嫦娥と臥龍と万年筆
「あら? どなた?」
玄関を開けて出迎えたのは、大きな青い目が印象的な、銀髪の少女だった。
月英は手に持っていた鞄を思わず落とし、一歩下がって表札を確認。
決して真新しい、綺麗な建物ではないが、都内の高級住宅地とされる一角にある、二階建ての一戸建て。
「すみません、その……こちら、江藤先生の、お宅では……?」
「ああ。新しい担当さんかしら?」
入って。と、にっこりと微笑んだ少女は、月英を家の中に招き入れた。
「ゴメンなさいね。原稿は一応、仕上がってるみたいなんだけど……」
「みたい?」
応接間に案内された月英は、ぎょっと足を止める。
ソファの影のフローリングに、若い女性が倒れていた。
規則正しく寝息をたてていることから、普通に眠っているらしい。
毛布がかけられていることから、風邪をひくこともなさそうだ。
「あぁ。私はこの家の、ただのお手伝いさん。……ちょっと、アキ! 起きて! お客さん!」
ぺちぺちと女性の頬を叩くが、無駄な模様。
寝ぼけて「いらっしゃいませ」とか「ごゆっくり」等の言葉が口から小さく漏れるが、起きる気配は一切無い。
「ごめんなさい。そのうち起きると思うから、気にしないでいただけると嬉しいわ」
この方が、江藤先生だろうか……と、月英は横目で見ながら、ソファにそっと座った。
「私は吉野と申します。担当の出水が、本日病休でして、代わりに私が、江藤先生の原稿をいただきに参りました」
「ありゃりゃ……出水君ってば災難ね……ご愁傷様」
先輩の出水とは面識があるらしい。少女が苦笑を浮かべながら、コーヒーを持ってきた。
「たしか、机の上のその茶封筒に入ってるらしいから、中身確認して、大丈夫そうなら持って帰ってちょうだい」
「わかりました。拝見いたします」
原稿は、歴史小説だった。
短編小説らしく、原稿用紙に癖の強い手書きの文字で、十数枚にわたって物語が紡がれている。
登場人物の名前から、三国志をモチーフにしているのではないかと月英は思ったが、月英にとって特に興味のあるジャンルではなく、また、正規の担当編集者ではない月英に出来ることは、原稿に不備が無いか確かめる位であり、内容の口出しまではとても出来ない。
「あら……?」
きょろきょろと突然、周囲を見回す月英に、少女が問いかけた。
「どうされました?」
「通し番号が……原稿が一枚、足らないみたいで……」
月英の言葉に、書斎かしら……? と、少女が立ち上がった途端、大きな赤ん坊の泣き声が響いた。
「あらやだ大変! 起きちゃった!」
少女は慌てて、月英に向かって叫んだ。
「階段上って突き当りの部屋が書斎よ! あるとしたらそこなんで、探してみてちょうだい!」
◆◇◆
「失礼しま……」
部屋をそっとのぞいた途端、思わず月英は固まった。
その部屋は広く、書斎と寝室を兼ねた部屋だった。
扉を開けた目の前には、扉に背を向ける形で、本が山積みになった大きな机が置いてある。
問題はその隣。
大きなキングサイズのベッドに、これまた大きな──否、十メートル近くはあるであろう、巨大な銀色の龍が、ベッドから落ちつつ、いびきをかいて眠っていた。
頭が真っ白になり、月英は思わず、バタンと勢いよく扉を閉める。
うん、夢よ夢! 白昼夢!
