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10話 残火の試練


 少し開けた祠のそばの場所につくと、マコトはリツをおろし、自分は少し離れた場所に立った。踏み荒らされた土の上、乾いた砂利が靴底で鳴る。風は弱い。匂いは土と鉄と、湿った枯葉。


 対面する二人。リツは訳がわからず、あたりを見回し、マコトは堂々と立つ。

二人の距離は三歩。リツの背後は、下り坂になっていて、逃げ道はない。

小さな砂が一粒、乾いた音で跳ねた。


「リツ俺が怖いか?」


 唐突な言葉。空気が一段硬くなる。

マコトは視線を逸らさず、リツに真っ直ぐ問う。瞳孔は細く、まぶたの動きひとつも無駄がない。


「は?」


 舌が先に反応しただけで、頭は追いつかない。胸の奥で鼓動がひとつ跳ねる。


「だって昨日弱音吐いてたじゃん」


 マコトはタバコに火をつけた。白い煙が、二人の視界に割って入る。リツは煙の層越しに、輪郭だけになった男の顔を見た。


「あんなん拷問されたら誰だってビビるだろ。今はもうなんともねーよ」


 虚勢は口から先に出る。そうだ、今日だって欺けた。アイツの背中に蹴りも入れたと、記憶が補強する。


 マコトはリツの返答に頷き、表情を和らげる。


「訓練ってのは、同時に複数課題を与えるのが基本。必ず価値ある時間にするために、適度な複雑性が必要になる」


「なんだよ急に」


 反射で返しながら、リツは足の指で地面を掴む。重心がわずかに落ちる。


「単純化してはダメだって言う、お前の爺さんの受け売りだよ」


 名を出された瞬間、背筋に冷たい筋が走った。逃げ場がまたひとつ塞がった感覚。


 マコトは片方の口角だけ上げ、ポケットから小さなナイフを取り出す。くるりと指で回し、リツに放った。鋼の背が、陽を欠いた空の色で鈍く光る。


「とりあえずそれ握れ」


 目で転がったナイフを指し、リツも訳がわからぬまま、それに従う。掌の汗で柄がすべる。いつもの山の重みと違う、冷たさだけが指に張り付く。

 遅れてきたアマネが、祠の影で一歩だけ踏み出して――止まる。


 リツがナイフを手にしたのを確認した後、マコトは右手を前に出し、手のひらを逆さに折った。挑発の型。掌が「こい」と言う。


「俺もさ人の心があるわけで、別に平常心ってわけでもねーよ。でもやるしかない」


「なんだよ。なんの言い訳だよ」


「ここからがお前の課題。それで俺を刺せ。これで対等だろ俺たち」


マコトは半歩だけ間合いを外し、刃筋だけを追っている。来れば払う手だ。


 言葉の温度だけが上がるが、空気は凍ったまま。リツは空気を呑んだ。


「来いよ、ガキ」


 今までにないマコトの生きた目。獲物を測る視線だ。

ぞわ、と背筋に冷えが走る。柄を握る指にだけ力が入るのに、足が動かない。膝の裏が固まる。


「やるわけねぇだろ」


 喉の奥が乾く。吐息が荒いのを自覚して、余計に荒くなる。


 睨みつけるリツに、マコトは呑気な笑みで手招きした。指二本、ゆっくりと。


「何ビビってんだよ。言ってんだろ、人間はそう簡単に死なねえって」


 声はやけにやさしい。だが言ってることは最悪だ。そのズレが気持ち悪い。声色が頭の中にぬるっと入って、体温だけを盗んでいく。


 あたかも、自分が間違っているみたいな錯覚を覚える、空気感だった。足場が半歩、低くなったような感覚。


「リツ、ちゃんとやられたらやり返すの根性を身につけろ」


 マコトの諭すような口調に、リツは逃げるように刃に視線を落とした。視界の中心に鋼の線だけが残る。

 これは山で使ってきた刃――獲物の喉に入れる道具だ。


 それは全て生きるための意味のある殺傷だった。必要な行為だった。だが、これは違う。意味が見えない。無価値にさえ思える。


――『殺しすぎるな、リツ』

 ジジイの声が、静止を促すみたいに、頭の奥でぶれずに鳴る。息の数が揃っていくのに、決意は揃わない。


「……できるわけねぇだろ。意味もねぇのに、人に刃なんて向けられるかよ」


 リツはナイフを地面に投げ捨てた。乾いた音。砂が跳ねて、靴の甲に当たる。


