1話 静かなる訪れ
雪が降っている。音は柔らかいが、世界は冷たい。
少年と老人は、森の浅い尾根を並んで歩いた。吐いた息は白にほどけ、足は雪の底をさぐるように沈む。聞こえるのは二人分の足音だけ。
「でな、その少年がリツ、お前じゃ――」
「いつまで言ってんだよ、クソジジイ。音が聞こえねえから、ちょっと黙ってろ」
振り返らずに言う。乱暴さは反抗ではなく、集中の合図に近い。老人は杖をつき、歩幅を揃えようとし、少し遅れて後を続く。
装備はいつも通り――毛皮、古い銃、小刀、背の籠。違うのは、歩幅が昨日より半拍ほど短いこと。老人自身がそれに気づき、昨日よりも、一歩を深く踏む。
山の中腹で、風が鼻先を撫で、枝がかすかに鳴った。雪の膜がふっと膨らむ。先に気づいたリツは、半歩だけ歩調を落として自分の音をひとつ消し、その揺れの先に小鹿の背の丸みを見つけた。
銃床を肩へ滑らせる。頬骨に冷たい木が貼りつく。息を半分吸って止め、照門の黒を揺れの中心に合わせる。指は焦らない。引き金が落ちるのは、体が勝手に決める。
――パン。
乾いた衝撃は雪に沈んだ。銃身を抑え、倒れ方を確かめ、二歩で詰め、まだ走ろうとする脚を押さえ、喉を切って血を逃がす。温い匂いが立ちのぼり、白がゆっくり赤へ染まる。
「殺しすぎるな、リツ」
背からいつもの声が追いつく。返事の代わりにリツは喉でうなり、流れた血の細い筋を親指で断った。手際の良さは、老人譲りだった。
リツは後脚の腱を探り当て、縄を通して締めた。迷いはない。礼のかたちであり、必要の最小化だ。老人は一度だけ目を閉じる。祈りとも癖ともつかない、昔からの仕草。
内臓の熱が落ち着くのを待ってから体を転がし、背へ持ち上げる。帯を引き、重心を合わせる。重みが肩に入ったとたん、今日という日の輪郭がはっきりした。
「ジジイの罠が利けば、こんな苦労いらねえのにな」
リツは遅れて老人に嫌味を返した。
老人の担当だった罠は、近ごろほとんど空を切った。獣が賢くなったからではない。老いた手は結び目のきつさを保てず、罠は次第に緩んだ。
「わかってる」
老人は短く応じ、先に歩き出した。
一匹を狩ればすぐに帰る。それが二人の掟だった。余計に追えば群れは散り、明日が痩せる。それにリツ一人ならもう一巡できるが、老人に雪山はキツい。妥協線はそこにある。
昼過ぎに出て、夕方に戻る――これが冬の型だった。
小屋に入ると、リツは足袋を脱ぎ、手袋を外す。部屋の温かみで、指先の痺れがゆっくり戻り、リツはすぐに火を起こした。ほどなく、薄い煙が立つ。
準備ができれば、手際良く、鉄鍋に肉を落とし、味噌をとく。
次第に味噌に獣脂がとけ、匂いが梁に貼りつく。
ある程度時間を数え、煮込み終えると、リツはお椀を二つ並べ、片方を老人の前へ滑らせた。
「今日は当たりだぞ」
はぜる音が言葉の隙間を繋ぐ。味噌に溶けた、油の匂いが、食欲を駆り立てる。
「……いらん」
だが老人は椀を押し戻した。拒絶ではない。ただの停止だ。老人は静かに爆ぜる火を観察するだけ。動く気配もない。
「食えよ。痩せてんだから。子鹿だ、うめぇぞ」
正しさで不安を押し込めるように、リツは手を伸ばす。
「わしはもう――」
「いいから」
先回りで遮ると、力加減を誤り、煮汁が卓を走った。
「あっつ……」
「……明日、わしは死ぬ」
老人はすべてを無視して、火を見つめたまま言う。
