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8話 反転の梁 前

 天井が足の下にある。世界は逆さにたわみ、血は律儀に頭へ集まって色を濃くする。朽ちた梁の継ぎ目から、水が一滴――ぽたり。音は薄く、苔のついた礎石に吸い込まれ、冷えの匂いだけが残った。


 祠の跡地。古く割れた木目は細い溝になり、蜘蛛の糸は霧のように細い膜を張る。剥げた朱は、形だけ神を名乗り、風化の方が道理を持っている。


「クソが……」


 リツの視界の端で、徹底的にだらしない顔がぶら下がる。剃り残しの髭。死んだ魚みたいな目。半開きの口にタバコ。全身で「世の中が面倒だ」と言っている。


「……おい、オッサン。そろそろ教えろよ」


「あ? だから、修行だって言ってんだろ」


 新聞の紙縁が乾いて鳴る。灰が一粒、石に落ちた。男は視線を上げない。


「マジでなんなんだよ……」


 掠れた独白が梁へ消える。納骨堂で固めた決心が、この男の腑抜けた顔を見るたびに、揺らいでしまう。

 リツの胸に、選んだはずの道への戸惑いが広がる。


「リツ、俺のこと睨んでもなんも変わんねーぞ。お前が訓練するって選んだんだろ、気合い入れろ」


「こんな拷問が待ってんなら選ばなかったって言ってんだろ!」


 声は天井に押し返され、逆さの喉で咳に変わる。端で腹筋を続けるアマネは心配そうにリツを見るが、真下の男は肩一つ動かない。


 この男が、今のリツの先生――マコトだった。


 リツはここ数日ずっと拝殿跡の梁に縄で逆さに吊られている。両腕は痺れ、腹の奥が焼けるように痛み、内臓がすべてひっくり返っていくような不快感。

 それに耐えられず身じろぎするが、縄が乾いて軋むだけ。湿った土と古木、タールの匂いが逆流し、鼻にまとわりついた。目を開けておくことさえ、苦痛だった。


「これのどこが修行なんだよ……っ。もう無理だって……!」


「いけるぞいけるぞー」


 無気力な声を無視して、リツは勢いをつける。上半身を起こし縄へ手を伸ばすが、腹が悲鳴を上げ裏切り、すぐに落ちる。


「無理だって!!!んだよこれ!なんの修行だよ!」


 絞り出した言葉は空気に溶けた。


「何回も言わせんなよ。お前、式律使えるようになって一人で生きていきたいんだろ? なら死ぬ気でやれよ」


「……何を死ぬ気でやるんだよ」


「身体を追い込むんだよ、死ぬ気で」


 抽象的な課題。

 身体は追い込まれ、上下の基準は不安定になり、鼓動だけが耳の裏を叩く。視界の端が黒く欠け、細い耳鳴りが一本の糸になって伸びる。リツ自身、身体は限界だと思うが、マコトの言う“成果”には、いまだ到達していない。


