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2話 地下の提案

 男は笑みを貼り付けたまま、一歩ずつリツに近づく。つられてリツは斧を硬く握ったまま、後ずさる。


「先に答えろ。何者だ、お前」


「それはこちらのセリフですよ。――なぜ、師匠を燃やさない?」


「は?……」


 男の視線は小屋へ滑り、問いは宙に浮く。


 周囲の音が一段薄くなる。リツは本能で斧の柄を握り直す。

男は屋根の縁から軽く跳び、音もなく雪へ降りた。足跡は浅い。


「カガチといいます。師匠に頼まれまして……君を迎えに」


 穏やかな声なのに、底が見えない。皮膚の下が冷え、ぞわりと逆立つ。敵意とは違う。だが明らかに、こちら側ではない雰囲気。


「師匠?何言ってんだお前……」


 訳がわからず、リツはそう漏らす。


 その時、空が鳴った。


――バチィン。


 雷でも地鳴りでもない、何かの鳴き声が森を貫く。雪が揺れ、木々が震え、足元から圧が立ち上がった。


「おい、なんだこれ……」


 思わず斧を落とし、耳を塞ぐリツの隣で、カガチは空を見上げ、口元だけで笑う。


「ほら。すぐに燃やさないから、降りてきた。匂いの核が、ここだとバレたんですよ」


「匂いの……核?」


「リツ、家に入って師匠の遺体を死ぬ気で守ってください。今から、師匠の取り合いが始まります」


「取り合いって……は?」


――ズズン。


 戸惑うリツを急かすように、雪を踏む重い音が迫る。

それはどんどん二人に近づき、止むと木陰を割って、のたうつ巨大な首が現れた。

鱗とも皮膚ともつかない粘膜が光を吸い、滴を落とす。


「……は?」


 言葉が止まる。


 苔のような皮膚が波打ち、目と思しき球体が三つ、ゆっくりと開く。

だが、それらは焦点を合わせず、ひとつがリツを、ひとつがカガチを、残るひとつが小屋の奥の遺体を射抜いた。


 巨体は老人の亡骸に気づいていた。

 

 ジジイを見ている――。


 背骨が冷え、理解より先に脚が動く。リツは何もかも捨てて走りだし、地下室へ。昔、命じられて掘った寒く湿った穴だ。重い扉を背で閉める。外では木が薙がれ、地鳴りが続く。


 リツは冷たい石床に座り込み、遺体を抱え、腕に力を込めた。


「なんなんだよ、マジで……」


  

 荒い呼吸が胸を焼き、埃の匂いが鼻を刺し、頭の奥で遠い記憶がざわめき始める。


――シャキッとせんかい、リツ。生きるってのは喰うことや。喰うには殺さんといかん。腹を括れ。

――できないよぉ……


 肩が耐えきれず膝をついた昔の訓練。泣いても逃げても地下へ押し込まれ、銃を持たなければ、鹿の眼前でナイフを握らされた夜。骨を断つ音、鉄の匂い。生きる手順は、ここで何度も体に刻まれてきた。


