7話 紡がれた命
「やあ、ようやく目を覚ましたようだね」
無機質な声。
門の刻文が仄白く瞬き、密度の違う空気が流れ込む。影から金の髪が滑り出た。まるで初めからそこに据えられていた像のように据わった立ち方――カガチだ。声音は穏やかで、目元の線だけが静かに揺れる。肩先の金具まできっちり留められ、礼装の重さが肌に乗っている。
「カガチ様!」
アマネが深く頭を垂れる。カガチはその肩を叩き、顔を上げさせる。
「ありがとう。もう、席を外して大丈夫ですよ」
「了解っす」
短い返事。アマネは一度も振り返らず、門の向こうへ消える。
供寂ノ間に、二人分の静けさだけが残る。カガチは出入り口の延長線上――帰路をさりげなく塞ぐ位置に腰を下ろした。
「……その目、やめてください。そんなに露骨に警戒されると、傷つきますよ」
リツの視線に気づいたカガチは冗談めいたことを言った。口の形はやわらいでいるが、声の芯は硬い。
「……あのあと、俺どうなったんだ」
「下山の途中、心労と疲労に加えて気圧の差が重なって、倒れたんですよ」
「倒れた……?」
「ええ。だから僕が師匠を、センがリツを抱えて、ここまで運びました」
カガチは石壁に背を預け、小さな砂時計を掌で転がして、近くの張り出しへ立てた。金の砂が細い糸になって落ち始める。部屋の音が一段浅くなる。
「長話は苦手でね」
カガチは砂へ落ちた視線に気づき、ひと言添える。
リツは瞬きをひとつ。砂の落ち際だけを見つめたまま、息を整えた。
「さあ、リツが知らなきゃいけないこと。知って、選ばなきゃいけないこと。ぜんぶ、お話ししましょう」
自然とカガチを見上げる。切れ長の目が、真正面から射抜いた。
「リツ、この世界の話です」
語り口は、絵本の読み聞かせのように穏やかだ。
カガチはまず、人差し指を立てた。
「リツが山で最初に遭遇した個体は、我々の分類で神獣・第四階層にあたります。成体になりたてで、人を喰わねば暴れ、手がつけられなくなる段階だと言われています」
「……第四階層……」
舌の上で転がしても意味は結ばれない。瞼の裏で“あれ”の輪郭が粘りつき、口内が砂を噛むみたいに乾く。
「神獣の起源は定かではありません。最古の記録は『四つ目の山羊』。祀られ、人を喰い、燃やされてもなお生き残った異形――とだけ」
燃やされたと聞いた瞬間、動物を焼いた匂いがふっと鼻腔を刺す。反射で山の最後の記憶が疼き、後頭部を寝具へ押し付けた。
「元来、神獣は“敵”でした。駆除せねば、全滅させねば――と、国中は一致団結して立ち上がった。けれど抵抗むなしく、すべて空振り。文明の力で抗っても、人は喰われ続けた。やがて人は力をなくし、気力をなくし、現実を受け入れるしかないと――救いを求め、信仰へ逃げたんです」
「負けたのか……」
「ええ。神獣は初めて人類の上に君臨したのだと、人類は負けを認めるしかなかった」
淡々と告げ、唇の端がわずかに持ち上がる。
「ただ、その数年後、突然転機が訪れます。神獣を受け入れ、人々の生活に定着しはじめた頃、とある島で神獣の“餓死個体”が見つかったんです。殺せない・死なないと言われたものが死んだ――その事実に、世界が震えました」
カガチはあえて言葉を止め、視線だけで促す。リツはわけもわからず、怖くなり、目を逸らした。
「だがその死は、突然変異でも神の怒りでもなかった。餓死個体を調べて分かったのは――神獣は喰う人間を選んでいただけだということ」
「……は? どういう、ことだよ」
初めて声に棘が立つ。獣の記憶が、餌の選り好みを否定する。
「神獣は無差別に人を喰っていたわけじゃない。最初に喰らった“血”に似た対象を優先して狙うだけ。その島で喰われた人間は、みな血縁者でした。その仮説は証拠の薄さを抱えたまま広がり、やがて一国が大規模実験に踏み切ることに。結果――神獣の食性は操作できるとわかってしまった。食事を用意すれば、他の人間には手を出さない、と気づいてしまったんです」
やわらかな声音で、無慈悲だけが積み上がる。
