第7話:乱れ、そして不可解
火災現場の騒ぎは、徐々に沈静化していた。消防隊が対応に追われ、野次馬たちがざわつくなか、与作はまだ息を荒げたまま立ち尽くしていた。
そのすぐ脇で、一人の消防士が倒れていた。顔の半分が赤く焼け爛れ、呻き声が漏れている。
「……大丈夫ですか……!」
駆け寄ったのは、エリアスだった。
彼は素早く手袋を外し、両手を傷口の上にかざす。誰にも気づかれぬよう、周囲の視線を遮りながら。
ゆっくりと、深く息を吸い込む。
彼の掌から、かすかに空気の流れが変わった。
(……乱れてる。ドイツにいた時と同じだ……)
エリアスの“感覚”は、常人のそれとは違っていた。医学的な知識の裏打ちを越えて、彼には“見えない均衡”が感じ取れていた。
体内のめぐり──血の流れ、気の流れ、生命の糸。
それらが、どこか噛み合っていない。
だが、そこにわずかでも“糸口”があるのなら──
「……戻れ」
静かに、願うように呟いた。
その瞬間、手のひらの奥がじんと熱を帯びた。
まるで、自分の内にある“何か”が、他者へと染み出していくような感覚。
痛みで呻いていた消防士の表情が、わずかに緩む。
(これは──)
かつてドイツで、患者の手を握ったときにも、似た感覚があった。あのときは偶然だと思った。だが今は、確信がある。
これは偶然じゃない。自分の中に眠る、“力”だ。
理屈では説明できない。だが確かに存在する。
体を通じて、命のバランスを調律するような感覚。
(……やっぱり、僕は、これを……)
エリアスの中で、何かがはっきりと輪郭を持った。
彼はゆっくりと息を吐くと、倒れていた消防士の意識がうっすら戻りはじめるのを確認した。
与作は、火の熱に巻かれた左手を氷で冷やしながら、救急車のベッドに腰を下ろしていた。火傷は軽度とはいえ、応急処置だけでは判断がつかないということで、そのまま病院へ搬送されることになった。
一方、エリアスは現場で消防士の応急対応に関わった際、自身が医師であることを名乗ったこともあり、「念のため、状況を詳しく聞きたい」と搬送に同行するよう求められた。
「……中野? 東京警察病院? ここ、八王子だぞ?」
搬送先を聞かされたとき、与作は思わず眉をひそめた。
問いかけても、救急隊員は淡々と書類に目を落としたまま、事務的に答える。
「都の判断で、指定医療機関への搬送となります。念のため、精密検査も含めて。」
「なんだよ、それ……」
与作は納得のいかない顔で、冷やしたタオルを握りしめたまま黙り込んだ。エリアスも、どこか不穏な空気を感じ取りながら、静かにその横顔を見つめていた。
車内の揺れの中、与作がふと思い出したように声をかける。
「……なあ、エリアス。お前、医者だったのかよ。」
「ん? ああ。別に隠してたわけじゃないけどね。言うタイミングがなかっただけで。」
「言えよ。ていうか、お前、そういう雰囲気あるな。なんか……妙に落ち着いてるっていうか。」
エリアスは苦笑して肩をすくめた。
「君がいつも変な話ばっかりするからさ。なかなか言い出せなかったんだよ」
そんなやり取りの裏で、二人の胸には、拭えない違和感がじわじわと広がっていた。
病院に着いてからも、それは確信に変わりつつあった。
案内されたのは、通常の救急外来ではなく、特別病室のフロアにある二人部屋。窓には鍵がかけられ、扉の外には私服の警備員らしき男が無言で立っていた。
スマホは「電波干渉の影響を防ぐためです」と言われて預けさせられたが、理由としては曖昧すぎた。
「なあ、どうなってんだこれ……」
与作が低く唸るように呟く。エリアスも首を傾げながら、備え付けのベッドに静かに腰を下ろした。
何より妙だったのは、担当の医師も看護師も、一様に同じ言葉しか口にしないことだった。
「念のため、しばらく様子を見させてください。異常がないか、検査を行います」
その“念のため”が、何を指しているのかは、誰も説明しようとしない。
医師たちは書類に目を落としたまま、ほとんど目を合わせようとすらしなかった。
「……絶対おかしいだろ、あの態度」
与作が苛立ちを隠せずに言う。
「僕も同じような感じだった。火傷もしてないのに……“念のため”で連れて来られて、検査までされてる」
あからさまな不審な対応に、二人は戸惑いを隠せないでいた。
ここから少しずつ、物語の核心――“理素”についての解説編に入っていきます。
本作の根幹にあたるパートですので、ぜひ最後までお付き合いください。
与作たちの“出発”も、ここから始まります。