エピローグ:あとしまつと半額豚肉
これは司令とマリーゼしか知らない事だ。未来に起こることでも、祝杯の直後に起こっていようと、それは本人達しか知らない事だ。
今度こそ、ディール・プロイセンは捕らえられた。こっそり取っておいたヘカトンケイルの一部で縛ってある。ヘカトンケイルを解く猛者などいないだろう。
「彼の処分は私に任せて下さい」
「……分かった。君に任せよう」
「ありがとうございます、司令」
マリーゼの願い通り、どうするかは一任してくれた。この組織は一見猪突猛進なマリーゼの案も信頼してくれて良い。とても有り難い事だ、と
「しかし、どうするんだ? 半殺し……なんて物騒なことは、君はしないと思うが」
訝しむ司令に頷き、彼女は言った。
「都合よく記憶を無くしてもらいましょう」
◆
「記憶消去薬だと? そんなうまい話があるか……」
黒い壁。
白衣の男が見たものは、蛭に似た触手。それが何千何万と、狭い部屋に密集していた。
この世の理を超えたもの。
頭の中で、何かが外れた。
「これで薬が効きやすくなりますよ。……安心して下さい、生命だけは決して、決して奪いませんから。あなたたちのような悪を正しく生かすため、それが私の目的です」
慈愛に満ちた声が聞こえる。
これまでの記憶が捻じ曲がっていく。これからが書き換えられていく。
慈愛にせよなんにせよ、この恐怖から逃れられるならば、なんでもいいだろう。
「あなたはこれから……そうですね、配管工になります。ただの、ごく普通の、ね」
生かす。矜持やプライドは二の次。命さえ助かれば、後は。
……それが、マリーゼの目的だった。
◆
アノニはようやく、寮から出る事を許された。今度こそファーレンは崩壊し、遺跡には何もない。悪事を働く理由もないということで。ただし、それでも罪人は罪人だ。町から出る理由はない。今はステーキハウスの買い出しということで、夏井について行っている。
あの時を思い出す。
なぜ自ら、唯架に洗脳茶を渡したのか。
ヴァース増産プロジェクトは当然のものだった。アノニとしては唾棄すべき計画ものだが、指導者としての立場を保ちたいならば程良く、あと20年くらいは引き延ばしたいものだ。
……だから。後から見れば、金子達が赤ん坊を逃がしたのは最大のファインプレーだった。さらに後々、もう少しさりげなく協力すればよかったかも、とも思っている。赤ん坊を試験管から逃がした時、警備員がいなかったのはアノニが呼び出したからである。
(あいつらに任せておくとロクな手段を取らないわ……)
デイール達に任せれば、暴力的に従わせるに違いない。そうすれば唯架という女性は反抗するだろう。プロジェクトを延ばすという本来の結果は果たされるが、
それでは、あまりにも。
同じ女性として、望まないものは辛い。
洗脳薬を用意する。ばれないように、シナモンとブラウンシュガーでとても甘くして。
(……甘く)
いや、甘さではない。これは奴らにとっても利になる。ユイカが協力的になるのは望んだことだ。暴力に頼るよりも、遥かに従順になるだろう。
おまけにおいしくしてある。おいしさは万能。おいしいご飯を疑う人間はそうそういない。と黒髪の彼女が言っていた。そんな昔のことよく覚えてるね、と言われそうだが。
アノニ=ファティアは自ら、ユイカが収容されている部屋へと向かった。扉の向こうからは、案の定怒りの声が聞こえている。来てよかった。
「……これは。ファティア様自ら、この女に我らの崇高な目的を?」
「……全員、席を外しなさい」
そして、アノニは唯架へ一礼した。
「先ほどは、ディールが失礼をしましたね。事前に確認が取れなかったとはいえ、なにも知らないのは酷でしょう」
お茶を差し出す。
「どうぞ、こちらを」
唯架の視線は疑いで満ちていた。当然だ。できる限り疑われないように、静かに微笑む。
アノニの目論見通り、唯架はティーカップを取り、中のお茶を口にした。表情に苦味はない。ほっとしたように顔が緩んだとたん、ぼうっとした表情になった。
アノニは微笑を浮かべた。
これで、苦しむことはない。
アノニにとって最悪の男を複製してしまった女性は、何を疑うこともなく課された任務を達成できる。
同情、というのだろうか。使わなければならなかった。せめて、痛まず、穏やかに。
だから、これは慈悲の笑みなのだろう。
「……ノニさん、アノニさん!」
我に返る。
「ようやく着きました! 業スーですよ! 業スー!」
夏井は年甲斐もなく騒いでいる。元総統という肩書きや過去など、笑い飛ばしそうなほどの態度だ。
「とっても申し訳ないんですけど、わたしがチーズドッグを買いそうになったら止めてくれませんかー?」
そう言う夏井をぼんやりと見ながら。頷こうか迷ったその時、男が隣を通り過ぎた。
思わず男の顔を二度見した。
(ディール?)
元総統だ、部下の顔を見間違える事はない。ただし、
「……豚肉が安いか。しかしあのスーパーでは牛肉がやや安い……どうするべきか……」
呟いている内容があまりにも家庭的すぎた。別人とも思えるほどに。
そして、あの悪事を謀る気配は何もなかった。
「どうしたんですかアノニさん? ひょっとして、アノニさんもチーズドッグ好きなんですか?」
「……そうかも、ね」
「わー! おそろいですね!」
……今度こそ、ディールは死んだんじゃなかったのか。
けれど、何も言葉は掛けないでおいた。
他者を害す気配が微塵もないあの男は不気味だったし、何より。
溢れるほどの悪意が消える心的体験は、恐らく神業に匹敵するほど精神を揺るがしたのだろうから。