こんなだから、ファンタジー脳だと、馬鹿にされるんだ……。
月英はもう一度、そっと、扉を開けた。
が、物音で目が覚めたのか、銀の龍が薄く目を開け、こちらを見ている。
「……だれ?」
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁッ!」
月英の悲鳴に、何が起こったか、パタパタと複数の足音が、階段を駆け上がり、毛布を体に巻き付けたまま寝ぼけつつも慌てた女性と、双子らしい赤ん坊を器用に両手で抱えた少女が、腰が抜けて動けない月英に駆け寄ってきた。
「ナニゴトどうした……って、ちょっとライッ!」
「あっちゃぁ……なーんでよりによって、その姿で寝てるかなぁ……」
二人とも苦笑いを浮かべ、そして顔を見合わせた。
「あー。大丈夫、大丈夫。びっくりしたわよね。龍だし見た目怖いし、ちょーっと嫉妬深いけど、ああ見えて真面目で私にぞっこんの、引きこもり系男子だから」
女性の言葉に、銀の龍はムッと眉間にしわを寄せる。
「お前に惚れていることは事実であり、普段からお前に危害を加える輩は即刻その場で呪ってやる気概でいることは否定しないが、それにしたって、何て言い草だ」
否定しないんだ……と、月英はさっきまでの怖さを忘れ呆気にとられる。
銀色の龍は大きなあくびを一つすると、短い左腕で、器用にぼりぼりと頭を掻いた。
「で、結局それ誰……?」
「病休でお休みの出水君の代わりに、ライの原稿を取りに来た、編集さん」
あー……と、少女の言葉に、龍は小さくため息を吐いた。
「まずったなぁ……」
そう言うと、龍の身体がほんのりと輝いた。
光は強くなり、そして、段々、龍が小さく縮んでゆく。
「この件は、出版社の人間には内密にして頂けると助か……」
「きゃあああぁぁぁぁぁぁッ!」
「ライ! ちゃんと服着て! まっ裸だから! 前隠してッ!」
長い黒髪の、右腕の無い男に姿を変えた龍は、女性に毛布を顔面に勢いよく投げつけられ、ベッドにひっくり返った。
◆◇◆
「改めまして。江藤雷月です」
先ほどは失礼しました……と、男は深々と頭を下げる。
白いシャツに、濃い青のジーンズ。
ラフではあるが、妻であるという女性──安姫により、しっかりと身支度が整えられ、彼の長い黒髪は、きっちりと一本の三つ編みに編まれていた。
「原稿はこちらに……机の下から出てきました」
「は……はぁ……」
差し出された原稿用紙と、机の上に置かれた茶封筒の中身の原稿を確認する。
抜けていた原稿に、間違いない。
「はい。大丈夫です。この原稿は、お預かり致します」
後日、出水の方から、ご連絡させて頂きます……と、月英は原稿を、鞄の中に、大切に入れた。
「それで。あの……先ほどの、ことですが」
ぎくり……と表情を強ばらせる雷月の左手を、月英はがっしりと掴む。
「内緒にします……内緒にしますけど、先生! その代わり、一度ティーンエイジャー向けの恋愛小説を書いてみませんか!」
「……は?」
突然の月英の申し出に、雷月の目が点になる。
「え? あの、なんでまた……?」
思いもしなかっただろう申し出に、雷月は固まった。
「直感というか、可能性を感じたんです! 先ほどの、奥様とのやりとりに!」
雷月の固まった顔が、みるみる真っ赤に赤面していく。
「さっきのって……あの惚れてるとか呪うとかのアレ?」
隣の安姫が、雷月の代わりに月英に問いかけた。
「はい。ヤンデレ龍と強気な女性の恋愛物語、考えたら、とても面白そうだなって。いかがでしょう?」
ちょっと待って……ヤンデレ龍って何……絶句する雷月をよそに、月英の話は、どんどん膨らんでゆく。
「いいじゃない。面白そう」
ポンっと安姫が手を打った。
こうなってしまえば、鶴の一声。
「ねぇ。ライ。私、読んでみたいなー」
「わ……わかりました。一度だけ……なら……」
こうして、江藤雷月の別名義である恋愛小説家、藤江姫安は誕生した。
その後、藤江姫安は、ヒットを連作。
編集者、吉野月英とのコンビは、今後十年以上続くことになる。
「まさか、黄夫人との付き合いが、こんなにも長くなろうとは……」
「私の目に、狂いはなかったって事で一つ。……ところで、なんでいつも私の事、黄夫人なんて呼ぶんです?」
雷月が投げてよこしたのは、三国志だった。