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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

わかめ人間

僕の鼻や耳にはびっしりと毛が生えている。普通の人の比ではない。太い毛が密集しているから剃っても黒ずみ、剃ったせいで毛の断面が太くなってよけいに濃く見えている。これを不思議がったのか、知らない女の子から顔をのぞきこまれた。まるで指をさすような上目遣いだ。僕の鼻を無言で見つめている。穴があくほど見るというが、その穴を見ているのだから困ったものだ。やがて彼女はいった。

「お兄さん何それ」

首を傾げている。僕はもう白髪まじりのおじいさんであり、お兄さんという年齢ではない。女の子は10代か二十歳そこらだ。

「見ていいですか」

まじまじと見ながらそういうのである。顔をそむけたくなったが、女の子は僕の右隣にいて微動だにしない。パーソナルスペースをとっくに超えている。我ながら少し信じられないが、僕はほとんど体を動かせなかった。これが蛇ににらまれた蛙というやつか。生き物は一線を越えると心と体がうまく結びつかなくなるのだろうか、と僕は思った。

「うーわ」

と、女の子が叫んだ。驚いたとも気持ちが悪いともつかない、ふしぎな抑揚だった。

「これどうなってるんですか」

女の子の顔がさらに近づいた。

「いや、僕もよくわからないんだけどね」

僕は愛想笑いを交えながらそういった。どうして笑っているのかわからなかった。

「さわっていいですか」

僕の許可を得る前に、彼女の指がそっと、しかしためらうことなく僕の顔に伸びた。指は綿棒のように細長く、爪は毒々しい色をしていた。

「うーわ」

僕の鼻の穴に、彼女の指先が少し入っていた。僕の鼻毛をなぞっている。爪で毛をかいたり、指の腹をおしつけたり。

「トライポフォビア(集合体恐怖症)なりそう」

「もう」

孫のような子供相手に、僕の声は消え入るようであった。

「もう勘弁してください」

「耳は? 耳も?」

彼女には僕の言葉が聞こえていなかったのだろう。聞こえたとしてもやめてくれたかどうか。彼女は僕の真正面に立つと、好奇心に口を半開きにさせながら、左耳をのぞきこんだ。

「うーわ」

声のトーンが一段上がった。

「すっごい」

彼女は僕の袖をつかんだ。僕は全身がビクッとなった。

「これどうなってるんですか」

耳の穴をよく見ようとしたのか、強い力で僕をひっぱった。僕は前かがみになり、鼻息がくすぐったかった。

「もうやめてください」

僕の声が声にならないから、僕の気持ちに気づかなかったのかもしれない。彼女は夢中だった。

「これ外側は生えていないのに内側だけ生えてますよね。穴? 外耳道? この中も見たい」

「やめて」

僕は抵抗しようとしたが、左腕の袖と首元をつかまれているせいか、うまく振り払えないことに気づいた。柔術だろうか。

「見せて」

そういわれて、首がしめつけられた。女の子というものはこんなに力が強かっただろうか。体重のかけ方がうまいのだろう。僕はなすがままになっていた。

「うーわ」

もう一度くりかえした。

「うーわ」

僕の耳元で、彼女の声がよく響いた。

「穴がない! 毛しかない!」

けたたましく笑った。いつまでも笑っていた。同じことを何度もいっては、体をふるわせて、僕たちは音楽に合わせるように揺らいでいた。

「指入れていいですか」

「待って。それはだめ」

僕は彼女の両肩をつかんで振り払おうとしたが、遠慮がちだったせいかうまくいかなかった。逆に手をひっぱられて、体を横から押されたと思ったら、僕の見る景色が地べたになっていた。やはり柔術なのだろう。