 マコトが、それでもリツを真っ直ぐ見据えて、眉をひとつ上げ、薄く笑った。


「意味はあるって言ってんだろ。リツわかってんのか? 俺らと一緒にいるってことは、対峙すんのは、生身の人間だぞ」


「わかってる」


 食い気味で答えるが、意表を突かれたみたいに、マコトの言葉は骨に刺さった。逃げ道のない現実が、形になって投げ返される。


 リツは今置かれている状況をそこまで理解できてない。


「それでも、お前は違うだろ」


 リツは声を振るわせ、唾を飲み込む。語尾が震え、喉仏が痛いほど上下する。


「お前あんな酷いことされて許せるんだな。なんだ芋の美味さに当てられたか?」


 痛烈な一撃でもおかしくない台詞だ。だがマコトのまたの挑発も、不発。


 反発しやすいリツが、口をつぶって、押し黙り、心地の悪い間が流れる。呼吸だけが二人分、ずれる。


 どちらも譲る気はないと黙って目だけでモノを言う。視線の高さ、つま先の向き、肩の線。全部が言葉になる。


 そんな中、空では、カラスが仲間を呼ぶ声が、共鳴して、リツたちに割って入った。現実に戻すベルみたいに。


 マコトは軽くため息をつく。白煙がほどける。顎が少し下がる。

 そしてどれだけ待っても動かないリツの強い意志を、噛み砕くかのように、煙を深く吸って吐いた。覚悟の吐息。


「あー、あいつが言ってた懸念点ってこれのことね」


 リツには聞こえないほどの小声で相槌を打つ。肩の力が、別の種類に切り替わる。


 マコトはしゃがんでズボンの紐を締め直し、背を伸ばし、大きく欠伸した。余裕を演じたあとの、戦う前の儀式。

 タバコの火を指で潰し、目の焦点を一段締めた。獣の距離。次の瞬間――瞬きの刹那で、地面を蹴った。小石が跳ねる。


「――っ!?」


 風圧が先に来る。視界からマコトが消える。


「がっかりだわ」


 大きな手が視界を埋める。頬の横を風が裂く。リツは反射で身を捻ってかわす。背骨が蛇みたいに一本しなる。


「あぶねっ!」


 すれ違いざま、マコトの口元がニヤリと吊り上がった。


「じゃ、俺がリツをボコボコにしたら俺の勝ち。明日からまた吊るしの刑な」


 言い終わるより早く、拳が脇腹にめり込む。肘の角度、腰の回転、重さだけをのせる正拳。

 肺の空気がぶち抜かれ、リツは転がった。砂の味。舌を噛み、口の中は鉄の味。視界がゆれ、耳鳴りが遠くで鳴り始める。


「……っ、くそ……」


 歯の根が合わない。腹筋が勝手に痙攣する。


「お前、甘いな。本当に爺さんと一緒に生きてたのかってぐらい甘い」


 ふざけた口調。それでも言葉が鞭みたいに背中を打つ。体勢を立て直す前に、痛みが次の痛みを呼ぶ。


「爺さんはお前のなにに希望を見出したんだろうな」


「……んだよ」


 リツは吐き捨てるように悪態をつき、小石混じりの土を掴みながら、必死にしがみつく。指の腹が擦れて熱い。


 なんだよこれ。俺が何したってんだ。理不尽の量が、ジジイが死んでからまとめて殴り返してくる。


 何も知らねぇのに、何も聞いてないのに。


 俺はどんな罪を犯したって言うんだ。

 その悔しさが、押し寄せてくる。喉奥に溜まって吐けないまま、熱だけが増える。


「リツ、心決めろよ」


 もう笑っていない。声すら刃物だ。

 さっきまでの間延びは消えた。

 今あるのは、逃げ場を減らすための温度。

 ただ淡々と、マコトはリツに現実を突きつける。


「山じゃ殺さなきゃ生きられねぇ。ここも同じだ。それなりの力がなきゃ、待ってるのは不遇な死だけ」


 それでも立てないリツの上から、無慈悲な声が落ちてくる。意味を選べない言葉。

 もう限界に近いリツとは対照的に、マコトは屈伸でリズムを取り、深く踏み込む。片足の踵が上がる。母指球で床を噛んでいる。


「――ッ!!」


 ゴッ。頭蓋の内側で鈍い鐘が鳴る。白い閃きが弾けて消える。


 容赦のないマコトの蹴り。

 靴底が砂を噛み、岩で殴られたみたいな衝撃が頭の奥で弾けた。白い光。地面が回る。首の後ろが焼ける。


「あそこまでやられてやり返しも出来ねえ臆病な奴が生きていけるほど現実世界は甘くねえ」