 新聞を読み終えたマコトは頭をぽりぽり掻き、タバコをくわえ直す。数回屈伸して座り直すが、それでもこちらを見ようともしない。


「式律ってのはな、死に臨んだときに魂が共鳴することで出せるんだ。まだ出せねーってことは、お前はまだ余裕だってことだ」


 状況を見もせずに、片手間で声をかける。


「限界だって!」


 声を吐いた途端、胸の奥に熱が籠もる。光がわずかに揺れ、梁の木口の古い鑿跡が、鼓動に合わせて脈打つ錯覚に変わった。

逆さに吊られて、もう九日目だ。

下から白い煙が立ち上がる。目がしみて、瞼をきつく閉じる。


「せめてタバコやめろオッサン」


 リツは一つだけ、現実的な願いを投げる。


「嫌だね」


 願いは空中で萎んだ。


***


 ――「リツも連れてくか?」


 二週間前。階段の踊り場で、センとカガチが足を止めていた。


「山頂の神社ねぇ」と、カガチが鼻で笑う。


 山の一語に、耳が勝手に立つ。無意識に二人を見つめるリツに気づいたセンは目配せし、カガチは振り返った。


 リツは軽く息を呑む。金の髪の奥、貼りつけた笑みの裏に、企みとも哀れみともつかない鈍い色。リツの脳裏に、砂時計が砕ける無機質な音と粉塵の光景が走る。


「行くわけねーだろ。バカか」


 虚勢で押し返す。


「……はやっ、まだ何も言ってないですよ」


 目を丸くしたカガチは、子どもみたいにすねて見せた。軽い。リツの目には、カガチの軽薄さが目立って見えた。

 あの日の納骨堂で見た顔と同じはずなのに、まるで人格が変わったかのように別人に映り、その差異にリツの肩が強張り、視線が泳ぐ。


 奇妙な沈黙が流れる。


「いくぞ、カガチ。時間がない」


 センが切り上げ、先に靴音が遠ざかる。

 リツも逃げるように自室に戻ろうと、背を向け歩き出した。その時、軽く肩を叩かれた。反射で振り向く。金の髪が間近に寄り、目だけが笑う。


「じゃあリツ。僕が帰るまで、勝手に死なないでくださいね」


 またも軽口。だが振り返れば、リツにとってあれが唯一まともな分岐だった。


***


「……行きゃよかった。クソが」


 吊られたまま吐き捨てる。後悔は喉に刺さる小骨だ。吐こうとするほど深く刺さり、違和感を生み、呼吸だけが荒くなる。


「カガチのほうがやべえ人間だろ」


 その悪態を受け取ったマコトは、寝そべり、仰向けのまま、眠気を惜しみなく見せながら、寝言のように呟く。


 隙だらけの佇まい。


「オッサン……マジで殺すぞ」


 煽られ、素直に応えてしまう。半分眠たげな目だけがこちらに向く。光は薄いが、わずかに焦点が戻る。


「すごんでも怖くねーな」


 また目を瞑り、腑抜けた顔に戻る。その風貌からは、師の格は微塵も見えてこない。


 リツは逆さの視界で、なぜあの時「やっぱり行く」と言わなかったのかと考えていた。


 出発の直前、カガチに連れられてきた男を見て、リツは本気で疑っていた。


「マコト、ほら自己紹介して」


 促された男は、俯き、歯を食いしばり、心底嫌そうに一言だけ言った。


「マコトです」


 無精髭。覇気のない目。前髪のふざけた髪留め。挨拶はそれだけ、浅い会釈。言葉を交わすより早く、正確に不安が育つ。


「一応、この人も式律使いだから、リツの訓練の手助けになると思いますよ」


 取り持つ声も、あの瞬間のリツには届かない。――なんだこのオッサンは。


カガチを初めて見たときの、こちら側とは思えない気迫。センにすらあった圧。彼には、それが一欠片もないように見えた。


けれど九日も経てば違う。この男の頼りなさは、すべて仮面だったとリツは知ることになる。


 遠征に出てからの九日、マコトの仕事はひとつ。毎朝現れ、押さえつけ、吊るす。余計なことは言わない。腹が減るころ解放し、また朝になれば繰り返す。


 三日目でリツは悟る。このままでは身が持たない。こいつが教えることに学びなどなく、ただ身につくのは拷問に耐えるだけの精神力。ならば出し抜くしかない。


 明け方、戸の後ろに身をひそめ、背後から飛びかかった――


「いつになく早起きだな」


 ひと言で終わる。視界が回り、頬が土に吸い付く。肘、手首、肩甲間、首、要所だけを正確に封じられ、抵抗が形になる前に空気が抜けた。


「離せよ!」


「うるせえぞ」


「おい、ちょ、なんでお前らみんな抱えるんだよ」


「ガキだからなお前は。こっちの方が早いんだよ」


 肩に担がれて廊下を運ばれる。抵抗は形にならない。ただ柱間を抜ける風の冷たさだけが、正確さを持っていた。そして――また吊られる。見慣れた天井。濡れた木目のシミが、嘲るように見えた。


