229話
その夜、窓から差し込む月光が、机の上に置かれた「銀の指輪」を静かに照らしていた。リルドはベッドに横になり、心地よい疲れの中でラッファードの声に耳を傾ける。
「かつて勇者が旅の途中で立ち寄った『幻の茶人』の隠れ里の話でもしてやろうか」
「うん、是非聞かせてよ」
『あれはな……。まだ魔王の軍勢が猛威を振るい、世界中が煤と血の匂いに塗れていた頃のことだ。我と勇者は、霧深い高山の頂近くで、地図にない小さな里を見つけたのだ』
【回想:霧に包まれた茶の里】
霧を抜けた先に広がっていたのは、見渡す限りの茶畑であった。
戦の喧騒が嘘のように、そこには静謐な時間が流れていた。
里の長である老人は、傷ついた勇者一行を責めることもなく、ただ一服の茶を差し出した。
その茶は、一口飲むだけで心の奥底に溜まった恐怖や怒りが、春の雪解けのように消えていく不思議な力を持っていたのだ。
勇者が問うた。
「なぜ、これほどの力を持ちながら世界を救うために動かぬのか」と。
老人は静かに笑って答えた。
「勇者様。世界を救うのはあなたの剣ですが、救われた後の人々が、また明日を生きようと思える『心の居場所』を守るのが、私の茶なのです」
我(聖剣)はその時、初めて悟ったのだ。
研ぎ澄まされた刃だけでは、真の意味で人を救うことはできぬ。
安らぎという名の「光」があってこそ、人は再び歩き出せるのだとな。
『……勇者はその里で三日三晩、ただ茶を飲み、泥のように眠った。戦い以外の時間を過ごしたあの時の勇者の顔は、今のお主にどこか似ておったよ』
回想を終えたラッファードの声は、いつもよりずっと柔らかく、部屋の空気に溶け込んでいった。
「ありがとうね……ラッファード。素敵な話だった」
『うむ……。お主がこうして穏やかに茶や菓子を楽しめる世界こそ、我らが守りたかったものなのかもしれんな』
「……そうだね。おやすみ」
『あぁ……おやすみ、リルド』
リルドの寝息が聞こえ始めると、ラッファードは独り、かつての茶人の言葉を反芻するように静かに光を収めた。
夜は更け、街は深い眠りに落ちていく。
万年Fランク冒険者の日常は、遠い過去の英雄が求めた「安らぎ」をその身に宿しながら、静かに、明日へと続いていく。




