6話 供寂ノ間
場所は変わる。
世界のあらゆる座標からこぼれ落ちた『存在しない空間』がある。
式律の裏側――人の認識と因果の連結を断ち、隠匿のためだけに編まれた結界領域。
名は供寂ノ間。
かつて一人の式律使いとその弟子が共に築いた場所だ。
外界との接続は絶たれ、記録は残らず、式の環も届かない。出入りはただ一つ、門。ふたりの名に紐づく術式でのみ開く。
ここでは誰も、誰にも触れられない。
眠るためだけに用意された、世界から切り離された“穴”。
そこに少年――リツが横たわっていた。
***
夢を見ていた。
深い雪。冷たい森。手を引く温もり。
隣にはジジイ。ふたりは無言で、ただ同じ方を向いて歩いていた。
音がない。呼吸すら、雪に吸われる。
それでも沈黙は温かかった。
「……ジジイ」
呼ぶと、ジジイはふいに振り返り、ほんのわずか笑った。
「リツは長生きするんだよ」
「俺は……ジジイに聞きたい……まだ」
言葉がたどたどしく、うまく紡げない。焦りだけが先に立つ。
「待ってくれ」
リツはジジイの裾を掴む。
次の瞬間、粉雪が視界を覆い、つないだはずの手がすり抜ける。
「……ま、っ……待って……」
声にならない声。掴んだ空は、指の間で裂けただけ。
瞬きを数えるうちに、ジジイは消えた。
「……っ、は……」
冷たい空気が喉を刺す。リツは静かに目を開けた。
夢と現の境目で、一瞬、呼吸の仕方すら忘れ、慌てて数回、深く息を吸って吐く。指先に遅れて血が戻る。
灰色の空。石の構造。奥行きの定まらない壁。
音が吸われ、時間が薄い。
「……どこ、だよ……ここ……」
声は、舌で転がる前に砕ける。夢の残像はまだ眼の裏に貼りついている。
気配のないこの場所で、もちろん答えが返ってくるはずもない。
リツは目を閉じた――そのとき。
「――起きたっすか?」
不意の声。石壁の陰から、少年に見える者が顔をのぞかせた。
短く刈った黒髪、日に焼けた褐色の肌。幼さを残すのに、立ち姿の重心は低い。声は軽いが、少し低めに抑えられていた。
「三日、寝っぱなしだったっすよ。心配しました」
リツは起き上がりもせず、ぼんやり視線を向ける。
「……誰だよ」
掠れた声。睨みでも詰問でもない、ただの問い。
「アマネっす。カガチさんに頼まれて、見張り――じゃなくて、身の回りのお世話を」
気まずげな笑み。目線は低く、手は落ち着きなく動く。
野で育った勘は、その明るさの裏に“仕込み”の気配を拾う。寡黙なジジイと二人きりの暮らしで身につけた勘だ。
リツはざわつく神経のまま、無意識に測った。肩の線は薄い。腰のベルトが余った布をきゅっと寄せている。足裏の置き方が静かで、筋肉より腱で動く小さな獣のような身のこなし。
……ただの、変な子供だ。
「……お前……何してんだよ」
静かな問い。正面から受け、アマネは一拍、息を呑む。
口角を上げ、挑発に見えない距離と目線。まず両の掌を見せ、右袖をまくる。ここで距離は詰めない。荒立てないための作法だ。
「見てください、これ」
アマネの腕には歯型があった。人のものではない。噛みちぎられ、押しつぶされ、無理に繋がれた皮膚。
手首は骨ばって細い。爪の縁まで整っているからこそ、その異物感だけが目に刺さる。
「昔、ちょっとだけ喰われたっす。……リツさんほどじゃないっすけど」
「……は?」
わけもわからない。だが視線は傷痕に吸い寄せられる。
歯の間隔、肉の潰れ方――人の噛み跡じゃないと体が先に理解し、息が詰まって喉がひとつ鳴る。
得体の知れなさの輪郭をとらえた瞬間、山の化け物が脳裏で牙を剥いた。
「……急に、何見せてんだよ」
声は低い。怒鳴りではないが、鞘に入った刃の硬さがある。
アマネは短くうなずき、袖を静かに戻した。目線をわずかに落とし、半歩だけ間を空ける。追い立てない。
「いや、俺も同じだって、知ってほしかったっす」
アマネは喉を湿らせ、声の芯だけを和らげる。
目を細め、リツが横になる寝台のシーツを、手持ち無沙汰に指先でなぞった。
「……俺、ずっと普通になりたかったんすよ」
「……?」
「でも無理だった。生まれも、名前も、全部、選べなかった」
唐突な言葉に、リツは目を見開き、ゆっくりと身を起こす。
矢のように刺さらない。壁に当たって――重さだけが足元に落ちる種類の告白だ。
アマネは、ふっと笑う。
「リツさんは……なんか、違うっすね。ちゃんと怒れるし、疑えるし、拒める。それって、すごいっすよ」
「……あ?」
褒められているのか貶されているのかも分からず、眉が寄る。言い返す語は、雪に埋まったみたいに出てこない。
考えることすら苦痛で、身体もしんどい。息をすることさえ拒む錯覚に沈む。リツは俯き、もう一度、身を横たえた。
ぽつりと零れる。
「……俺、これから……どうすりゃいいんだよ」
これは弱音ではない。選ぶ場へ引き出される者の、最初の音だ。
アマネは少し目を伏せ、慈しむような眼差しを向ける。
「――それは、カガチさんが教えてくれますよ」
そのとき、供寂ノ間の空にさざ波が立つ――石の刻文が一瞬だけ淡くきらめき、消える。門が開いた。ここでは許可と名だけが鍵になる。
アマネはすっと立ち上がり、姿勢を正した。動きは軽い。
リツは反射で身を起こし、わずかに身をこわばらせ、息を整える。胸の内で、夢の残光が小さくひび割れる。
金色の髪が、静寂を裂いて現れる。
その男は、まるで最初からそこにいたかのように、すっと立っていた。