が混じっていた。
「えっ? 今いいところだったのに。……でも、パネルの数値は安定したみたいだよ」
作業を終えた帰り道のことだ。
前方から数人の冒険者が、血相を変えて逃げてくるのが見えた。
「逃げろ! 森から迷い込んだ大型の『魔獣・咆哮熊』だ! 奴の咆哮を浴びたら、鼓膜も精神もズタズタにされるぞ!」
背後から地響きと共に、巨大な魔獣が姿を現した。魔獣がその凶悪な口を開き、死の咆哮を放とうとしたその時、リルドはふと思い出した。
「(さっきの歌、もう一回練習してみようかな)」
リルドが大きく息を吸い込み、全力の歌声を響かせた。
「〜〜〜〜♪♪」
その瞬間、世界が震えた。魔獣の咆哮はリルドの歌声にかき消され、それどころか、あまりに「規格外」な旋律に魔獣は白目を剥いた。
「ギャ……!? ギギギ……ッ!!」
魔獣はその場のたうち回り、最後には口からぶくぶくと泡を吹いて気絶してしまった。
『……リルドよ。お主の歌は、もはや聖歌ではなく「精神汚染」の域だ……。魔獣が哀れに見えたのは初めてだぞ……』
夕暮れ時、リルドは喉を休めながらギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。音パネルの調整、終わったよ。あと、途中で倒れてた熊は警備隊にお願いしておいたから」
「おかえりなさい、リルドさん! 音パネルの依頼主が『かつてないほど完璧な調整だ』と感動していましたよ。……あと、泡を吹いて運ばれてきた魔獣については、原因不明の急性ショック症状だと騒ぎになっていますが。はい、こちら報酬の銅貨です」
「ありがとう。……帰ろう、ラッファード」
『うむ。……今夜は家についても歌わんでくれよ? 我、まだ耳の奥がキーンとしておるのだ』
「(もう、ラッファードまでひどいなぁ。さあ、夕飯にしよう)」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、静かになった街の空気を楽しみながら、リルドは茜色の道を歩いていった。
万年Fランク冒険者の日常は、その「天性の歌声」で魔獣すら平伏させながら、今日も平和に更けていく。




