婚約破棄を言い渡した王子ですので。
『君との婚約を破棄する』
アナスタシア・パシフィク公爵令嬢に、僕がその言葉を吐いてから、どれくらいの月日がたっただろう?
王位継承の跡目争いに敗れ。
僕は塔に幽閉されていた。
腹違いの兄からハニートラップが送られて来た時点で、覚悟はしていた。婚約者であるアナスタシアを遠ざけたまでは良かったんだけどなぁ。
僕がいる塔の最上階で。
けたたましい音と共に、窓ガラスが粉々に砕け散った。
外側から伸びた華奢な手が、窓の鉄格子をグニャリと曲げる。
現れたのは、月光を銀の髪に靡かせ、エメラルドの瞳が輝かしいアナスタシアだった。
「無事ですかパトリック殿下!? さあ、突っ立ってないで、逃げますわよ!」
「あ、あぁ。ハイ」
まるで勇者に助けられる姫のごとく、伸ばされた手をギュッと握り返す。
かなり、やんちゃして来たらしい。ところどころ煤汚れ、傷を作って現れた彼女の身体が傾く。
アナスタシアはそのまま、窓の外に僕ごと身を投げ出した。「ぶびゃぁあぁぁぁッッ!?」なんて情けない悲鳴は出なかった。きっと。おそらく。
魔法のきらめきは、彼女の足先から風となり、そのまま優雅に地面へ着地する。
疾走を開始したアナスタシアに、僕は控えめに声を掛けた。
逃げ切れる確率はゼロに近い。こんな勝算のない逃走劇に、完璧を求める彼女が加担するのが不思議でならない。
常日頃から僕の耳には痛い小言を浴びせ、「王族とは」と説く、手本でお綺麗な姿とは、今はかけ離れていた。
「なんで来たんだアナスタシア。君らしくもない」
「たまには本能に従ってみましたの!」
笑顔の彼女が眩し過ぎて、目が潰れそうだ。これだから陽キャは。
そうか、本能か。僕は苦笑いしつつ、長い幽閉生活で忘れかけた本能に任せて口にした。
「君が好きだ」
頬を染めた彼女が可愛くて、さっき以上に眩しすぎて、心臓から口が飛び出そうで、一瞬、状況も忘れてしまった。
「アナスタシ……ア?」
アナスタシアは痛みすら感じなかっただろう。
覇者を思わせる腹違いの美しい兄が、手にした魔法剣から血糊をシュッと払い、静かに佇んでいた。
威圧感がハンパなくエグい。
こいつを前にしたら、魔王も裸足で逃げ出すんじゃないかと、常々思っていた。
命乞いをしようとして── 諦める。
勝てるなら、とっくの昔に僕は、父すら蹴落として玉座に腰掛けていただろう。
振り上げられた剣に、瞼を閉じる。
彼女の後を追うように、僕も地面に突っ伏した。今生の別れに、最後に顔をひとめ見ようと、銀髪を払ってやる。
視界が霞み、スーっと身体が軽くなる。
流れたはずの赤色が水を吸うスポンジのように、僕のカラダに戻って来る。
僕の意思とは関係なく動く身体。
まるで、絵本のページを逆からめくって読むみたいな。そんな感覚。
床に飛び散ったガラスの破片が、綺麗に窓枠にはまる。
僕は何事もなく、塔の最上階の部屋で突っ立っていた。
手足の自由が戻って来る。
兄の送り込んで来た女なんか、クソ喰らえ! と、秒でしりぞけてやったら、塔に幽閉され。
この繰り返す時間の流れが、前に変わった時があった。
ここに現れたアナスタシアへ婚約を破棄しようと伝えた時。僕の後釜は腹違いの兄でってなって──。
その時は結局、最後の最後にアナスタシアを引き止めてしまった。結果はこのザマだ。
あれから、どれくらいの月日がたっただろう?
とっくの昔に、──この現象を数える事をやめた僕には、知るすべはない。
再び、窓ガラスが砕け散る。
大好きだった。
この世界で君しかいらないと、本気で思っていたほどには、愛していた。
今はもう、自分でもよく分からない。
それでも──
鉄格子がひしゃげ、必死な形相の君が顔を覗かせる。
僕だけを見据える瞳と、視線が交わる。
何度見ても、この瞬間、君にトキメク。
僕が強い人間なら、何百回、何千回でも何万回だろうと諦めずに前にすすむのかもしれない。
君はまるで物語りの主人公みたいに、不屈の精神で、何度でも死んでやるって、なんて事のないように言ってくれるかも知れない。
だからこそ── ……いつか。
いつか、この地獄みたいに繰り返される時間が終わって。
本当にアナスタシアが死んでしまう、正真正銘の地獄がやって来るかも知れない。そんなの僕が耐えられない。
君を幾度も死なせてしまう、苦しみを、僕のこころを守るため。
決して、アナスタシアのためなんかじゃない。
反吐を吐くような思いで、なんでもない事のように口にする。
「君との婚約を破棄する」
ありきたりなセリフだからこそ、前よりも、その言葉に重みを乗せて。
さよなら、アナスタシア・パシフィク公爵令嬢。僕の婚約者。
君が好きだ。
それでも、君の幸せを本気で願えない僕は、── 今度こそ、クズな王子に成り下がった。
たぶんヘタレなので、冒頭に戻る。