112話
翌朝、ギルドの扉を開けると、そこはまたしても食欲をそそる議論の渦に包まれていた。
「いいか、煮物の王様と言えば『芋煮』だ! あのトロトロの里芋こそが至高なんだよ!」
「わかってねえな、根菜の旨味が凝縮された『筑前煮』こそが酒の肴にも最高なんだぜ!」
今日の冒険者たちは、昨日のミステリーの余韻もどこへやら、故郷の味をかけた熱い煮物論争に花を咲かせていた。リルドはそんな様子を横目に、掲示板の隅っこ、もはや他の依頼札の影に完全に隠れてしまっていた古い紙を丁寧に取り出した。
「今回はこれにするかな。……うん、面白そうだしね」
リルドはニコニコしながらその札を眺める。そこには**『古びた石畳の清掃と溝さらい』**という、およそ冒険者らしくない地味な依頼が書かれていたが、彼にとっては「街の歴史に触れるお散歩」に他ならない。
リルドは街の旧市街にある、忘れ去られたような静かな通りにいた。
「嗅覚向上」で水の詰まった場所を特定し、「視野拡大」で石畳の隙間にこびりついた汚れを見逃さない。
「(ここは昔、職人さんたちが通った道かな。綺麗にしたら、きっとお日様も喜ぶよ)」
リルドが丁寧に泥を掻き出し、水を流すと、石畳は本来の美しい模様を取り戻していく。全能の力を使えば一瞬だが、彼は自分の手で一つ一つ「綺麗」を作っていく過程を心から楽しんでいた。
作業を終え、夕陽を浴びながらのんびりとギルドへ戻る帰り道。
前方から数人の冒険者が、装備を鳴らし、血相を変えて走ってきた。
「おい、逃げろ! 戻るんだ!」
「どうしたんだい?」
リルドが足を止めて尋ねると、リーダー格の男が息を切らして叫んだ。
「この先の林に、はぐれの『ブレードタイガー』が出やがった! ギルドに報告して討伐隊を組まねえと、犠牲者が出るぞ!」
「おやおや……それは物騒だね。せっかく綺麗になった道なのに、お散歩の邪魔になるじゃないか」
リルドは困ったように眉を下げたが、その瞳の奥には一瞬だけ、かつて最強と呼ばれた者の鋭い光が宿った。彼は冒険者たちを先に行かせると、誰も見ていないことを確認し、森の奥へと向かって指先をパチンと鳴らした。
「(――少し、静かにしていてもらおうかな)」
彼の無意識の威圧が風に乗って森を駆け抜け、狂暴な魔獣を震え上がらせて眠りにつかせた。もちろん、リルド本人は「たまたま運良くどこかへ行ったんだろうね」と自分に言い聞かせながら、再び歩き出した。
夕刻、リルドはいつもの穏やかな笑顔でギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。石畳の清掃、終わったよ。とっても綺麗な模様が出てきたんだ」
「おかえりなさい! ……あ、リルドさん、途中でブレードタイガーに会いませんでしたか!? 今、討伐隊が準備を始めたところで……」
「え? タイガー? ……ううん、見かけなかったよ。きっともう、山の奥でお昼寝でもしているんじゃないかな。あはは」
受付嬢は「リルドさんは本当に、危険を避ける天才ですね」と感心しながら報酬を手渡した。
「さて、僕も今夜は、煮物の話でお腹が空いちゃったから、芋煮か筑前煮……どちらか温かいものを作ってゆっくりしようかな」
万年Fランク冒険者の日常は、街の平和を(人知れず)守りながら、穏やかに更けていく。




