プロローグ ― 神楽の記憶と雨のにおい ―
[2025.08.06]改行等を修正しました。
午前中は雨が降っていた。今は雨はもう上がったが、そのせいで道はぬかるんでいた。五月の新緑が雫でぬれていて、においにもまだ雨の名残がある。与作は母、時雨に長靴を履かせてもらっていたため、足元を気にする様子はなかった。時雨は与作の手を引き、二人はいつものくたびれた鳥居をくぐっていった。進む先には、時雨が子供のころからずっとそこにあった社の拝殿が見えている。
「今年の夏のお祭りは、与作にも里神楽をやってもらうからね。ちゃんと練習しとかないとね……」
と時雨は少しからかうようににやけた表情で、与作に目を向けて言った。
「さとかぐらって、いつも母さんがやってたじゃん。なんで俺なのさ。女にやらせたほうがいいんじゃないの?ほら、愛理のやつとか、そういうの好きそうじゃん」
と、同じ集落に住む、妹分のような少女のことを引き合いに出した。神楽面を持って、なんとも歩きそうな仰々しい衣装を身に着けている自分を想像してみた。それがみんなの前で、ぎくしゃくとしたおどりを見せている。なんとまあこっぱずかしい。
「あの舞はね、ご先祖様の時から、ずっとうちの家族がやってきたものだから、ほかの人じゃダメなのよ。母さんだって、ばあちゃんに教わって覚えたんだから……」
男の子ならそう言いたくなるのも無理はない。心の中で苦笑しながら、時雨は優しく諭した。
時雨は拝殿の前に立つと、与作を真横に立たせた。恭しく二度の礼。ぱんっぱんっと二度の柏手、それから手を合わせて静かに念じた。与作も母の所作を見て、こくこくと二度の礼、ぺちぺちと二度の柏手を打ち、手を合わせてむむむーと念ずるポーズをした。
――お邪魔します。今日は与作もいるから、ちょっと騒がしいけどごめんね。
時雨は最後に一礼をして、中に入ろっかと言って拝殿の入り口へ進んだ。与作もぺこりと一礼をして時雨の後を追った。時雨は拝殿の入口の引き戸を引いた。板間の部屋が広がっていて、正面に扉が見える。そこから御神体の祀られている本殿のある庭へ降りる事ができる。
部屋の左右からは祭祀で使う神具などを収める倉庫につながっている。少なくとも時雨が子供の頃と変わらずのままで、古い木の匂いとほんの少しのかび臭さがする。
「それじゃあ、記念すべき第一回のお稽古、始めようか。」
時雨はにやりと笑った。
拝殿の中央に時雨は正座して、本殿の方を向いた。両の手のひらを体の前の床に置き、置いた手と手の間に額が付くような感じで礼をした。
「さ、与作もちゃんと、お願いしますって、しなさいな。」
と言われて、与作は時雨の左横にちょこんと正座した。見様見真似で床に手を置き勢いよく礼をした。
「お願いします。」
時雨は、今度は横に座っている与作の方を向いて礼をした。
「よろしくお願いします。」
改めて自分の母親に丁寧な礼法を見せられて、なんだか緊張した。お願いします、と、与作も礼を返した。
「さて、とりあえず、最初は母さん1回やってみせるから……、脇で見てなさい。」
といって、拝殿の左脇を手のひらで示した。
与作ははたと気づいて、
「道具とか使わないの?いつも鈴とナイフみたいなの持ってたじゃん。格好もこのままだし……」
「鈴も短刀も、神様の前でしか使わないの。でも、リズムを覚えるのはすごく大事だから、鈴の代わりにこれを使いましょう。」
ポケットから赤と青のカスタネットを取り出して、カチカチと鳴らして見せた。家に転がっていたやつだ。
「……そんなんでいいのかよ。」
「練習なら十分よ。格好だって、舞装束だと足の動きとか見えなくなっちゃうから、いつも通りの方が、かえって都合いいの。」
与作は納得して、拝殿の脇に下がった。なるほど、そういうものなのか。
「じゃ、始めるからね……」
時雨は本殿の方を向いた。すこし中腰になるような姿勢で膝をすっと曲げた。両腕と体の間に空間を作るように肘を張り、手を腿のあたりに置いた。
―かしこみかしこみ申す。
―この神楽を御前に捧げ奉り、
―その御心を和め奉らんと、
―敬み奉りて舞い奉る。
時雨が奏上詞を唱え始めると、与作はあたりの空気が少し静まりかえるような気がした。その不思議な静かさと、緊張感が、ふいに去年の夏祭りでの母の舞の様子を蘇らせた。
