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3話 母体

 数機のドローンが低空で円を描く。赤い点滅だけが雪面を縫う。

 カガチは、それらを目だけで数を取る。


「リツは知らないでしょうが、化け物を殺す行為は、この世界そのものへの背信にあたります。つまり因果カルマを背負うことになる。あのドローンは世界の意志の延長――護り手です。やつらに見つからずにアレを倒すのは不可能。かといって邪魔だからと全部壊せば、この世界全体を敵に回すってことです」


「……は? 何言って……」


 カガチの流れるような言葉が耳から抜け、意味が結ばれない。


 それでもカガチは眉ひとつ動かさず、想定内とでも言いたげに、困惑するリツの前に手を差し出した。


「リツ、世界を欺く覚悟はありますか?」


「世界? 欺く? ……何だよそれ」


「そのままの意味ですよ」


 カガチが優しく微笑む。


「いや……」


 急に視界がかすむ。覚悟がぐらつき、言葉が出ない。


 リツにとって「世界を欺く」という言葉は大きすぎた。狭い輪で測ってきた物差しでは届かない。目の前の男が少し遠く見え、いま自分がどこに立っているのかが一瞬わからなくなるほどだった。

 リツは視線でカガチに答えを求めるが、カガチは追い打ちも補足もしない。ただ待つ。顔色は変えず、まばたきの間隔すら乱さず、リツの目だけをまっすぐ捉えている。

 

 その無表の静けさに追い立てられ、今度は答えの端を手繰るように、布の下の眠り顔を覗いた。冷えは一段と深く、皮膚は石のように硬くなっているのが見てとれた。


――ああ、腐り始めてる。


 遅れて、匂いが地の底からしみ上がる気配。甘く腐れた獣の臭いだ。


そして同時に思い出す。昨夜、掟を口にした声の温度――『ワシが死んだら、すぐに燃やしてくれ』。


それはこの時を見越した戒めだったのか? 今さら問い直しても、応える声はない。


考えを追い立てるように、外で何かが這う。湿った摩擦が木肌を擦り、さきほど空を裂いた鳴きの余韻は、なお胸骨の裏で細く震えている。あれに老人が喰われる情景を思うだけで、腹の奥がひきつる。

ジジイの身体が、あの口へ渡る――。

そんなこと、黙って見てられるのか?


 散らばっていた破片が、ぴたりとはまっていく。最期に託された願いぐらいは、叶えてやりたい。固まった意思を確かにするために、リツはゆっくり吸って吐いた。冷えた空気が頭の熱を引き、昂ぶりだけが薄れる。望む一点なら掴めるかもしれない。

 考えに沈むリツへ、カガチは真正面から視線を置き、言葉を落とす。


「リツ。僕の手を取って、共に立ち向かいましょう」


 今日初めて会った人間相手に、馬鹿げたセリフだと思った。それなのに、リツの胸に深く落ちた。


――『リツ、お前は立派な人間になるんだよ』

  『立派って何?』

  『自分で選べる人のことだ』


「……くっそ」


 何もわからない。ただ、ここで終わる気はない。生き延びるには、この手を借りるしかない――その一点だけは、きっと揺らがない。

 唇を噛み、汗で滑る掌で、その手を掴む。爪が皮膚に沈むほど強く。

カガチはわずかに目を細め、嬉しげに口を開いた。


「じゃあリツ。――歯を食いしばって」


「は……?」


 腰をさらわれ、視界が跳ね上がる。カガチの身体からは想像できないほどの力で思い切り投げられ、全身が放物線を描き、梢を越える。空と木が流れ、胃がふわりと浮いた。


 思考が切れた空白に、声だけが鮮やかに届く。


「リツ、撃て!」


 それで十分だった。宙のまま、リツは猟銃を構える。化け物の顔の横を飛ぶ銀色の球体――一機に照準を合わせる。


 引き金。火花。反動。乾いた破裂は雪に吸われ、銀の球体が弾け、雪に貼り付くように墜ちた。


 まるでそれが合図だったのか、木陰に潜んでいた化け物がぎらりと姿を現し、小屋めがけて突進してくる。


 空中で姿勢が崩れ、視界が回る。背から深い雪へ叩き落ちるまで、リツはただその光景を見るしかなかった。


 化け物は足元で罠に触れ、乾いた閃光が連鎖して花開く。枝のような脚が吹き飛び、千切れた断面が生々しい層を晒す。金切り声が森の静けさを裂いた。


 小屋の前のカガチは仁王立ちのまま動かない。リツが見ていることに気づくと、予定調和のように悠々と手を振った。


――この男、ドローンが全部片付くまで動かないつもりだ。


 


