124話
翌朝、ギルドの扉を開けると、今日はいつも以上に重苦しい空気が漂っていた。
「……あいつ、また出たらしいぜ」
「ああ、街道の先の森だろ。何人かやられたって話だ」
冒険者たちが深刻な顔で掲示板を囲んでいる。僕はその輪の少し外側から、一番上に新しく貼り出された、ひときわ大きな依頼札を眺めた。
『森の深部に潜む、狂暴な黒角熊の討伐』
「今日はこれにするよ、受付さん」
「……えっ!? リルドさん、正気ですか? これ、Bランク以上のパーティ推奨ですよ!? ウルフや子犬の時とは訳が違います。今は熟練の冒険者たちでさえ、二の足を踏んでいるのに……」
受付さんは身を乗り出して僕を止めようとした。けれど、僕はいつものように、困ったような、でも穏やかな笑顔を返した。
「あはは、大丈夫だよ。ちょっと様子を見て、危なそうならすぐにお散歩のルートを変えるから。受理、お願いできるかな?」
「……。分かりました。でも、絶対に、絶対に無理はしないでくださいね!」
受理印をもらって、僕は静かにギルドを後にした。
森の中へ足を踏み入れると、「嗅覚向上」と「視野拡大」で周囲の情報を拾い上げる。木々の幹に深く刻まれた爪痕、踏み潰された下草、そして空気に混じる野獣特有の強い臭い。
「(おやおや……随分と怒っているみたいだね)」
森の奥にある広場で、それは待ち構えていた。漆黒の毛並みに、頭部から生えた鋭い角。黒角熊は僕の姿を捉えるなり、大地を揺らすような咆哮を上げた。
願って剣や魔法を出すことはしない。僕は足元に落ちていた、少し重みのある堅い木の枝を一本、拾い上げた。
突進してくる巨体。岩をも砕く前足の一撃。僕はそれを髪の毛一本分でかわしながら、かつて身体に染み込ませた動きのまま、その懐へ滑り込む。
「(……少しだけ、静かになろうか)」
僕は枝の先で、熊の首筋にある特定の経絡を鋭く突いた。全盛期の魔力など必要ない。ただ正確に、急所へ衝撃を届けるだけでいい。
「ガフッ……」
短い声を漏らし、巨大な黒角熊はその場に膝を突いた。死んだわけではない。ただ、戦う意欲を失い、深い眠りに落ちただけだ。僕はその背中をポンポンと叩き、森のさらに深い場所へと向くように少しだけ誘導してあげた。
夕暮れ時、僕はいつものように汚れ一つない姿でギルドへ戻った。
「ただいま、受付さん。あの黒角熊だけど、もう心配ないよ。森のずっと奥に帰っていったから」
「おかえりなさい! ……えっ、帰っていったって……。討伐は……?」
「うん、もう街道の方には出てこないと思うよ。はい、完了報告」
僕がカウンターに依頼札を置くと、周囲にいた冒険者たちが一斉に絶句した。
「さて、僕も今夜は、少しだけ腕を使ったから、温かいミルクティーを淹れてゆっくり休もうかな」
万年Fランク冒険者の日常は、街に迫る脅威をそっと遠ざけながら、穏やかに更けていく。




