第34話:影は語る、そして風が教える
皆で囲んでいた火の光は遠く、夜空の黒さは濃さを増した。
夜闇の中に浮き出る与作の影がふと立ち止まって空を見上げた。目の前の影が止まったのに合わせて、時子も立ち止まった。
与作の影は空を見上げたまましゃべり始めた。
「……俺、七つくらいの時に母さんが死んで、家族って言ったらじいちゃんとばあちゃんと親父だったんだけどさ。まぁ、親父はほとんど家にいなかったわけだ」
与作も時子も、お互いの表情は夜闇にまぎれ、相手の様子を伺うことはできなかった。声の調子だけが、相手の心の内を探る術となっていた。
話が止まると、夜の静けさが一瞬で全身を包むような感覚を時子は覚えた。
「うん」と、時子は一言、小さく返した。
「でも、村の皆に囲まれて生きてきたから、寂しいとかそういうのは無かったんだよな」
与作の言葉が時子には意外に思えた。かつて、与作が久作に対して滲ませていた「怒り」の出所が掴めない。そう思った。
「与作は、なんで先生にあんなに怒ってたの? フィオナのオフィスで話をした時……」
時子のその問いかけで、目の前の影が動いた。与作が腕を組んだようだった。時子から見れば、与作にとっても理由はよく分かっていない。……そのように見えた。
「……まぁ、子供の頃から理由もわからず色んな事をキツく仕込まれたけどさ……。たまに帰ってきて、写真とか見せてくれたり、土産話をしてくれたんだよ。……俺はそれが結構好きだったんだ」
――やはり意外な言葉だった。久作の不在に対する、恨み節の一つや二つ積もっていそうなものだったが、真逆に好意的な言葉が出てきた。
「十歳を過ぎたあたりから、たまに、どころか全く家に帰って来なくなって、手紙と写真だけが届くようになった」
時折、久作が手紙を書いているのを時子は思い出した。
「……うん。私と同じくらいの息子に送るって、先生よく言ってた」
「まぁ、あちこちで頑張ってんだなぁと思ってさ、昔の俺はちょっとは誇りに思ってたのよ」
「……でまぁ、十六のときだから、三年前くらいか、パタリと連絡がなくなった」
「先生が私とソフィアの前――フィオナからもいなくなった時期だね」
「……多分さ、親父の冒険譚を期待してたのかもな。ろくに村から出て生きてなかったけど、世界がすごく広いってのが分かるのが楽しかった。……それが急に無くなったのがショックで」
与作の影が天に手を伸ばした。んんっと伸びをして息が漏れるのが聞こえた。
「親父の痕跡を追うって言って上京してみたけど、結局のとこ、あの村にずっといる事が不安だったってのもあるかもしれない」
時子は無言だった。分かるような、分からないような感覚を覚え、どういった言葉を返すべきなのかを掴めず……。ただ、与作の影をぼんやりと眺めていた。
「まあ、グダグダしゃべったけど、結局、俺が親父にムカついてるのって、俺の都合なんだと思う。だからお前が気にすることなんて、微塵もないって話だ」
「……そうなのかな」
「そうさ。結局、人間なんてどうこう言っても自分でどうしたいか決めて生きてくもんさ。……これは、じいちゃんの受け売りだけど」
影はやって来た方向――小さくなった焚火の明かりのある方向を振り返った。
「付き合わせて悪かったな。しゃべってたら少し頭が整理できた。戻ろうぜ」
夜闇の中にうっすらと浮かぶ与作の影が動き出した。時子は追い始めた。ざっざと地をける音が、静かに響き始める。
……しかし、歩き始めて三歩くらいのところで、音の半分がぴたりと止んだ。追いかけた影が再び立ち止まった。
「……なんか整理できた気もしたけど、やっぱあのクソ親父ムカつくな。会ったら、やっぱり一発ぶん殴ってやる」
腕をぐるぐると回しながらその影はまた歩き出した。
*
「よう、与作! ちゃんと生きてたか!」
ポツリと浮かぶ雲だけが存在する青空の下、砂煙を上げてやってきた一台のマツダから男が降りてきた。陽気な調子で右手を挙げながら与作の元へ歩いて来た。
「デイビッド! 俺たちが戻ってきてたの、よく分かったな」
「ソフィアの姐御がメールくれたんだよ」
ソフィアが与作の後ろから歩いてきて、与作の横に並んだ。
「世話になったからね、音沙汰もないのは失礼でしょ」
「さすが、仕事の出来る大人」
ソフィアが手を差し出すと、デイビッドが応じるように手を握った。
「わざわざありがとう。アレフやイリアにもよろしく伝えてほしいわ」
「おう、お安い御用だぜ」
――ソフィアのスマートフォンが鳴りだした。
ソフィアはポケットから取り出すと、耳に当てた。
「お疲れ様。どうしたの?」
『なんですか、この報告書! こんなんじゃ上のチェック通らないって分かるでしょう!』
勢いの強い声が端末のスピーカーから飛び出してきた。その圧に思わず、ソフィアは端末を耳から少し遠ざけた。
「先生絡みの話で、まだ大っぴらに出来ないことが多いのよ……クリス」
*
――電話の主、ソフィアがクリスと呼んだ人物は日本のアンダートのオフィスにいた。きれいに整えられたデスクの両脇には整然と積み上がった資料や書籍の山がある。空になった栄養ドリンクの瓶が二本、パソコンの横に行儀よく並んでいる。
ノートパソコンの画面に映る報告書を睨みながら、スマートフォンを片手に立ち上がっていた。首からは職員パスがストラップでぶら下がっている。
――UN-DERT 事務官 クリスタル・フィッツジェラルド