「最初、倫理で揉め、派閥は割れ、幾度となく討論されました。それでも国民は国の資産です。背に腹はかえられない。一部の国は先んじて動き、血統を選び、管理し、神獣に喰わせた。実験は大成功。神獣は暴れることなく、用意された人間のみを喰い続けたそうですよ」
今度は薄く笑った。目は冷たいまま。
「それから人類はそれに倣うように倫理を捨て去り、世界は『喰われる側』と『喰われない側』の境をいとも簡単に作りました」
「は?……」
落ちた疑問に、カガチは諦めを帯びた目線を注ぐ。
「喰われるために生まれ、死を前提とされた人間を――『贄子』という階層として定義づけました」
そう言うと、カガチは舌を出した。そこには唾に濡れた赤面に、太線と点の紋がぴたりと固定されていた。
「これは3歳まで生きた証。母体に喰われる個体の称号らしいですよ」
淡々とした声色が、結果的に最も残酷な告げ方になった。
「意味わかんねえ……」
リツは絶句し、拒絶した。山を降りれば、こんな世界が広がっているとは思いもしなかった。
そんなリツの絶望を悟り、カガチはまるで楽しい話をするかのように、今度ははっきりと笑った。
「人間は忘れますからね。最初を踏み出せば、あとは当たり前だと定着するもんです」
その笑みの明るさと告げられた残酷さが噛み合わず、頭のどこかで軋んだ音がした。
単に恐ろしかった。逃げ場を探すように、目を逸らすと、カガチの手袋が目に入った。
一瞬で、あの傷と、あの光景が蘇る。
「いや、でも、お前、あの時……簡単に殺したじゃねーか。全部ぶっ壊せば……」
あの時確かに殺していただろ。リツの胸に穿たれた“穴”の像が閃く。巨体が形の条件を失って崩れた光景が、脳裏で静かに反復される。
「ええ、式律を使えば理論上は簡単です。肉塊ひとつも残さず抹消することさえ、できます」
「それなら、あの化け物を一体残らず駆除するべきだろ。アイツらがいなきゃ、喰われる人間なんて作らなくて済む」
拙い理想を押し出す。
ただ、カガチの目は帳が落ちた井戸みたいに暗く、底が見えない。何を考えているのか一片も読めず、首筋がすっと冷え、リツは思わず視線を逸らした。
「ふふ。やっぱりそう思いますよね。あの化け物さえ壊滅させればいい。とても“単純な話”だと」
優しく言葉を紡いでいく。
「ただ、それをするには遅すぎたんです。そもそも式律は、最初に神獣に挑み、ともに消滅した祈祷師の犠牲の上に生まれた術式だと言われているのに、世界が安定し、共存の体制が整ってしまった現代では、式律は『神獣を統治し管理するための武器』に使われるという歪み」
「……どういうことだよ」
声は低いが、胸の内側に棘が残る。
「式律使いの意思を統一できなかった結果、待ち受けていたのは戦争だったということです」
跳ねる言葉に、息が詰まる。次の反論は喉もとで霧散した。知らない世界が遠くまで広がっている。
「でも、その式律使いってのがたくさんいるんなら、話し合って、あの化け物倒して、みんなで力合わせて――」
子供じみた提案だ。リツ自身も自覚はしていた。ただはっきりさせないと、この疑問は根を張り、自分の心を支配すると、リツは気付いていた。
「人間は変化を嫌いますからね。ようやく神獣との共存ができた現状を、また不安定にする。その先が幸福だとは、誰も言い切れない」
そんなリツの拙い理想を、カガチは優しく否定した。
「……よくわからねえ」
「一応、式律使いが複数いた小さな国では“撲滅すべきだ”という意見も出ました。ただ――」
「……なんだよ」
カガチは瞳に愉悦の色だけを置いた。
「その意見を申し出た団体の代表は、大衆の前で演説する日の朝。慈愛に満ちた人間たちに囲まれながら、ただ一人紛れ込んだ異端者――神獣を崇める熱心な教徒に射殺されたそうですよ。みんな、世界が変わると信じていたのにね」
「は……? なんで……人間が人間を殺すんだよ。」
「手遅れだったんです、この世界は」
すべてを知る者の言葉の重みだった。
砂時計の音が、残り僅かを告げる響きに変わる。
「……では、最後にリツの話をしましょう」
「生き返ったってやつだろ。ジジイから、耳にタコができるほど聞かされた」
ある日を境に、うわごとのように繰り返されていた話。今なら一語一句違わず言える自信がある。