時雨は、庭の奥の本殿の前に立っていた。四方に松明の明かりが灯っている。朱と白の装束。そして顔に着けた女性の面の頬の白が、篝火に照らされ赤に染まるのを覚えている。
―土の豊かなること、
―水の清らかなること、
―焔の温かなること、
―風のさやかなること、
―理の恵み、永遠に絶えぬことを願い奉る。
奏上が終わると時雨の持つ鈴の音がなる。
―シャン、シャン、シャン、
舞が始まる合図で、合わせて太鼓の音が響き始める。
―トン、トン、トントン
時雨がまず前に一歩すり足で進み、鈴をシャンと鳴らす。太鼓の音がそれに合わせて、トンとなる。続けて二歩目、三歩目が続き、歩みに合わせてシャンシャンと鈴の音が響く。太鼓が合わせてトントン、となる。前に進んだ位置で、シャンシャンシャンと鈴を鳴らし、太鼓も合わせてトントントンと鳴る。三度の鈴と太鼓の音が響いたところで時雨は右手に持っていた短刀を振り下ろした。
くるりと優雅に右回りで背の方向を向き、三歩のすり足で元の位置に戻った。そのままの本殿を背にする向きで鈴を一歩ごとシャンに鳴らす。やはり太鼓も歩みに合わせてトンと音が続き、三歩進んだところで止まる。その位置でシャンシャンシャンと鈴を鳴らし、太鼓も合わせてトントントンと鳴る。また短刀を振り下ろす。
また中央に戻り今度は左手の方向。シャントン、シャントン、シャントン。シャンシャンシャントントントン。短刀が振り下ろされる。
中央に戻り今度は右手の方向。シャントン、シャントン、シャントン。シャンシャンシャントントントン。短刀が振り下ろされる。
四方に同じ動きを繰り返し終わると、今度は右手の位置のままで、シャンシャンシャンと鈴を鳴らし続ける。そこから短刀を振り下ろした4つの位置を結ぶように右回りに円を描きながら、ぐるぐると巡る。シャンシャンシャンと鈴を無らし続け、太鼓はその音色をトントントンと追いかける。時雨が描く円の軌跡はだんだんと小さくなり、始めの位置に戻っていく。
完全に中央の位置に戻ったところで、時雨は最後、鈴を一振り鳴らし、あたりは再び静けさを取り戻した。篝火がメラメラと放つ熱と光の気配。そして時雨の乱れた息遣いが静かに聞こえてきた。
「……与作?ちゃんと見てた?」
母の声ではっと与作は我に返った。時雨はすこし肩で呼吸をしていて、動き回って上がった体温のせいで、すこし汗ばんでいる。朱と白の装束ではなく、普段も着ている黄色い半袖のシャツに、黒のジャージ時のズボンだ。
「あ、うん。見てたよ。……なんかすごい。」
「あんたねえ、ちゃんと集中してないと、身に付くものも、付かなくなるよ。」
まったく、と時雨はすこしため息を付いた。ただ、ぼんやりしてても息子にすごいと言わせたので、ほんの少し、してやったり、と心のなかでガッツポーズを決めた。
「言葉も動きも、順番とリズムが大事なの。本番まで何回も繰り返して、体に覚えさせてくわよ。」
「うへぇ……。母さんも俺の体に叩き込むのかよ。父さんの剣の稽古みたいじゃんか……」
日頃の父、久作の剣術指南を思い出して、与作は身震いがした。
「つーか、本番は向こうの神さまのとこでやるんだろ?そこの前で練習しなくてもいいのかよ……」
「お、生意気にもまともなこと言いやがるわねぇ、与作さん。」
やれやれ、と思いつつも時雨は感心した。
「いい着眼点だけど、却下。神さまも下手っぴな舞を見せられても、つまらないでしょ?」
「まぁ、それはそうだな。」
いいことを言ったつもりでいたが、見事に打ち返されて、妙に納得した与作だった。
「まぁ、下手っぴでも拝殿使わせてもらうんだし……ちゃんとご挨拶しとこっか。」
そういって、時雨は本殿に続く引き戸を開け、おいで、と与作を手招きした。
拝殿から降りると、本殿まで石畳の道が続いている。その道を歩いて、二人は本殿の前に進んだ。本殿前は石畳の正方形のスペースが作られている。与作が先程思い出した時雨の舞は、ここをところ狭しと動き回っていたのだった。
時雨はぴしっと直立して、二礼をし、少し大げさな柏手をパンパンと二度ならした。
