113話
翌朝、ギルドの扉を開けると、昨日の「煮物論争」がさらに加熱したようで、掲示板の前で大の大人が数人、芋の切り方について熱く語り合っていた。
「いいか、里芋は泥を落としてからが勝負なんだよ!」
「いや、出汁の染み込みを考えたら大根の厚みが……」
そんな平和な光景を微笑ましく眺めながら、俺は掲示板の最下段、今にも剥がれ落ちそうになっていた依頼札を指先で掬い上げた。
「今日はこれにしようかな。……うん、なんだか僕を呼んでいる気がするし」
それは『旧市街の時計塔、鳴らずの鐘の調査』という、随分と古ぼけた依頼だった。受付へ持っていくと、案の定、受付さんは驚いた顔をした。
「リルドさん、それ……もう数十年も放置されている『未解決依頼』ですよ。報酬も当時のままですし、何より原因が分からなくて皆諦めた代物ですが……」
「あはは、いいよ。直せなくても、鐘の顔を見るだけでもお散歩になるから」
受理を済ませて外に出ると、ちょうど街の衛兵たちが慌ただしく走り去っていくのが見えた。昨日のブレードタイガーの件で、周辺の警戒を強めているらしい。「物騒だねぇ」と独り言をこぼしながら、俺は反対方向の、静寂が支配する時計塔へと向かった。
塔の内部は埃が積もり、窓から差し込む光が帯のように白く浮き上がっている。俺は「視野拡大」と「聴覚向上」を同時に使い、巨大な鐘の機構を隅々まで調べた。
「(……なるほどね。歯車が壊れているわけじゃなくて、小さな鳥の巣がストッパーに挟まっているだけだ)」
俺は心の中でそっと願った。技術が手に入るわけではないけれど、手元には「一番細いピンセット」と「極上の潤滑油」が現れる。それらを使い、鳥の雛が巣立った後の空き家を丁寧に優しく取り除き、古びた金属同士が滑らかに動くように手入れを施した。
作業を終えて塔を降り、広場まで戻ったその時。
――ゴーン、ゴーン……。
数十年ぶりに、重厚で清らかな鐘の音が街中に響き渡った。足を止める人々、窓を開ける住人たち。俺はその音色を背中で聞きながら、涼しい顔でギルドへと戻った。
「ただいま、受付さん。鐘、機嫌が直ったみたいだよ」
「リルドさん!? 今の音、まさかあなたが!? 街中が大騒ぎですよ!」
「あはは、ただちょっと掃除をしただけだよ。はい、完了報告」
報酬の古びた銀貨を受け取ると、俺は満足感に包まれてギルドを後にした。
「さて、僕も今夜は、あの鐘の音のように余韻の残る、温かいお茶でも淹れてゆっくりしようかな」
万年Fランク冒険者の日常は、止まっていた時間を少しだけ動かしながら、穏やかに更けていく。




