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ラブコール2530

 個人の無理のない範囲で、かつ、匿名という免罪符を握りしめて何かしら大きな影響を他者に及ぼしたいとき、最も手軽な手段は何であるか。

 宅電……固定電話を置かなくなって久しいが、我が家に据え付けることにした。理由としては、回線の契約があり、せっかくならば置いても良いかと思ったこと、そして何より、家の所在を証明する固定電話というものが、何か社会に根ざしたもののように思われたからである。


 とはいえ、そう頻繁に掛かってくるものでもない。引きたての番号は親族にしか伝えておらず、些末な用事ならば携帯で済んでしまう。


 当然ながら出先では応答不可ということも相まり、子機付きの電話には、早くもうっすらと埃が積もり始めていた。


 換気扇の下で煙草を吸っていると、キッチンのデジタル表記の電波時計が一時二十八分を示しているのが見えた。油と、煙とでベタベタとした汚れの付着した換気扇は、耳障りな音を立てて回転している。その回転で起こった気流と、外から流入する冷気とで、煙は絶えずその方向を変えていた。


 胸が悪くなる臭いを吐き出し、水を入れたペットボトルに煙草を捨てたとき、電話が鳴った。


 ホルストの木星の音色が、携帯ではないことを知らせる。


 ため息をついた。


 こんな時間に掛かってくる電話など、およそ非常識なものに違いない。大方、業者か何かが番号を手に入れ、片っ端から掛けているのだろう。


 しかし、違和感もあった。業者がこんな時間に掛けてくるだろうか……?


 セールスなら、もっと明るい時間……例えば日中の昼下がりとか、遅くとも五時くらいであろう。そもそも、こんな時間に応答する人間で、勧誘に応じる者がいるとは思えない。総じて、メリットが薄い。


 では……今鳴っている電話は……?


 呼び出しは未だ続いている。出ない方が良いという理性的な判断を裏切り、ぼくは子機を手に取っている……。


「はい、どなた?」


「……」


「もしもし?」


「……」


 無言電話か。そう思って切りかけたとき、向こうで気配がした。


「死にたくなるときって、ない?」


「……?」


 女の声だった。以外にも芯のありそうな、張りのある声……しかし、それでいて、どこか浮世離れした印象を与えるような調子だった。


「ないの……?」


「一体誰なんだい。掛けてきたなら、まず名乗るのが筋じゃないのか」


「名前が重要……?」


「そりゃあ……誰かも分からない相手からの電話なんて、薄気味悪いじゃないか」


「名前を言っても、分からないのに?」


「何というかな……誠意なんじゃないかな。匿名というものほど、姑息で、卑怯なものはないからね」


「じゃあ、あなたが付けてちょうだいよ」


「何だって、ぼくがそんなこと……もう切るよ」


「あ、お待ちになって。私ね、これから死のうと思うんです」


「死ぬ?」


「そう……ね、聞こえる? ほら」


 耳元で、何か軋むような音がした。


「ロープがね、鳴っているのよ……」


「それで自殺って訳か。いたずらもここまで手が込むと中々だね。それじゃあ、もう切るからね。掛けてこないでくれよ」


「待って……」


「まだ何か?」


「私、あなたを愛しているのよ」


 いよいよ頭のおかしい手合いのいたずらに引っ掛かったらしい。


「面識もない相手に、よくもそんなことが言えるもんだね。からかうつもりなら、他所でやってくれないかな。いい加減迷惑なんだ」


「あら……ごめんなさい……」


 女の声の調子が、急にしおらしくなる。妙な罪悪感があり……それで益々ぼくは不快になる。


「……この番号をどこで?」


「出鱈目よ……出鱈目……」


「ぼくは、よくよく運が悪いらしい」


「ね、私のこと、好き?」


「どうだろうな……」


「嫌い……?」


「さあ……」


「さようなら」


 それきり、女からの言葉は途絶えてしまった。後に、何やら物音と、女のうめき声がして……それで本当に何も聞こえなくなってしまった。


 しばし、子機を片手に呆然としていた。いやに換気扇の音が耳に付く。


 番号を見ると、公衆電話からだった。


 女は、幻のように消えてしまった。


 子機を置くと、ぼくはコートを羽織り、冬の町へと歩み出していく……。


 外の冷え込みは尋常ではなかった。氷点下はとっくに割り、今夜辺り雪が積もりそうだ。


 古新聞が、水溜まりに落ちていた。その上に薄氷が張っている。踏みしめると、微かに音がする。


 ぼくは歩き続けた。そして目的地に辿り着くと、百円玉を入れる。


 かじかんだ手を動かし、出鱈目にボタンを押すと、気配があった。


「死にたいと思ったこと、ありませんか……」


 相手が息をのむ感触が、緑色の受話器を通じて耳朶を打った。息の感触からして、女であるとすぐに分かる。


 ぼくは、無意識につり上がった口角を下げるのも忘れ、既に水底のように静かな満足感に沈みつつある……。

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