107話
翌朝、ギルドの扉を開けると、そこは多種多様な議論が渦巻く混沌とした空間になっていた。
「おい、昨日のオーク親衛隊の仕事ぶり、見たか? あの重厚な鎧と統率力、まさに『豚の中の豚』、大豚傑って感じだよな!」
「おいおい、シャレになってねーぞ。……そもそもオークは豚じゃねーよ!」
そんな種族論争が繰り広げられる一方で、別のテーブルでは、「新作のロマンス小説、もう読んだか? あの結末の儚さは反則だろ……」としんみり語り合う一団もいる。
リルドはそんな賑やかな喧騒には加わらず、いつものように掲示板の端、他の依頼に押しつぶされるようにして残っていた古い依頼札を剥がした。
「今日は……これにしようかな」
リルドが受付にその札を持っていくと、受付嬢は目を丸くしてそれを見つめた。
『虚ろ色の景色はいつも何処か儚げである。いつしかそれは雲のように消えていく定めか。それは知るものぞ知る』
「あ、リルドさん。それ、相当前から掲示板にある依頼書ですよ。内容の意味がさっぱりわからなくて、ずっと放置状態だったんです。受けてくださるんですか?」
「うん、なんだか放っておけなくてね。お散歩がてら、この『虚ろ色』を探してみるよ」
リルドは依頼書の文面を「言語理解」で反芻しながら、街の周辺を歩き始めた。
『虚ろ色』――それは、色が失われる直前の淡い灰色のことか、あるいは……。
彼はいくつかの場所を転々とした。まずは霧の深い湖畔、次に古い石造りの遺跡。しかし、どれもしっくりこない。
「(……雲のように消えていく定め……。もしかして、特定の時間にしか現れない場所のことかな?)」
リルドは「視野拡大」を使い、陽が傾き始めた空の境界を見つめた。そして、街外れの丘の上にある、今は使われていない古い天文台の跡地へと足を向けた。
日没の直前、太陽が地平線に隠れる一瞬の間だけ、空は燃えるような赤でもなく、夜の紺碧でもない、形容しがたい「虚ろな色」に染まる。その光が天文台の崩れた壁に差し込むと、そこにはかつて誰かが描いた、今は掠れて見えなくなった美しい壁画が、一瞬だけ鮮やかに浮かび上がった。
「……これだね。知るものぞ知る、一瞬だけの景色」
夕刻、リルドがギルドに戻り、完了報告のためにカウンターへ向かった時のことだ。
「ただいま、受付さん。依頼の答え、見つけてきたよ」
「おかえりなさい! 待っていましたよ。実は……」
受付嬢が横を指差すと、そこには使い古された天体望遠鏡のレンズを愛おしそうに磨く、年老いた学者が座っていた。彼こそがこの依頼の主だった。
「おお……見つけてくれたのか。あの天文台の、最後の一瞬を」
老学者はリルドの話を聞くと、深く、満足そうに頷いた。
「あそこは私が亡き妻と初めて出会った場所。色が消えゆくあの一瞬だけ、彼女の愛した壁画が蘇るのだ。それを、誰かに『確かにそこに在る』と証明してほしかった……」
老人は震える手で、大切にしていた銀貨をリルドの手の平に乗せた。
「ありがとう、若き冒険者よ。これで心置きなく、私は次の研究へ進めるよ」
リルドは銀貨の重みを感じながら、穏やかに微笑んだ。
「あはは、本当にかっこいい景色だったよ。お役に立ててよかった」
報酬を受け取り、リルドは夕闇の街へと踏み出した。
「さて、僕も今夜は、あの虚ろ色の空を思い出しながら、温かいミルクティーを淹れて静かに過ごそうかな」
万年Fランク冒険者の日常は、消えゆく景色の中に隠された大切な記憶を救い上げながら、穏やかに更けていく。




