第1話:迷走、そして違和感
静かな朝だった。講義の合間に訪れた大学図書館は、いつものように薄暗く、埃の匂いが漂っている。与作はその奥の片隅、誰も寄りつかない郷土資料の棚の前に腰を下ろしていた。
机の上には、昭和中期に編纂された郷土誌や文化誌、民俗調査報告書が何冊も開かれていた。時折、鉛筆で小さくメモをとりながら、与作はその中の一節一節に目を走らせていく。何かしらの「痕跡」を求めて。
それは、一年半前——この大学に進学してから、ずっと続けている探し物だった。
民俗学者だった父、木戸久作。 その男が遺した“何か”を、与作はこの学び舎のどこかに残していないかと、ずっと探し続けてきた。
たしか、父はこの大学で一時期、非常勤講師か何かをしていたはずだった——与作の記憶が正しければ。それだけの曖昧な手がかりにすがって、彼はこの学び舎のどこかに何かが残されていないかと、探し続けていた。
もちろん、公式記録上は久作の論文や講義記録、所蔵資料などは何一つ残されていない。まるで最初からこの大学に関わっていなかったかのような扱いだ。
だが与作には確信があった。あの男なら、なにか、どこかに、何かしらのヒントを仕込んでいるに違いない。
(……でも、今日も空振りかよ)
積み上がった資料のひとつを閉じながら、与作は小さくため息をつく。
父に仕込まれた数々の教え。理屈を超えた気合主義、過剰なまでの語学訓練、剣術と呼ぶには古風すぎる体術、そして極めつけは、剣術に組み合わせる妙な呼吸法。 「気合がありゃ何でもできる!」「腹の底から力振り絞って剣に乗せろ!」「体に入った毒も力に変えちまえ!」 そんな言葉を、耳にタコができるほど叩き込まれた。
当時はただのスパルタ親父だと思っていたが、それでも心のどこかに残り続けていた。
(あんだけムチャさせといて、俺には何も教えずいなくなるとか……)
言葉にならない憤りが喉元まで上がってくる。が、それを吐き出す術もなく、ただ静かに椅子に体を預けた。
そのときだった。
ふと顔を上げた窓の向こうに、奇妙な色が走った。
晴天のはずの空に、ほんのわずかの間だけ、虹のような、あるいはオーロラのような、不自然な光の膜が現れた。 それは赤とも青ともつかず、まるで空の「向こう側」に別の層があるかのような不気味な色合いだった。
「……なんだ、今の……」
思わず声が漏れる。誰もいない書架の間に、かすかにその声が反響した。
しかし光は、ほんの一瞬ののちにかき消え、空は何事もなかったかのように元の青さを取り戻していた。思わず、眼鏡をはずして目をこすった。
「……疲れてんのかな、きっとそうだな。」
まるで、見てはいけないものを見たかのような、不安だけが胸に残る。
(……空の色なんて、どうでもいいか。講義、行かねえと)
重い腰を上げ、ノートと資料を無造作に鞄へ詰め込む。
与作は気怠げな足取りで、講義棟へ向かっていった。
(次は、あの郷土誌にあった神楽の系譜図でも洗ってみるか……)
彼の中で、答えのない探索はまだ終わらない。