23話
リルドは肩に猫を乗せたまま、のんびりと自宅へ帰り着いた。夕食を済ませ、心地よい疲れと共に眠りにつく。
翌朝のギルドにて
翌朝、爽やかな陽光の中で目を覚ましたリルドは、いつものようにギルドへと足を運んだ。
掲示板を眺めていると、一枚の不思議な依頼書が目に留まる。
「『ホイト海峡で魚釣り』……?」
リルドは首を傾げた。ホイト海峡といえば、潮の流れが速く、熟練の漁師でも近づかないと言われる険しい場所だ。そんなところで「魚釣り」という、あまりにのんびりした響きの依頼が出ていることに違和感を覚えたのだ。
「まあ、海を見るのもいいかな」
リルドはその依頼書を剥がし、受付へと持っていった。
「あら、リルドさん。それはまた……。ホイト海峡は今、魔物の気配が強くて危ないって噂だけど、大丈夫?」
「うん、お散歩がてら行ってくるよ。魚が釣れたらラッキーだしね」
街を出て、ホイト海峡までの道のりを歩き出す。
潮の香りが強くなるにつれ、道ゆく生き物たちも様変わりしていく。道端のカニに挨拶をしたり、空を舞う海鳥たちの「あっちに大きな魚がいるよ」というお喋りに耳を傾けたりしながら、リルドは軽快に歩を進めた。
海峡に到着すると、そこは切り立った断崖絶壁だった。荒々しい波が岩に砕け散っている。
「さて、依頼書の内容は……『特定の岩場に住み着いた、暴れん坊の主を釣り上げてほしい』か。なるほど、ただの魚釣りじゃないね」
リルドはかつて極めた釣りスキルのツリーを思い出し、手近な枝と、持っていた丈夫な糸で即席の釣竿を作った。餌には、道中で見つけた少し特殊な魔力を持つ虫を付ける。
「さあ、おいで」
竿を振ると、糸は正確に激流の渦中へと吸い込まれた。
数分後、竿に凄まじい手応えが走る。だが、リルドは力任せに引くことはせず、魔力で魚の興奮を鎮めながら、優しく、かつ確実に引き寄せた。
釣り上げたのは、体長2メートルを超える銀色の巨魚だった。
「おっと、君が暴れん坊の主さんだね。ちょっとお引越ししてもらおうか」
リルドは主を弱らせることなく、安全な別の水域へと放流し、依頼の証拠となる鱗を一枚だけ手に入れた。
仕事を終え、夕暮れの道をのんびりと歩いて帰っていると、前方から数人の冒険者が血相を変えて走ってきた。
「逃げろ! 逃げろ! 街の近くに『キラースネイク』が出たぞ!」
「あんな巨大な毒蛇、俺たちの手には負えない!」
冒険者たちはリルドを追い越して、必死の形相で走り去っていく。
「キラースネイク……? 困ったなぁ、そんなのが暴れたら、森のネズミさんたちが怖がっちゃうよ」
リルドが足を止めると、茂みの向こうから地面を這う不気味な音が近づいてきた。
現れたのは、十メートルを優に超える巨大な鎌首をもたげた、漆黒の鱗を持つ毒蛇だった。その瞳は冷たく、今にもリルドに飛びかかろうと鋭く光っている。
リルドは慌てることなく、手に持っていた釣竿の残りをそっと置き、毒蛇の目を見つめた。
「ねえ、君。そんなに怒ってどうしたの? 牙が痛むのかな?」
巨大な毒蛇、キラースネイクは、リルドのあまりに自然体な問いかけに毒気を抜かれたのか、鎌首を低く下ろして低く唸った。
『……人間、貴様、なぜ逃げない。我の毒を恐れぬのか?』
蛇特有の掠れた、しかし重厚な声がリルドの脳内に響く。かつてあらゆるスキルを極めたリルドにとって、魔獣との念話による意思疎通は、隣人と挨拶するのと変わらない。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。それより君、お腹のあたりが少し熱くない? さっきからずっと、地面に鱗を擦り付けてイライラしているみたいだけど」
リルドが指摘すると、キラースネイクは驚いたように体をくねらせた。
『……何!? わかるのか……。そうだ、先日変な「光る石」を飲み込んでしまってから、腹の底が焼けるように熱くてたまらんのだ。あまりの苦しさに、誰彼構わず八つ当たりせずにはいられん……!』
「やっぱり。それ、たぶん未消化の魔力結晶が胃の中で暴走してるんだね。……よし、解決するには、こうするのがいいかな?」
リルドは地面にしゃがみ込み、指先で土をなぞりながら提案した。
「今から僕が、君の喉の奥を少しだけ『トントン』と刺激する。そうしたら、君は体内の魔力を尾の方に一気に流して。僕がタイミングを合わせるから、その瞬間に熱いものを吐き出せば、スッキリするはずだよ」
『……そんなことで、この苦しみから逃れられるというのか?』
「僕を信じて。はい、口を大きく開けて。……そう、上手だよ」
リルドは巨大な牙が並ぶ口内へ、恐れもせず手を伸ばした。そして、特定の神経が集中する箇所を、指先でリズミカルに、かつ優しく刺激する。
「今だ、流して!」
『――ッ! ぬ、ぬおおおおお!!』
キラースネイクが尾を激しく打ち付けると同時に、口から眩い光を放つ魔力結晶の塊が勢いよく飛び出した。それは放物線を描いて、近くの池へとドボンと落ちて沈んでいった。
「ふぅ。……どう? 楽になった?」
キラースネイクは、しばらく呆然と自分の体を確認していたが、やがて腹の熱が引いたことを悟ると、まるで猫のようにリルドの足元に体を擦り寄せた。
『……信じられん。あんなに苦しかったのが、嘘のようだ。恩にきるぞ、不思議な人間よ。我の名はジャ。これからは貴様と、貴様の大事な森は襲わぬと誓おう』
「それは良かった。ジャ君、これからはあまり変なものを飲み込まないようにね」
リルドは巨大な黒い鱗を「よしよし」と撫でてやり、一緒に解決したことを喜んだ。
夕暮れ時、リルドがギルドに戻ると、先ほど逃げ帰った冒険者たちが、武装した警備隊と共に森へ向かおうとしていた。
「おい、リルド! 無事だったのか!? あのキラースネイクはどうした!」
「ああ、ジャ君のこと? お腹が痛かったみたいで、もう解決したから帰っていったよ。今はとっても大人しいから、放っておいてあげて」
リルドはそう言い残すと、報酬の銅貨と、お土産に持ってきた海辺の綺麗な石を受け取って、いつものように帰路についた。
「……ジャ君、か。今度は美味しいお魚でも持って行ってあげようかな」
今夜は海峡の魚料理で、うさぎさんや小鳥さんと乾杯だ。
万年Fランク冒険者の日常は、恐ろしい魔獣さえも、ただの「お友達」に変えてしまうのだった。