そう納得しているうちに、マウントポジションというのだろうか、僕は仰向けにされ、彼女は上に乗って、僕の首を腕で押さえつけていた。

「危ないからじっとしてて」

呼吸はかろうじてできたが、息苦しさと鈍い痛みに襲われた。耳に指が当たると、やわらかい指の腹ではなく鋭利なネイルの感触がした。暴れたら耳が傷つくかもしれないから、僕は力を抜いた。いや、力が入らなかったというべきだろう。

「うーわ」

彼女の吐息が冷えた耳たぶにあたって、とても熱かった。

「毛虫の穴かな?」

彼女の膝頭の骨が、50キロくらいの重さを伴って、僕のやわらかいおなかを押しつぶしていた。下腹の力を抜いたら、漏らしてしまいそうな気がした。

「耳毛カッターで手入れされた芝生の手触り」

指がどんどん耳の穴に入ってきて、片耳の聴力が奪われた。ずいぶん奥まで入れられたような気がした。細い指とはいえ、そんなに入るものなのだろうか。まるで虫が侵入したみたいに、耳の中で指がうねっていた。

「あっすごい。奥まで生えてる」

もう片方の耳にも指が入ってきた。僕らはまるで抱き合うように密着しており、両方の耳の中で指がうごめいた。

「……わ」

「……だ」

「……か」

彼女の声はもうほとんど聞きとれなかった。彼女の押しつぶされた胸の脂肪から、僕の胸骨に向けて、落雷や地響きのような、くぐもった響きが伝わってきた。猫科の獣がこうした低周波を出しながら捕食する様子を見たことがある。その音には気持ちをおちつかせる効果があるらしく、死んでいく動物のレクイエムになるのかもしれない。

両の耳をふさがれたままで、また鼻の穴にも何かがしのびこもうとしていた。舌なのだろう。熱気と、体液と、口の匂いが混ざっていた。僕の毛で舌をみがくかのような舌使いだった。自分が出来損ないの歯ブラシになったような気にさせられた。

「お……るわ……け……ぎょい……」

なめながら喋っているから、ますますわからない。

のどの奥まで舌が届いているように感じられた。僕はもう現実の長さがわからなくなっていた。僕は目を閉じていたが、彼女の長く豊かな髪の毛のほとんどが僕の頭を覆っていたので、開けたところで何も見えなかっただろう。外から見たら僕の顔はまるでわかめ人間だろう。

指と舌の動きが激しくなった。痛くはないが不安になった。こんなことは初めてだった。僕は鼻呼吸ができずに口呼吸をしており、これではうまく喋ることはできなかった。唾液がほとばしっているから鼻の奥に流れないように少しでも顔の角度を維持しようとするので精一杯だった。

「ぐお……」

と、うめき声がして、電池が切れたかのように彼女の動きが止まった。僕の耳の中は、耳鳴りだろうか、キーンという高音が鳴り響いており、鼻の中は紙を丸めて突っこんだような舌で閉じられていた。

香水と体臭の混ざった蠱惑的な香りと、口と息の生臭さ、体のやわらかさと熱さと重さが、急に意識に浮かびあがってきた。意識の片隅では、どうしてこんなことになったのかと冷静な考えも佇んでいたのだが、それは彼女の存在がもたらす感覚に圧倒されてしまっていた。

僕の耳には指、鼻には舌、頭には髪、口にも麺のように髪があふれ、体には体がそれぞれかぶさっていた。僕の五感は完全に奪われていて、闇の中で彼女だけがいっぱいになっていた。こうして二人とも──おそらく──目を閉じていても、彼女の目はどこかで僕を凝視しているような気がした。僕の鼻と耳へ向けられた、あの視線が忘れられなかったからだ。

僕たちはいつまでもそうして重なっていたようだった。体はしびれて何も感じなくなっていた。

僕は彼女が死んでしまったのではないかと思った。というのもピクリとも動かなかったからだ。時が止まったようだった。指も舌もそのままだった。僕はこれからどうしたらいいのか考えようとした。けれども、どうにもならないのに、どうにかしようと考える自分が、なんだか可笑しく思えて、僕は小さく笑った。

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