「なら、リツの命がいま全世界から狙われていることも、ご存じですか?」
「……は?」
思考が空転する。リツの目が見開かれ、カガチはその表情を確かめてから、微笑んだ。
「知らなかったんですね。――少し安心しました」
砂は細く落ち続ける。
「これは、ある意味で第二の転機と言えるでしょう」
「いや、ちょっと、待てよ……」
リツの制止は簡単に受け流される。
「人類は倫理観を捨て、人間という種の下に贄子という階層をつくった。喰われるために生まれ、死ぬことを前提とされた命。だが――もし、その中に“死ねない個体”が現れたら?」
「……は?」
凝った空気が、筋肉の奥でこわばる。
「どれだけ噛み砕かれても再生し、死なない人間。その一体で、神獣に餌を無限供給できる。人間の管理も要らない。夢のような永久機関」
物を見るような目が、リツを捉えた。
「……おい、待てって」
願いは平らに弾かれる。
「君の生き返りに再現性があると証明できれば、それは兵器以上の価値を持つ。もちろん、君を狙う勢力は、『僕ら』の組織も含めて複数ある」
「おい、ふざけんなよ。お前、全部わかった上で……」
ずっと頭の片隅で引っかかっていた違和感が、ようやく形を取った。――自分は大事な何かを見落としているんじゃないかって。
なぜジジイが死んだその日に現れた男を、疑わなかったのだろう。託されたわけでもないのに、混乱の渦の中で「何でも知っていそうな顔」に縋っただけだ。
その自覚が、恥と怒りに変わって体の芯を熱くする。歯が噛み合わず、小さく鳴った。指先は汗ばみ、拳がじわりと固くなる。
リツは急いで距離を取ろうと立ち上がる。だが疲労を抱えた足がもつれ、石に膝を打った。
カガチは短く息を吐き、声の温度を変えずに屈んで視線の高さを合わせた。
「なにか勘違いしているようですが、話はまだ続きますよ」
「は? おい、ちょ」
カガチに、あの日と同じ手際で抱え上げられる。リツはできるかぎり抵抗するが、外見からは想像のつかない力にびくともしない。リツの抵抗など一つも影響しないような立ち振る舞い。
「おい、降ろせよ」
虚しい反発。カガチは抱えたままリツの顔をまじまじと見て、片眉だけをわずかに上げた。それから何か思いついたように視線をほどき、やわらかい声に戻す。
「そういえば、先日、師匠の骨を納めました。場所を変えて、そこで続きをいたしましょうか」
「は? なんで急に……」
「師匠に会いたくはないのですか?」
慈悲を装う目に煽られ、しばしの沈黙。リツは口を開きかけ、唇を噛む。行く理由は、とくにない。焼けば骨しか残らない。会ったところで何か進展があるわけでもない。むしろ、ここまで肝心なことをはぐらかされ、苛立ちの方が勝っている――それでも、混乱した頭の底だけがはっきり告げていた。
会って、文句を言ってやりたい。
「……わかったから、降ろして」
砂時計の砂が尽きる音が、ひとつ落ちた気がした。カガチは砂時計を懐へ滑らせ、静かに門を開いた。
***
白い霧が薄れ、線香と血の匂いが立つ。冷たい広間。無音の空気に支配された巨大な納骨堂。壁一面に灰の石板が並び、名がびっしりと刻まれている。床にも骨壺が整然と続き、そのいくつかには枯れた花と、まだ瑞々しさを保つ花が混じって供えられていた。色は少ないのに、手数だけが濃い。折れた茎を短く切って挿し直した跡、紙と紐で束ね直した拙い結び目。通っては供え、供えては去る手の往復が、時間の層として残っている。
名をたどる指が、ある一点で止まる。束ねられた花の何本かは、ついさっき置かれたもののように新しい。ここへ足を運ぶ誰かの体温が、まだ残っている。
――ジジイは、確かにいたんだな。
あざやかな花の色が、そう確信させた。
そんな見入る横顔を一瞥し、カガチの目からすっと温度が消える。次の一言で突き落とすつもりの、平らな視線。もちろんリツは気づかない。
「ここは政府に抗い、神獣に喰われ、政府に狩られ、命を落とした者たちの墓所です。……そして、選ばれなかった弟子たちの最期でもある」
カガチが視線を落とし、リツもつられて下を見る。足元には小さな骨壺が並び、中央だけがガラス張りで、中が垣間見えた。
