第40話:沈黙、そして喧騒
「空が……広い」
時子は何の気なしに、目の前の風景に対する感想を言葉にして発した。
賑やかなカフェのウッドデッキのテラス席。歩行者と車の行き交う道路を挟んだ向こう側には白いビーチが広がり、その先にはエメラルド色の海と鮮やかな色の空が続いている。
「分かるわ。空と海の境目が分かんなくなる」
時子の視界の横から、与作がぬっと現れた。黒いカップに手加減なく盛られたアサイーボウルが両手に乗っていた。カップは与作の手の上には収まっていたが、その中身は底のあるカップと同じくらいの高さの山を築いていた。
「さすが、アメリカンサイズ。一番小さいの頼んだはずなのに、このサイズ感よ。ほれ」
そう言って与作は、右手に乗っていたカップを時子に差し出した。
「ありがとう」
丸いテーブルを挟んで、時子の向かいの席に与作は座った。
「俺一人だったら、こういうの頼まなかったわ。よく知ってたな」
「……SNSでよく見かけたのを、ふと思い出したの」
スプーンでひとすくいしたアサイーを時子が口に運んだ。
「アサイーって、酸っぱくないんだ」
一言、そう言って時子は黙々と食べ始めた。与作も山になっている一通りのフルーツを拾って、一口目を口に運んだ。
「なるほど……フルーツだな。パイナップルにパイナップル、それからイチゴ。素材の味を活かしてる」
時子は黙々と色とりどりの山を切り崩していく。与作はどこをどう崩していこうか、スプーンを持ったまま思考を逡巡した末、とりあえず、上からスプーンを入れ始めた。
——沈黙の間に潮風がふわりと抜けていく。
右手に持っていたプラスチック製のスプーンをフルーツの山の横腹に突き刺した。空いた手を顔に持ってくると、親指と人差し指で両目の目頭を押さえた。
(……いやいや、ソフィアさん! これ絶対に配役ミスだって!)
心の中で与作が叫び声を上げた。
*
——数時間前、空軍基地の兵士宿舎にて
当面のハワイでの活動拠点として、兵士宿舎の空き部屋が与作達に貸し与えられた。一室を与作とエリアスで、また別の部屋を時子とソフィアで使うことになった。
ソフィアと時子は共に基地の外のカフェで朝食を取った帰り、部屋へ向かう通路を歩いていた。ソフィアは仕事用のノートパソコンを脇に抱えながら、時子の前を歩いていた。
「この前の理素暴走、私……理素魔像が見えたの」
時子が唐突に声を発した。ソフィアが足を止めて後ろを振り返った。時子は少しうつむくように立ち止まっていた。
「アンタ……いつも理素の流れみたいなもので捉えてるって言ってたわよね? それと違ったってこと?」
「うん。……与作が飛び出す直前に、形を変えたの。本で見た『悪魔』の姿をしてた」
時子が顔を上げてソフィアをまっすぐ見た。
「『怖い』って思った、その直後だった」
時子は手をグッと握りしめた。ソフィアは小さく息を吐くと時子に近づき、長い黒髪のかかる肩に手を置いた。
「あの状況は怖いって思うのが普通よ。私だって、ああいう展開は二度とお断りね」
「ごめん。私がもっとうまくやれればよかったのに」
消え入りそうな声で時子が呟いた。ソフィアは肩に置いていた手を、時子の頭に置いた。
「馬鹿、逆よ。あんた一人でしか何とかできない状態になったのがそもそもの間違い。潔くみんなで海に飛び込む判断をすれば良かったのよ」
時子は俯き、目線を伏せたままだった。
「今日明日、休みにしたんだから、何も考えず羽根を伸ばしなさい。ちゃんと休むのも仕事のうちよ」
時子はコクリと小さく頷いて、ソフィアの横を通り、通路突き当たりを右に曲がって、部屋へと戻っていった。
いつも以上に小さく見える時子の背中をソフィアは目で追った。脇に抱えている端末の重みを思い出すと、溜まった業務と、オフ宣言を発出したものの、まだ羽根を伸ばせない自分の立場を思い出した。
「まったく。……どの口が言ってんのかしらって感じね」
ソフィアはため息交じりに呟いた。
——ちょうど時子が曲がっていった通路の左側から、与作が大きくあくびをしながら歩いてやって来た。ソフィアと目が合い、近くまで来たところで「おはよう。出かけてくる」と言って、与作はそのままソフィアの横を通り過ぎようとした。
「与作。アンタに大事な任務を授ける」
「……今日はオフにするって話じゃなかったけ?」
前日のエリアスの病室での休暇宣言と矛盾するように、「任務」の言葉を使ったソフィアの意図を与作は読めなかった。少しばかり直しきれなかった寝ぐせの残った頭を掻いた。
「今日一日、時子を連れ出して、気晴らしさせてちょうだい。あの子、珍しくへこんでるから」
「……いやあ、それ……俺じゃないほうがよくない? ソフィアさんの方が適役じゃない?」
与作は眉間に皺を寄せながら目を細め、口をとがらせている。あからさまに怪訝な顔をしている与作に、ソフィアは、目をそのままに口角を上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。
「私は、調査が止まっている内にやっつけたい仕事がまだ溜まってるわけ。誰かさんが海に飛び込んだ件の報告書作ったり。その時に誰かさんが無くした眼鏡やら刀の手配もする必要があるし……。大忙しなのよ」
ソフィアが眼鏡のかかっていない与作の目と目の間に、人差し指を突き立てた。
「……お手数をおかけします。喜んで任務拝命します」
「よろしい」