朝いちばんの息の浅さ、指の強ばり、夢から色が抜ける速度。老人は、いくつかの徴を重ねて自分の死期の近さに気づいていた。
「またそれかよ。何回目だよ。そう言って、何年も生きてんじゃねえか」
だが、リツは笑ってごまかした。
「今度は違う。……ほんとうに、もう限界なんじゃ」
いつになく真っ直ぐな声。掛けるべき言葉を見出せないリツは肩をすくめ、熱い肉を乱暴に飲み込む。咀嚼の音で言葉を壊す。
リツには、別れの言葉を受け止める器はまだない。
「ワシが死んだら、すぐに燃やしてくれ」
「人間なんて脂多すぎて、簡単に燃えねえだろ」
反射で言い返し、言いながら自分の声に怯む。湯気の向こうで、老人は静かに笑った。
そしてそのまま夜は明けた。
灰のような朝。肺に刺さる冷気を、彼はもう気に留めない。背負子と銃。数年前から使い物にならなくなった罠を一通り確かめ、軽く足を延ばす。新しい足跡は少ない。獣がいないなら鳥を――いつもの切り替えだ。素早く仕留め、体が冷え切る前に戻る。
指の感覚が鈍くなったころ、戸口へ。戸を引くと、冷気といっしょに、聞き慣れたはずの静けさが異質に手触りを変えた。
「……ジジイ?」
返事はない。いつもなら、朝の狩りから帰ると、老人は必ず起きて、仏頂面で卓に座っている。
リツは早くなる鼓動に気づかないふりしつつ、薄い布団をめくった。
眠りの途中で止まった顔。皮膚は骨に張り付き、唇は干からびている。
胸は、上下に動いていない。
理解が先に届き、
「……本当に死んでんじゃねえか」
その言葉が、不意に漏れた。リツは頬を軽く叩いた。
だが当たり前のように動かない。すると開けたままの戸から風が入り、毛布の端だけが揺れ、そこで止まる。
リツの指先は、理解とともに少しずつ冷えていく。
だが先に応えたのは、身体のほうだった。心が腐る前に、昨夜の言伝が、脳裏で蘇る。
殺した後はすぐに燃やせ。大きな獣が降りてくる前に――ここではそれが掟だった。人間でも例外ではない。血と脂の匂いは、風に乗ればすぐ谷を下る。
けれど小屋の周りは木が近すぎる。人ひとり焼く火を上げれば、風が火の粉を飛ばし、必ず森ごと燃やしてしまう。
「……チッ」
リツは薪場を広げるつもりで斧を取った。雪を払い、枝を払う。
この山は北東に浅い谷が口を開けている。今朝の風はそこへ吸い込まれていた。
杉はよく燃えるが香りが走る。唐松は火が早い。樺の皮は火口になるが、今日は雪で湿っている。ここで火を上げれば、煙は谷筋を滑って下へ届く。匂いは一本の筋になり、もっと大きな獣を呼ぶ合図にもなる――老人は昔そう言っていたことを、リツは覚えていた。
燃やすこと自体が技術で、下手を打てば匂いだけが大きくなる。
遠くで風が巻き、匂いの筋は意思を持って必ず目的の場所まで伸びていく。
だから、燃やし方にも手順があり、間違えてはならない。
だから、この仕事は老人がいつも担っていた。
「あぁ、めんどくせぇ」
リツが思わず本音を漏らしたその時、屋根の縁から声が落ちた。
「やあ、元気かい」
反射で顔が上がる。屋根の端に男が立っていた。金の髪をひとつに束ね、黒い外套。異様なほどに整った顔立ち。
リツの掌に斧の柄が冷たく張り付く。男は雪を払う仕草をして、目が合うと、ふっと笑う。
「てめぇ……誰だ」
その言葉を合図に、男は屋根から音もなく降りた。足跡は浅く、雪がすぐ元の形へ戻る。
「カガチといいます。頼まれて来ました。君を迎えに」
――なぜ、師匠を燃やさない?