「……っ……」
理解した瞬間、息が止まった。小さな胸骨――子どもの骨だ。みぞおちがきゅっと縮む。
「師匠は、リツを守るために戦線を離れました。代わりを務めた僕らでは足りなかった――それが現実です。ここは、師匠に見捨てられた命の吹き溜まりでもある」
「……待てよ。俺なんか、別に選ばれてなんか――」
「いえ、選ばれたんです。彼らが死に、君が生きた。君が選ばれたことで、彼らは供物になった。ある種、彼らはリツにとっての贄子だったということですね」
「……別に俺はそんなこと――」
望んでない。
皮肉めいた言葉に、リツは声を荒げた。だが語は途中で砕け、空気だけが胸を出入りする。膝裏が冷え、花の香りだけが薄く残った。気圧の変化によって、思考がショートし、浮かべた語がはじけ、口が乾く。
それでもカガチは、慰めも容赦も置かず、畳み掛ける。
「……僕も、答えが欲しかった。師匠は『後にわかる』とだけ言い、僕はその言葉を信じて何十人も見殺しにした。師匠の名を叫んで死んだ仲間もいる。恨み言を吐きながら逝った仲間もいる。――それでも君が生きているという事実が、彼らの死の意味を変えうると、まだ信じている。だから僕はここにいる。君の命は、数多の屍の上に成り立っているんです」
「ちょっと待てよ……」
膝を抱え、息を吸う。冷気の底へ肺に沈んでいく。
だがやはりカガチは止まらない。
「リツ。だからこそ簡単には死なせませんよ」
短い間が落ちる。
「君に残された選択肢は二つです。このまま二人で隠れて生きるか。式律を学び、自分の意思で立つか」
「……どっちも“お前と一緒”じゃねえか」
悪態。だが声の芯は折れない。カガチは口角をほんの少しだけ持ち上げた。目は相変わらず真面目だ。笑ったのに、真顔の熱が残っている。
「今の君は、一人では生きていけません。式律がなければ神獣に食われ、運が良くても人に捕まる。どちらに転んでも地獄です。だから――師匠の代わりを僕にさせるか、一人で立つ術を身につけるか。どちらがいいですか?」
埃の匂いの向こうで、ジジイの声がよみがえる――『自分で選べる人間』。
俯き、考え込む。頭の中はぐるぐると回り、まともな答えに手が届かない。目を瞑り、頭を抱え、何度も息を吐く。
ジジイが死んでから、目まぐるしくすべてがやってくる。どうしてこうなった、何で教えてくれなかった――と憂いても、そこから先は何も生まれないとわかっている。
ジジイが死に際、慌てたように何度もしていた、俺の生き返りの話。あれに答えがあるってことだろうか。
出口のない沼に落ちたリツを見て、カガチはそっと耳へ口を寄せた。
「リツは神獣に喰われたいですか?」
その一語で、あの額の第三の眼がまぶたの裏に薄く重なり、喉の力だけが抜ける。カガチが来なかった世界線。自分はいとも簡単に、あの化け物にジジイ諸共喰われていたという真実。
逃げ場を探していた思考がそこで止まり、さっき見た金の砂が頭の奥でぴたりと止まった。
折れたんじゃない。折れないために、刃を握る方を選ぶ。
リツは長く息を吐いて、顔を上げた。
「……わかったよ。じゃあ、教えろよ。式律ってやつを」
降参じゃない。自分で抜いた刃の音だ。言い終えた声がわずかに震えたが、カガチは嬉しそうに笑った。
「承知しました。君が知りたいと選んだのなら」
カガチの目の奥でわずかに何かが光った。背筋を冷たい指でなぞられる感覚。心臓がひとつ跳ね、リツは無意識に息を止めた。瞬きすると、そこには見慣れた薄ら笑いのカガチがいる。
――勘違いか。そう思った刹那、
カガチは懐から砂時計を出し、握りつぶした。「パキ……、パキ……」と、ガラスが粘るような、悲鳴みたいな音が聞こえてくる。
「……は?」
砕けた砂とガラスの粉。割れ縁で指先が浅く裂け、血が一滴混じる。カガチの指先から、絶え間ない一本の黄金の線が零れ落ちた。それは円を描き、小さな骨壺たちを囲む、厳かで冷たい結界のように見えた。
「な、何してんだよ、お前」
「供養ですよ。ようやく始まるという知らせです」
砂が靴裏でかすかに鳴った。リツは足を上げられない。――踏み越えたら戻れないと、体が先に理解していた。