 だが、リツは今、得体の知れない化け物を前に震えている。


「くそ……くそ……」


――ズズ……。


 外を這う音。匂いを辿る獣の気配。吐いた息だけが暗闇に薄く散る。


 あっちへ行け。あっちへ行け。……あっちへ行け。


 だが、


――ドン。ドンドン。ドンドドン。階段の先で扉が叩かれ、木が軋む。


「ふざけんなよ……」


 強がりは空を切り、響くのは自分の息と歯の軋みだけ。奥歯が割れそうなほど噛み締める。

――リツ、長生きしなさい。


 何度もかけられた言葉。ジジイより先にくたばるもんかと笑ってきたのに、よりにもよって同じ日に終わるのかよ。

 そう諦めながらも、遺体を隅へ押しやり、震えの残る手で銃を取る。


「……クソジジイ……勝手に死んでんじゃねぇよ……!」


 リツの心からの叫びと共に、蝶番が悲鳴を上げ、扉が外へ倒れた。

 その隙間から、薄暗い地下室に光が差し込む。叩く音はふっと止まり、代わって軽い足音だけが階段を降りてくる。


 リツは震える手で、引き金に指をかけ、目を見開く。


「僕ですよ」


 涼しい声。柔らかく笑う顔。金髪を束ねた男――カガチが、何事もなかったように立っていた。


「はッ!?」


 思わず指が動き、銃口を逸らして撃つ。天井の石粉がぱらぱらと降る。カガチは眉ひとつ動かさない。


「おいコラ! 殺すぞテメェ!」


 怒鳴り声が石壁に跳ね返る。

だがカガチは息を一つ軽く吐き、目尻をわずかに緩めた。


「あの化け物、どうやら僕には興味がないようでして。どれだけ近づいても無視するんですよね」


「……は? どういう意味だよ」


「空腹なのは確かです。こちらを食うつもりなのも確実。でも、食べる“最初の対象”は、もう決めているようで」


 カガチは流れるように遺体へ視線を落とした。


――打つ手なし。


力が抜け、リツは銃を膝に抱え、尻をずらす。


「くそ……どうしろってんだよ」


「本当に困りました。我々にとっても師匠の身体をアイツに喰われるのは、いろいろとね」


 そこで言葉は途切れ、上では木の軋みだけが息を継ぐ。外れた戸の隙間から射す斜光が、舞う塵を細い線に縫い留める。

リツはその先の言葉を待ち、喉をひとつ鳴らす。

だが、カガチは俯いたまま、発しない。

 

 リツは銃床ににじむ汗に気づき、握りを改める。顎の奥が鈍く疼く。恐る恐るカガチを見るが、カガチはなお視線を落としたまま、漂う塵を一粒ずつ目で追い、ひとつ、ふたつ、みっつ――。

少し経って、急に顔を上げた。


「一案、あります」


 カガチはくるりと振り返り、しゃがんで顔を寄せた。距離が異様に近い。薄い息が頬に触れる。


「師匠を僕らで食ってしまいましょうか?」


 間が落ちた。空気はひと段深く沈む。


「……は?何、言ってんだよ」


 喉の奥に恐怖と怒りが張りつく。カガチは肩をすくめ、声だけが軽い。


「本気ですよ。アイツに喰われるくらいなら、こっちで“いただく”ほうがいいでしょう?」


「……意味わかんねえ。理解できること言えよ」


 リツは歯を食いしばり、怒気を喉の奥で噛み潰す。だがカガチは、先の遺体へ一瞥を落とし、ゆるやかに立ち上がって背を伸ばし、後ろ手に腕を組んだ。


「世界の均衡を守るには、どうしても師匠の遺体を守り抜かなきゃならない。けれど、ああして“奴”に張り付かれた今、外へ出た瞬間に……そうですね、身が砕けようと構わず飛びかかってくるでしょう」


「身が……砕けるって、どういう意味だよ」


「そのままの意味です。あそこは師匠の罠だらけでして。敵がこの小屋を包囲するとき、どこに潜むかまで見越していた。特に、あの一番背の高い木。おそらく“奴”が隠れると踏んで、そこを重点的に地雷原にしてある」


遠くを見据え、口角がほんの少し動く。


 リツの脳裏に叱声が蘇る――『コラ、リツ。あの木の近くに行くんじゃない』。理由も告げず、何度も。

 