 九日目。指先の痺れは、記号のように同じ場所で鳴る。痛みはさほど怖くない。リツにとって怖いのは、神経が無に近づいていくことだった。


「マジで無理だこれ以上は」


 漏れた弱音。身体の輪郭が自分のものから外れていく不安が、ようやく言葉の形を持つ。リツの声の湿りに反応したのか、マコトは目を開け、面倒そうに体を起こした。


 顔が近い。喉仏の振動が作る声が、リツの耳に真っ直ぐ入る。


「お前、なんで馬鹿正直に掴まんの? みんな遠征に行ってんだから部屋はいくらでも空いてんだろ。なぜそこを学ばない?」


 死んだ目と死にそうな目が合う。リツは少しずつ焦点を合わせていく。


「隠れても無駄だっただろ……」


 それだけ言って、目を閉じる。言葉は空に混ざって薄くなった。


 マコトは軽くため息をつき、タバコを咥え直し、手持ちのライターで火を移す。


「辛抱ないタイプなのか、はたまた現実が見れてんのか。お前はよくわからんガキだな」


 煙の向こうから、二指でリツの額を軽く弾く。


「何が言いてえ」


「期待はずれってことだよ」


「はぁ?」


「お前はもう少し頭を使うタイプだと思ってた」


 完璧な嘲笑。


 胸の浅い場所で、怒りとも悔しさとも違う棘がきしむ。自分の気持ちを理解していくと同時に、抜けていた力が戻ってきて、血が音を立てる。拳だけが先に熱を持った。

 この瞬間、マコトへ向ける敵意に、輪郭が与えられる。


 ――明日は絶対にぶっころしてやる。


「お前は学習能力がねーな」


「クソが……」


 だが結果は同じ。視界は外れ、縄の繊維だけ乾いて鳴り、下からは白い煙が立ち上る。


「なんで力で勝てると思うんだよ。真正面でかちあって、勝てる相手だと本気で思ってんのか?」


 マコトの服の下でも分かる身体の厚み。腕、肩、腿に刻まれた重さ。リツだって初めから知っていた。

 だから知恵に寄せて、真夜中に忍び込み、先に縛れば安泰だと踏んだ。


 結果は、先に起きていたマコトに出し抜かれ、羽交い締め。縛られ、朝になればまた天井。


「俺はオッサンがよくわからねえ、俺にどうしてほしいんだよ」


 冷えた頭は退路を失ったことを嘆き、素直な声だけが残る。


 覇気のない声を拾い、マコトが顔を上げる。リツの前髪を無造作に払う。額に手を当て、顔を安定させる。

 生気のない瞳と濁った瞳が向かい合う。だが、純朴な黒い目は微細に揺れ、焦点を結べない。


「はぁー、お前はさ」


 限界に近いのを見て取って、頭を抱え、深く息を吐く。潰れた箱からタバコを取り出し、火を入れ、紫煙をわざとリツの顔へ流した。


「おい、煙が……」


 立ち上る煙にむせ、涙腺が薄く滲む。


「バカの燻製してんだよ」


 口の端を歪め、火のついた吸い殻を落として靴で潰す。


「お前って意外と、人見知りなところあるよな」


 マコトは新たにタバコを咥え、そのままリツに問う。


「はぁ? なんだよ急に」


「つかみかかってくるけど、急所は避ける感じ。本能なのか、理性なのか知らんが、飼い主失ったチワワみてえ」


「チワワ?」


「必死に虚勢張ってるけど、何もわかんねーから、まあたふたしてる迷子のチワワ。てっきり、カガチが唾つけたガキなら、アイツの強さにあぐらかいた生意気なやつなんだろうと思っていたが、俺自身もお前がよくわからん」


「あ? どういう意味だ?」


 リツは怪訝に眉を顰める。だがマコトは顔色を変えず、新聞をちぎりはじめる。しゃがみ、リツの真下に紙屑の山を作る。ささくれ立つ紙音が、言葉の輪郭を曖昧にした。


「お前は多分爺さんに大切に育てられたんだろうな」


 その一言は、空気に紛れてリツの耳に届かなかった。


「おい何してんだよ」


「バカの燻製だって言ってんだろ」


 問いを無視して手を止めない。不安が募る一方で、形の良い山を作り上げる。


 見上げたマコトは、下卑た笑みを浮かべた。


「おいバカ!」


 さっき落としたタバコの火が紙へ移る。焦げの輪がじわりと広がった。逆さの鼻腔に煙が刺さり、涙腺が浅く滲む。肺の奥に薄く灰が積もる。

 視界の縁が霞み、音が遠ざかる。


 ――あ、やべえ。今回は本当にだめだ。


 意識がほどける直前まで、生気が戻ない目だけが、試験の答案でも眺めるようにリツを眺めていた。


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