「例のノート解読のお手伝いを皮切りに、最近、特に無茶ぶりが多くなってますよねぇ? 偽造パスポートの手配。いきなりのアボリジニの観光ガイド探しに……。オーストラリアから出る空路も私が直前になって調整しました。……まさか、このレポートの修正までやらせる気じゃないですよねぇ?」
着席したクリスタルは言葉の語尾を強めながら、それに合わせて指で机をトントンと叩いていた。
『そのぉ……私、この後移動しなきゃで、その修正の時間取れないし……お願い! クリス! クリスタル様! ……あ、そうだ! なんか甘いものでも買って送ろうか!』
クリスタルからしてみれば、想定内の回答だった。
このレポートをこの状態で上層に出すには、自分を介在させることになる。そうなれば、現場にいて捕まらないソフィアではなく、オフィスに常駐する自分が上から掴まることは想像に難くない。放置すれば、自分の負荷が増えることは必至だった。
「……まったく。……ティムタム! 箱で買って送っといてください!」
クリスタルは電話を切ると、ダンッと机の上に置いた。かけていた眼鏡を取って、目元を抑える。
「ぐへぇ~!」と悲鳴のように息を吐きながら前のめりに机に突っ伏した。長く背中に下りたブロンドの髪、そしてその一部を耳の上から後頭部のあたりまで編み上げまとめた頭が、書類に囲まれたデスクの中央でうなだれていた。
*
――ツー、ツーと通話が終わったことを告げる電子音が耳に当てている端末から流れた。
ソフィアは眉をしかめるように顔を引きつらせて、電話を元ある場所にしまった。
「……すげえ顔してるけど、大丈夫か? ソフィアさん」
与作はソフィアの視たことのない表情に、異様な不安感を覚え、つい身を案じる言葉をかけたくなった。
「ええ。……サポートのお姫様がご機嫌斜めでね。ちょっと最近、無茶させてたからなぁ」
ちょうど目の前のいる観光ガイドと目が合った。
「ねぇ、ガイドさん。日本にティムタムをお土産で送りたいんだけど、アリススプリングスで買える場所あるかしら? 段ボール箱いっぱいに送りたいわ」
「お! やっぱ土産はティムタムだよな! それなら、海外発送もOKのちょうどいい店がある! 待ってな。場所のデータ送ってやるよ」
*
「ありがとう、ミリナ。ウルルに行ったことで、私、少し整理がついた気がする」
「よかったね。まさか、あんなハッキリと大地の精霊と話するなんて思ってもみなかったけど」
ミリナは笑って、耳のあたりで手をヒラヒラさせていた。……そして、その表情が急に少し曇った。何かを残念がっているような様子だった。
「……たださ、正直なところ、私、時子がいつの間にか創られた存在だって事に迷ってたの、ちょっとよくわからなかったんだよね」
「やっぱり、そうだよね。かなり特殊な話だし」
「あ、いや、そうじゃなくて、みんな同じじゃんって思ったから」
ミリナの言葉に、時子は一瞬固まった。ミリナは振り返って時子に背を向けると、手でひさしを作りながらおもむろに青い空を見上げた。
「だってさ、私も気づいた時にはこの大地の上に生きてた。この世界に風が吹いてた頃からずっとそうだもん」
ミリナが振り返って時子を見ながらにかっと笑った。
静かに風が吹き、時子の長い髪を揺らした。
風が吹いた、その瞬間、体がやけに軽くなったような気がした。
「少なくとも私たちはそう思って生きてる。それがジュクルパだって、おじいちゃんもよく言ってるよ」
時子はいきなり軽くなった体が、どこかに飛んでいくのではないかとすら錯覚しかけた。思わず足が確かに大地に立っている感触を確かめた。
右手を胸に当てて、ミリナの目を見た。
「……そっか、みんな同じか」
時子の口から漏れ出たその言葉にミリナは頷くと、時子のすぐ目の前に立った。
「でさ、大事なこと聞きたいんだけど」
ミリナが時子の両肩を掴んで、くるりと後ろを向かせた。
デイビッドと話をしている与作と、車に荷物を積み込んでいるエリアスがいる。
「あの二人、どっちが本命なの?」
「……本命って、どういうこと?」
「男達と旅するんだし、ロマンスの一つや二つ無いの? それこそよくある話じゃない?」
ミリナは少し興奮気味で口早に話した。
「……考えたこともなかったな」
時子はミリナの手を自分の腕から、優しく剥がしてミリナの顔を見た。ミリナは目を丸くして時子を見ていた。
「……でも、二人とも良い人たちだよ。もちろん、あなたもね。ミリナ」
「……分かった。時子、分かってないね」
ミリナはポンと時子の肩を叩いて笑った。
「おーい、そろそろ出発するわよ!」
ソフィアが与作と時子に声をかけた。
皆が車に乗り込んだ。換気のために窓を開け放っていたおかげで、籠った熱は外に逃げたが、日の差す原野の暑い空気と車内の空気が同化していた。
ソフィアがエンジンの始動ボタンを押すとエンジンがかかり、エアコンの音がごうっと唸りを上げ始めた。
「予定外に放置しちゃってたけど、ちゃんとエンジンかかって良かったわ」
「元気でな! 遊びの観光ならいつでも指名待ってるぜ!」
デイビッドが与作が座る後部座席の横の開いた窓から中をのぞくように声をかけた。
ソフィアは、挨拶に軽く手を振ると、アクセルを踏みだし車を前に進めた。
ミリナ、ウルマンは車の後ろに並び、一同の乗る車を見送った。
与作は窓から顔を出し、見送り人たちに手を振った。すっかり見慣れた顔ぶれの人々の影がみるみる間に小さくなっていった。