「くそっ、くそっ……!」


 リツは雪を転がって木陰へ身を滑らせ、揺れる球体を次々と撃ち落としていく。やがて最後の一機になったとき、リツは気づいた。


 三つの目が、すべてリツを見ていた。


 腹の底を握り潰される感覚。喉がひゅっと縮む。


「リツ、小屋に!」


 声に背を押され、リツは雪を蹴って滑り込む。刹那、入口へ伸びた腕が壁を薙ぎ、耳のすぐ後ろでぐちゃりと肉が擦れた。振り返れば、叩きつけられた肉片が雪に落ちている。


 ――でかすぎて、自分の腕の長さも把握してねえのか。


 くだらない感想がかすめた瞬間、巨体がひと跳ね、宙に浮く。裂けた口がこちらへ開いた。


「あ……」


 間に合わない。喰われる――そう思った、その時。


 鼓膜の奥が細い刃で撫でられたように痺れた。シュッ、と空気が線になり、瞬きの間に化け物の胸へ拳大の穴が穿たれる。煙も閃光も呪詛もない。ただ“穴”という結果だけが、そこに在る。


「……は?」


 よろめいた巨体が雪へ沈む。いつの間にか、カガチが化け物の背後に立っていた。手はポケットの中。


「お前……今、何した?」


リツは、弾丸が貫いた「穴」ではない、不自然な空間を見つめる。


「触っただけですよ」


 はぐらかす口ぶり。穴は分厚い肉を貫き、ずっとそこにあったかのように平然と浮いている。血も、肉の繊維も、何も流れ出てこない。まるでその部分が、最初から世界に存在しなかったかのように見えた。


「これ……死んだのか?」


 拍子抜けしたリツを横目に、隣でカガチは薪を手にする。


「リツ、師匠を火葬して、さっさとここを離れましょう」


「なあ、こいつ……本当に死んだのか?」


「さあ? そいつらにとって死が何なのか、こっちの常識は通用しませんよ。定義すら曖昧ですし」


 怯えを抱えきれず、リツは巨体を見下ろし続ける。脳裏に、遠い昔、罠にかかった熊が浮かんだ。


 しっかり距離を取り、熊を銃で撃ち、倒れたあと、血抜きをしようと刃を当てた瞬間、死に損ないの牙が腕を噛み砕こうとした。死んでいたはずが、生きていた。確かに心臓は止まっていたのに、どうしてか熊はリツの腕を噛み潰した。


 それ以来、リツは生き物の底知れなさが怖く、確かめないと落ち着かない。


 開いた穴を凝視する。血が出ない。心臓は別の場所か。この大きさなら、ありうる。


――『リツ、中途半端なことはするな。だから熊に腕を食いちぎられそうになったんだ』


 叱声が脳裏をよぎる。狩りは一挙手一投足、丁寧でなければならない。手順を間違えれば、差し出されるのは自分の命だ。


 震えを抑え込むように、リツは無意識に腰のナイフを抜いた。ためらいはない。ほとんど反射だった。刃がぬるりと沈む――のに、手応えがない。さらに入る。カツン。硬い何かに当たった。


「……なんだこれ」


 カガチの眉がわずかに動く。


「リツッ!!」


 顔を上げた瞬間――


「キャアアアアアアアアアアアアアア!!!!」


 脳髄を焼く、金属を削るような悲鳴。倒れた巨体の口から漏れ続ける。喉でも肺でもない、体内のどこか別の場所が叫んでいた。


「おい……なんだ、今の……」


 カガチの目だけが冗談を捨てる。


「リツ、あなた……触っちゃいけない器官に触れましたね。鳴芯めいしんに。仲間を呼ぶための器官ですよ」


「は……!?」


「リツ、師匠を抱えて。今から来ます」


「来るって……今度は、何が?」


「――こいつの母体です」

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