4話 冬は音を返さない
風が止んだ。
鼓膜が内側から圧される。音ではない。空気そのものが震えている。
リツは思わず耳を塞ぎ、カガチに視線を送る。
しかしカガチは森に目を向けたまま、親指と人差し指で輪を作り、遠くを覗く仕草をしながら、呑気に呟いた。
「……あはっ、汚ねえ顔だ」
カガチの視線の先――日が差す向こう、一面の雪が色を失い、木々が沈黙する。その奥に、言葉を持たない「何か」がいる。
「リツ。走れ」
その一言で、全身に電気が走る。リツは亡骸を抱え、雪を蹴った。
背後で、森が音もなく潰れていく。
「リツ、気になるでしょうが、振り返らないでください。……目が合えば喰われますよ」
「そんなこと言ったってよ!」
足はもつれ、息は荒い。背の亡骸の匂いも、意識の底へ沈むほどに、ただ走る。
背後では、カガチが視線だけで牽制しながらついてくる。
斜面はここから一気に落ちる。踏み抜けば膝まで沈み、雪庇の下で岩が角を出す。露出した根に薄い氷の皮膜が張る。リツは亡骸を胸に固定し、長い脚で段差を跨いだ。滑れば脛で雪を割り、幹に肩を当てて向きを変える。帯は肩に食い込み、肺は火を噛む――それでも背丈の分だけストライドが効いて、速度は落ちない。
小尾根をひとつ落ち、薄い沢筋を二つ跨いでいく。白い斜面に刻んだ足跡は、風に撫でられてすぐ輪郭を失う。同じ木の列が何度も後ろへ流れ、雪庇が小さく崩れる音が二、三度。息は四拍でようやく入り、腿の内側が焼けるように重くなる――それでも、脚は止まらない。
「なあカガチ、さっきから――あの足音、近づいてねえか!?」
「ええ。幼体を潰された怒りでしょう。すごい顔して追ってきてます」
「カガチ、どうにかしろよ!」
「簡単に言いますねえ」
体力のあるリツの肺さえ、焼けるように痛み始める。
「あとどれぐらい走ればいい?」
山は次第に下りにさしかかり、急斜面が続く。最短距離で逃げているから足場は悪い。力を抜けば、すぐにも足が絡まり転ぶだろう。
「あの母体が諦めるまで?」
「いや無理だろ。このままじゃ逃げ切れねえ。先は岩場で、簡単には降りられないようになってんだよ」
「えー……」
気怠い吐息。走りながら、カガチはポケットから小型端末を抜いた。指が驚くほど無駄なく動く。
「セン、応答して。母体と遭遇、現在逃走中。座標を送ります」
数秒。機械越しの、乾いた声。
『了解。座標確認。三分で到着』
「……いつも思うけど、早いですねえ。電話、待ってたでしょ」
『物理法則の制約下にある限り、移動時間は最適化可能。……問題はカガチ、お前の立ち回りだよ』
「はいはい……いつもどおり、お願いしますね」
通話を切ったカガチがふっと立ち止まる。つられてリツも止まり――無意識に振り返ってしまった。
「はっ……?」
森の向こうに、在った。
最初は岩だと思った。山肌がせり出しているだけだと。
――だが、その「岩」が、瞬きをした。
巨大な眼球。濡れた球体がこちらを覗いた瞬間、肺が潰れ、心臓が爆ぜるように暴れた。耳鳴りが世界を覆い、膝が勝手に笑う。
全体を見ようとした途端、視界はぐにゃりと歪む。どこまでが身体で、どこからが空間なのかがほどける。形を理解しようとするたび、脳が焼ける。
唯一わかったのは――口が四つある。爪のような硬質の縁が震え、黒い液が滴る。臭気が雪を溶かし、喉を焼いた。
目を逸らしたいのに、逸らせない。視界の制御が利かなくなり、知覚するだけで心が削がれていく。
身体ごと奪われていく感覚。
その化け物が、リツの背の亡骸をじっと見ていた。
「カ……ガチ……」
声にならない。
カガチは顔色ひとつ変えず歩み出た。
「よく見ていてください、リツ。僕とアイツの相性の悪さを」
カガチは手袋を外し、片手を前へ差し出した。手首は細く、白い皮膚の下で骨がはっきり輪郭をつくっている。寒気に透けるような色の上に青い筋が薄く走り、その延長の人差し指が第一関節で深く裂けていた。古い傷の斜線がいくつも重なり、いまも赤が爪先からぽたりと落ち、雪に小さな黒点を咲かせる。整いすぎた所作に似つかわしくない、その一点だけが粗い。
息の抜けた胸の奥で、リツの視線だけが勝手にそこへ吸い寄せられた。意味はわからない。白と赤の対比だけが目に焼きつく。
カガチはその裂け目を風に晒したまま、指先で空をひと筋、撫でた。
『中式・線界』
カガチの言葉に、一拍音が消えた。雪片が途中で止まる。
次の瞬間、空間に髪の毛ほどの白い筋が走り、そこから物だけが遅れて割れる。
母体の胸が紙を裂くみたいに静かに開き、内臓の重みだけが遅れて落ちる。
断面は乾いたガラスのように滑らかで、胎膜に濡れたものがどっと溢れ、蠢いた。
「……うわあ、気持ち悪い」
カガチが顔をしかめ、顎を引く。
その一方で、ぱき、と指の古い裂き傷が同じ角度で割れ、血は滴りながら薄膜を作り、第一関節から先が、鈍く動いていた。
カガチの指に赤い線が一本、増えている。