ソフィアが手を羽織っているジャケットのポケットに手を入れると、一枚のキャッシュカードが出てきた。
「これ、渡しそびれてたけど、アンタの給与口座。日野陽介名義だけど、いくらか入ってるわ。オフだから経費出ないけど、これでやりくりして頂戴」
与作はカードを受け取った。黄色い長方形の付箋が貼られていて、4桁の番号が書かれていた。
「それ暗証番号ね。適当に番号に変えときなさいよ」
ソフィアが補足すると、与作は目を丸くして、視線を手元のカードからソフィアの顔へ移した。
「え……この調査って、俺はボランティアじゃねえの?」
「アンタは一応、私が招聘した外部協力者って建前なわけ。そこに一銭も渡らないのは不自然じゃない。とは言え、正規職員じゃないし、寸志レベルよ」
——その後で、バスでたどり着いた観光地のインフォメーション近くのATMで残高を確認した与作は、思わず腰を抜かしてへたり込んだ。田舎の祖父からの仕送りと、日々せっせとアルバイトに勤しんで手にする金額とは、桁が違う額が並んでいた。
「……マジか」
*
南の島の柔らかい陽気が降り注ぎ、風は静かに顔を撫でる。オーストラリアの原野を吹き抜けた風に比べて、随分としっとりした空気が肺に入ってくる。道路向こうに見えるビーチは海水浴を楽しむ人々で賑わっている。
「ねえ、与作。久作先生はどうして私達にノートを送ってきたと思う?」
そう言った時子の手元のカップは既に空になっていた。与作は自分のカップを見ると、まだ半分近くの量が残っていて、呆然として手が止まっていたことに気付いた。
「クソ親父の考える事なんざ、分かりっこねえよ。と、言いたいところだが、俺も気にはなってた」
「やっぱり、私が『惑星意思の化身』なのと関係あるのかな」
与作はフルーツの下から顔を出した、底に敷かれているシリアルをスプーンに乗せて口に運び、ザクザクと咀嚼して飲み込んだ。
「この前のウルルでの出来事を考えれば、理素に直接『会話』できるくらい働きかけるのに、時子くらいに強い理力を持った奴が必要だって考えたんだろ。それはなんとなく想像がつく」
シリアル自体は特に際立った味の主張は無く、与作は上のフルーツにかかっている蜂蜜をすくい取り、顔を覗かせるシリアルにかけ、スプーンに乗せた。
「どうせ、あの野郎の事だ。時子だけに仕向けた暗号を送ることだって、きっと出来たはずだろ? ただ、それをわざわざ俺だけが読める暗号にして送ってきた。俺が介在する意味は何だったんだろうな。それが妙に引っかかってる。」
与作は蜂蜜のかかったシリアルとアサイーを口に入れると、「お、ちょうどいい」と誰に言うでもなく、独り言を発した。
「……私だけだったら、みんなを危険な目に巻き込まずに済んだのに」
時子が小さく呟いたが、与作はそれをはっきりと聞き取った。手元のカップから、向かいに座る時子を見ると、下を俯き、その表情は降りた前髪に遮られて伺うことができなかった。与作はカップにスプーンを差した。
「……なあ、エリアスの件はお前が気にしたってしょうがねえよ。アイツだってこの旅には覚悟決めて参加したんだ。なんなら、俺よりも前のめりに意思表明してたじゃねえか」
差したスプーンをガッと握るようにつかみ取り、ずいと時子に向かって、腕を伸ばして差し出した。
「……俺なんて、気合で刀振るうしか出来ないから、それこそ何の役にも立ちやしなかった。最後の一発だって、今にして思えばマグレみたいなもんさ。それに比べりゃあ、きっちり自分の役目を全うしてたと思うぜ? 時子さんよ」
与作は伸ばした手を引き戻し、握ったままのスプーンを乱雑に残るフルーツの山に深く差し込んだ。そのまま大きなバナナとシリアルを引き上げると、大口を開けて口に突っ込んだ。
「……ごめん。ソフィアにも考え込むなって言われた。切り替えなきゃ駄目だよね」
時子は顔を上げると、わずかに微笑むように口角を上げ、向かいの席でシリアルを頬張っている与作を見た。
与作には、その少しだけ上がっている時子の口角が、精いっぱい虚勢を張って、持ち上げたものだろうと思えてならなかった。
店の中からは、他の観光客が目の前の豪勢なメニューにはしゃいでいる声が聞こえてきた。テラス下すぐの歩道からも、楽しそうにはしゃぎながら歩いている観光客の声が飛び込んでくる。
「しかし、適当に買い物したり、何か食ったりしたり、はっちゃけて過ごす分にはいいんだろうが……、この界隈はなんか落ち着かねえな」
時子は与作の言葉に、「そうだね」と短く応えた。
少なくとも、自分にとって、そういう過ごし方はあまり馴染みがないし、目の前の時子にとっても、おそらく性に合った過ごし方ではないのだろう。与作は、この場所にとって自分たちが場違いな存在であることを悟った。観光インフォメーションで配布されていた紙のガイドマップをズボンのポケットから取り出して眺め始めた。
「——なあ、ちょっと戻るけど、良さそうな場所があるぜ」
与作が自分のカップを脇に置き、目の前の地図を広げて、その上を指で指し示した。前から時子が身を乗り出して覗き込んだ。
「……いいね。静かで落ち着いてそう」
時子は与作の顔を見て、少しだけ口元を柔らかくした。
与作は脇によけたカップを手に取り、残ったシリアルをガッとかき込み、頬張った。すくっと席から立ち上がると、広げたガイドマップを雑に畳み、再びズボンのポケットに突っ込んだ。