 突き放すような言葉が追撃になる。立ち上がりの膝をもう一度折る重さ。


「――ちくしょう……」


 地面を掴むことさえ、もう無理だ。膝が笑う。歯茎の味が血で塩辛い。爪が剥がれて、力が入らない。


 それでもマコトは、いつもの無気力な表情で、リツを見下ろす。


「立てリツ。お前はあのじいさんから選ばれた人間だろ。それなら立て」


 まただ、また選ばれた。

 その言葉に心が大きく跳ねる。


 誰も望んちゃいないのに。

 その言葉はここにきて何度も俺の心を刺してくる。


 どうしてかその話になると、得体の知れない憎悪を向けられているとわかってしまう。納骨堂のときみたいに、自分の存在を疎ましく思っているって、察してしまう。

 自分は犠牲の上に成り立つ存在だって、名札みたいに貼られて剥がれない。


自分の命の価値が勝手に決められているみたいだ。


 気分が悪い。視界の縁が暗い。胃が反射で縮む。


 それでもリツは何度も吐き気を噛み殺し、拳で地を叩いて膝を立てた。肘で体を押し上げる。腕が震える。


 でも、俺は悪くねぇだろ。


 煽りが燃料になる。唇の裏を噛み、体を起こす。痛みが一本の柱になる。


「……ふざけんな。」


 声が低く掠れる。意識の底で火がつく。


 なんなんだ、ここ連日の不遇の扱いは。理不尽が積もって重さになる。


 子鹿のようになりながらも、膝を立たせ、なんとか立ち上がった。


 赤く染まりかけた視界。自分はまだやれると、口にしようと思った。だが、次の瞬間、砂を踏む音が鳴り、容赦なく顔面を蹴り抜く。頬骨の内側で火花が散る。

 砂塵。体がころがる。背中に小石が食い込む。


「お前なんでガードしねえの? しなきゃモロに喰らうだろ」


 聞きたくない優しさ。

 マコトのやさしい声だけが耳に残る。吐いた血が喉にぬるい。腕の擦過がにじむ。皮膚が服に貼り付く。


「立て、頑張れリツ。お前ならやれる」


 マコトが手を叩く。狩りの合図みたいな乾いた音。言葉とは裏腹に、目が獲物を見つけた狩人みたいに光る。距離を測り直している。


 リツは、膝をついたまま、溜まった血を吐き出した。赤い線が土に吸われる。

  

 隙間風のような呼吸が、頭の中で嫌に響く。身体が限界だと悲鳴をあげているんだろう。


 だが繰り返しの拳で、今世界が単純になった。

 

 多分俺は心を決めなきゃ、ダメなんだ。

 こいつは本気で、自分に刺せって言っている。できなきゃ、これはずっと繰り返されるんだろう。カガチが言っていた、残酷な世界だと。理不尽な世界だと。多分そういうこと。ジジイが死んだ今、自分はそういう場所にいるしかない。


 リツはマコトの目を刺すように見た。


 その気迫に、マコトは無意識に後ずさる。


 やらなきゃダメって言うんなら、やってもいいか。自分の身は自分で守る。あの時決めただろ。


 足が決まる。拳を地面に叩きつけ、ようやく、まっすぐ。

 立てた。視界の水平線が戻る。膝の震えが細くなる。


「……くそが、やってやるよ……」


 片目で、対象を捉えた。

 声が地面から引っ張り上げたみたいに出る。


「それでいい」


 視界がぐらりと傾く。内耳が遅れて回り続ける。


 マコトはまた足を上げ、リツの頭上へ振り下ろす。靴底が空気を裂く。

 リツは寸前で両前腕を交差し、靴底を受け止めた。骨が鳴る。足元で小石が潰れる。——止めた。

 血の味を噛み、リツは赤く染まった歯を見せて笑う。


「馬鹿が、二度もおんなじ手はくらわねえよ」


 押し返した瞬間、遅れて耳鳴りが爆ぜ、視界の縁が黒く欠ける。

 立ったはずの体——そのまま崩れ落ちた。筋肉の電源がまとめて落ちる。


「やりすぎっすよ、マコトさん!」


 遠くでアマネの声。駆け寄る気配。頭を支える手。体温。砂の匂いに石鹸の薄い匂いが混じる。


「はぁー? 生きてんだから、やりすぎもクソもねぇだろ」


 喧騒が遠のく。音が薄まる。世界が二枚目のガラスの向こうに行く。

 リツは、その声を聞きながら、意識を手放した。

 砂の音だけが耳に残った。

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