「このようにですね、どうも僕の式律は、過程をすっ飛ばして結果だけを切り出すので、幼体を吐き出す母体には不向きなんですよ」
ふざけた声色。足元の蠢きに、困ったような笑みを落とす。
「は……」
だがリツの口から漏れたのは、それだけ。血のような液を滴らせる幼体たち。生き物の形をしながら、命の匂いがしない。吐き気がするほど異質。
リツの膝が抜ける。抱えた遺体が手から離れ、そのまま頭を抱えた。震える指が顔を覆う。
「なんだよ……なんだよこれ……」
カガチはちらりと見て、手袋に手を通しながら、小さく息を吐く。
「ああ、さすがにキャパオーバーしちゃいましたか」
俯くリツの顎に手を添え、無理やり顔を上げさせる。
「理解しなくていいですよ。次第に分かるものですから」
すべてを知っている含んだ笑みが、リツの視界を満たした。
そのとき、斜面の上方で地がわずかに沈む気配が走った。音ではない、圧だ。
斜面が崩れ落ち、その中央に黒衣の青年が立っている。黒髪、隈の浮いた瞳。背後で空気が粒子となり、世界の縫い目がほどけていく。
――セン。
「重力場を歪めた。……代償に靴が溶けた」
一歩。淡々と手をかざし、低く囁く。
『初式・塵廻』
灰色の帯が足元からすっと走る。粉塵が帯に吸い寄せられ、地面に一本の線が縫い込まれていく。
帯の中だけ地が急に重くなり、形になりきらない幼体が音もなく沈む。ぶくぶくと脈打っていた穴も弱まり、湿った土を踏み固めたように平たく膨張し、ぶちぶちと爆ぜた。
「おお、さすが」
カガチが軽く拍手する。だがリツは顔を背けた。それしかできない。
「帰るぞ、カガチ」
センが咳払いをしながら短く告げる。
頭を抱え、膝を抱き、うわ言のように繰り返すリツを一瞥して、センは溜息をついた。
「……帰る……帰るんだ、山に……」
「セン、ちょっと待ってて」
渋い顔のセンを、カガチが制した。
カガチはリツの前でしゃがみ込み、肩に手を置く。言葉を選ぶように間を置いて――
「リツ」
優しく声をかける。
「……行かない」
即答。涙に滲む目が上がる。
「俺は外なんか知らなくていい……。ジジイと暮らした山で、生きていく……」
カガチは小さく笑い、すぐ真顔に戻る。
「でもね、リツ。あの山はもう化け物の巣ですよ」
残酷な正論。言葉の意味が飲み込めず、瞬きが増える。
「あの化け物は、この世界では神獣と呼ばれているんですが……神獣には、一度喰らった人間を“追い続ける”習性があるんです。体の一部でも、血でも。味を知った獲物を、奴らは執念深く、必ずまた狙う」
「……っ」
「師匠が残した匂いを、アイツらは追い続け、待ち続けるでしょう」
巨口の記憶が閃く。亡骸を咥え、存在しない血を垂らす姿。
リツの揺れを逃さず、カガチが囁く。
「リツも聞いたことがあるでしょう。一度儀式で喰われた男の子が、生き返った逸話を」
喉が鳴る。
「もし仮に、その時の神獣が匂いを辿り、リツに行き着いたとき――リツはそのまま喰われるでしょうね」
「やめろ……!!」
怒鳴りは空にほどけるように散った。
カガチは飄々と、一貫して続ける。
「リツ。君は師匠に生かされてきた人間です。そして今、その役目は僕に代わる。僕に生かされる人間にならなきゃいけない」
目が見開く。カガチは一歩近づき、リツの耳元に口を寄せ、声を落とす。
逃げ場をなくすよう、一語一句聞き逃さぬように。
「神獣はね、肉を“食う”というより、血を“呑む”に近いそうです。だから丸呑みはしない。個体によっては、時間をかけて少しずつ咀嚼し、食事として楽しむ。少しずつ少しずつ自分という一部が喰われていく感覚――どれだけ苦痛でしょうね」
「……っ」
リツは自分がその対象になる情景がちらついた。心臓が跳ね、呼吸が乱れる。
「それに、リツ。知りたくはないのですか?」
「……なにをだよ……」
「――この世界の理を」
カガチの声は真剣だった。
「どうして“あの儀式”で生き延びたのか。師匠は何者なのか。師匠がなぜ君を育てたのか。……全部、教えてあげる。ついてくれば、ね」
温かく、冷たい。相反する笑みがそこにある。
そのとき、山の奥で、鹿の群れが鳴いた。リツの脳裏に、日常の記憶がどろりと溢れてくる。
あの家で生きてきた音――薪のはぜる音、椀を滑らせる小さな擦過、ジジイの咳払い。
削れた山。根から折れた木々。黒く焼けた雪の筋。
鼻にまとわりつくのは、焦げた樹液と鉄と、知らない匂い。
リツは、もう自分がいた場所はどこにもないのだと、遅れて理解する。
もうどこにもない。冬は音を返さないのに、胸の内側だけがうるさく鳴る。
リツは亡骸を抱え直す。
風が斜面を撫で、雪面のひびを優しく均した。振り返らない。振り返れば、今の自分が崩れると知っているからだ。
リツは一歩を置く。白に深く、確かな一歩を。後ろで二つの影が、間隔を空けて続いた。細い三本の線が、森を離れていく。
もう山に帰っても、元の生活はどこにもない。
その事実だけが、雪の下で冷たく、確かだった。