「今日から下手っぴ与作が場所をお借りします。頑張るのでよろしくお願いします。」
と与作に聞こえるように、少しふざけた調子で唱えた。おいおいなんだそれ、と思ったものの、反論の余地もない与作だった。
「ほら、あんたもちゃんとお願いしときなさい。」
と言われ、渋々と二礼二拍手した。
「頑張るんで、お願いします……」
与作が不本意そうに唱えた。少し間をおいて、ふたりは揃ってぺこりと一礼をした。
手を下ろすと、時雨は肩を撫で下ろすようにして口を開いた。
「この神さまはね、私達のご先祖様の時代からずーっとここでみんなのこと見てたんだって……」
「それって、百年前くらいからか?」
与作は、最近覚えた数字の中で一番大きい数字をだして聞いてみた。
「ううん、もっと前から。何千年、何万年も前かもしれない……」
時雨は目を細めて言った。
「でもまぁ、母さんにとっては、お友だちなんだよね……見えないけど。」
「友達って、この神さまが?」与作は不思議がって訪ねたが、
「そ、お友だち。大親友なんだから。」
と時雨はニッカリ笑って返した。
お友達ねぇ……、何だそれと思いつつ本殿を見やった。拝殿よりももっと古い木の質感をしている。よくこれで壊れないものだなぁと子供ながらに思った。
本殿の観音開きの扉には錠がかかっていたが、建付けが悪くなっているのか、わずかな隙間が空いていた。
与作はその隙間の奥が、妙に気になって、視線を隙間の奥のなにかに向けた。灰色っぽい塊の表面のでこぼこした質感がちらっと覗いた。多分、石か何かなんだと思った。
石なのか……と思った直後、何かと目があったような気がした。
驚いて、ふいに時雨の手を握った。
「どうしたの?」
時雨は不思議そうに尋ねた。
「いや、なんか、中にいた気がする……」
自分でもそんな馬鹿な、と思いつつも口に出した。
戸惑っている与作を見て、時雨は間をおいて、そっか、と答えた。
中にいた何かが気になって、隙間をもう一度覗いて見ようとした。
……なにか。
……とてつもなく大きな何かが、自分をみつめている、そんな気がして……
全身が強張った。
――そこで、与作は目を覚ました。
つけっぱなしになっていた、テレビの音が耳に入ってくる。眼の前には大学の近くに借りた安アパートの天井。カーテンの隙間から夜明け前の青みがかった光が漏れている。
(また、子供の頃の……死んだ母さんの夢か……)
時雨が亡くなったのは、夢に見た13年前のあの日から2年後。与作が7歳の時だった。元々、体調を崩しやすいところがあったが、晩年は徐々に弱り、最終的には床を離れることも叶わなくなった。
テレビの音が、朝のニュース番組に変わった。
「おはようございます。朝のニュースをお届けします。本日未明、神奈川県横浜市の横浜駅で不審火による騒動がありました。現場に居合わせた人たちの一次消火活動により、大きな被害には至りませんでした。神奈川県警は事件の可能性もあるとみて、原因を調査しています……」
(また、不審火騒ぎか……。最近多いねぇ……)
与作はベッドから起き、カーテンを開いた。コンクリート建てのマンションや、住宅の上に空が広がる。空模様は、少し晴れ間はあるが、雲が多い。
窓を開けると、雨上がりの匂いを含む冷たい風が吹き込んだ。遠くには鉄道の走る音が聞こえる……。
「……珈琲でも入れて飲むか。」
ある秋の普通の日の始まり。
……秋が終われば冬が来る。それはいつものことだ。
この作品は、
『エルファリアⅡ』『ファイナルファンタジーⅣ』『ゼルダの伝説』
そんな名作たちに捧げる、ささやかなラブレターです。
10代の頃に妄想していた「現代社会でRPGをやってみたら?」という構想を、
AIという最強の“パートナー”の支援を得て、ようやく物語として結実させました。
すごい時代になりましたね。
物語の始まりに、少しだけお時間をください。
どうぞ、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
【2025.07.12追記】
ローファンタジーを名乗っていましたが
ジャンルをハイファンタジーに変更しました。
しばらくはローに見えるかもしれませんが、やがてハイにしか見えなくなるはずです。