 線がつながり、リツの心が僅かに脈打つ。


「けど、師匠が死んだ今、罠の力も日ごとに薄れるでしょう。多分、明日にはもう役に立たない」


 カガチは遺体のそばへ歩み寄り、鼻先をわずかに動かした。


「多少、人間の肉を食ったところで病気になんてなりませんよ。きっと。……たぶん」


 沈黙。上で木が軋む遠い音。粉塵が一粒、頬に触れて視界が鈍る。


「……ふざけんなよ」


 少し遅れて、言葉を口にする。喉が乾く。カガチは首を横に振るだけだ。


「こちらはいたって真面目です」


 冗談ではないと嫌でもわかる、その抑揚のなさ。


「殺すぞ、お前……」


 低く唸る。だが言い切っても、カガチは瞬きもせず、何かを測ると、やがて口角だけがゆっくり上がった。


「まあ、他に手段がないわけじゃないです。ただ、少々面倒で、少々手荒」


 言葉は途切れ、石床に落ちて染みる。外では、ズズと這う音が返事のように間を埋める。銃床に汗がじわり張り付いた。


「言えよ……」


 リツが急かすが、すぐには答えない。また視線を落とし、黒い外套の裾を指で払う。落ちた砂塵が光の筋の中でゆっくり沈む。カガチは顔を上げず、床の線を指先でなぞる。


「まあ、リツにはこっちの方が合ってるかもしれません」


 リツを一瞥すると、艶やかな笑みを薄く残して、リツの目をまっすぐ見た。


「あの化け物は、僕らで殺してしまいましょう」


 間のあと、淡々と。


「は? 殺すって……どうやって」


「生きとし生けるもの、すべてに共通する弱点があります」


「いや、あんな化け物に――」


 そんなもんないだろ、と言いかけた時、カガチが食い気味に割って入る。


「眼球ですよ。アイツには三つの目がある。そのすべてを潰せば、進むことすらできなくなる」


「目を、狙う……?」


 胸の奥に、妙な現実味が灯る。

 どれほど異形でも、目は目だ。

 思い返せば、確かにアイツには三つもあった。

 だがすぐ首を振る。近づけば喰われる。狙えたとしても押し潰される。狩りで生きてきたからこそ、可能か不可能かは、獲物を見ただけでわかってしまう。


 そもそもあの図体だ。弾をいくら太くしようが、散弾銃ごときでは、皮一枚抜けるかどうかも怪しい。


 沈む気配を、カガチが切った。


「ここで師匠を明け渡しても、アイツは迷わずリツを喰うでしょう。目を潰さない限り、必ずこちらに来る」


 鼓動が跳ねる。


「逃げ場は、もうないですよ。あの獣は師匠を、そして終わればリツを追い続ける。喰うその時まで、ずっと」


 体のど真ん中、心臓を直で触られているような感覚。不快感。

だがたたみかける冷たい残酷さが、むしろ真実の温度だった。


「恩返しだと思って、立ち上がるべきでは?それともそのまま尻尾巻いて降参しますか?」


 耳元で落ちる囁き。

煽られるがまま、リツは銃を握り直す。心臓が喉を突く。


 リツは一度深呼吸をして、ジジイにもらった銃を見直した。

木目には幾筋もの傷が走り、角は削れて丸い。どれも山で転げた跡か、獲物を追った跡か、もう区別もつかない。握りの位置だけ黒ずんで艶が出て、同じ手に何度も握られてきたとわかる。金属には古い油の匂いが染みつき、いくら拭いても抜けないその匂いが胸をくすぐった。


 小さい獲物は森で何度も仕留めてきただろ。自分より大きい獲物だって、ジジイと二人でやってきた。


 弱点が目なら、いつもの狩りと同じだ。一点を撃ち抜ければ、やれるかもしれない。

 いや、やれるだろ。


 決心が、少しずつ形になる。


「……ただ、やるにしても問題がひとつ」


 だが出鼻を挫くように、カガチが腕を組み、首を傾げた。


「アイツの周囲には、数機のドローンが飛んでいます。コバエみたいにブンブンと。アイツを護るように取り囲んでいる。さっきの咆哮で、焦って飛んできたんでしょう」


「……ドローン? なんだそれ」


「あの空飛ぶ鉄の塊。政府軍がよこした加護ですよ」


 指さす先、銀の球体。それは高い羽音を残し、化け物の周りを赤い点を瞬かせながら虫のように巡っている。

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