ネヴァルト 3
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ねえ、ママ――、と。
誰かが呼んでいる。
体というよりは、魂ごと揺さぶられるような不思議な感覚を覚えて顔をあげれば、目の前には、くるくると緩く波打つ金髪の、十歳くらいの少年が立っていた。
エイジェリンが体を起こすと、男の子はにっこりと笑って、エイジェリンの胸に顔をうずめる。
ママ、と甘える声に、わたしはあなたのママではないと言いかけて、口をつぐんだ。
胸元に暖かい何かを感じて視線を落とせば、男の子が泣いていたからだ。
「ママ……ねえ、ママ……、僕はここにいるよ。ずっとここにいるよ。……僕じゃロンの代わりにはなれないけど、でも僕はずっとママの側にいるよ。ねえ、ママ……」
(ロン……?)
いったい何の話をしているのかはわからなかったが、この子がとても悲しんでいることだけはわかった。
おずおずと、男の子のふわふわの髪に手を伸ばして撫でると、彼がより一層抱きついてくる。
周囲を見渡しても、男の子と自分しかおらず、濃霧の中に迷い込んでしまったかのように、あたり一面真っ白だ。
「…………アルジャーノン?」
なんとなくそんな気がして呼びかけたが、彼はエイジェリンの胸に顔をうずめたまま首を横に振った。
「……。…………ネヴァルト」
少しの葛藤ののちに告げられたのは、知らない名前だった。
「僕は、ネヴァルト・クリンシア」
クリンシア、と国の名前を冠することができる存在は王族だけだ。
ママと呼ばれて、もしかしたらアルジャーノンかもしれないと思ったのに、違う王族の名前が出てくるのは何故だろう。
「……ネヴァルト」
エイジェリンが呼びかけると、彼は小さく顔をあげて、涙でぐちゃぐちゃになった顔をふわりと微笑ませる。
その瞬間――
「っ」
エイジェリンは頭を押さえた。
強い頭痛とともに、膨大な数の情報が頭に流れ込んでくる。
あまりの痛みに意識が飛びそうになっていると、ネヴァルトがささやくように言った。
「ママ……約束。僕との約束、覚えているでしょう? 僕……」
ネヴァルトの声がだんだん遠くなる。
ずっとずっと待っているんだ――
意識が暗転する直前、エイジェリンは、震えるネヴァルトの声に向かって、必死に手を伸ばした。
「エイジェリン!」
ウィリアムの声にハッと目を開ければ、目尻に生暖かい感触があった。
なんだろうと手を伸ばそうとして腹部に走った激痛に眉をしかめる。
ウィリアムの顔の奥に、板張りの天井が見えた。
どうやらエイジェリンは寝かされているらしい。見たことのない部屋だが、ここはどこだろう。
ウィリアムがエイジェリンの目尻を拭う仕草をしたから、生暖かいと思ったのは自分の涙らしかった。
なんだか頭が痛くて、ぼんやりしていると、ウィリアムの声を聞きつけてか、狭い部屋の中にルーベンスが姿を現した。
ルーベンスが説明することには、エイジェリンは二日目を覚まさなかったという。
ここは川岸の茶屋で、騒ぎを聞きつけた店主が二階の部屋を貸してくれたらしい。店主はかつて医師として従軍したことがあり、彼のおかげで、迅速な手当てが行えたそうだ。
(あ、そっか……、わたし、刺されたんだったわ)
馬車から降りようとしたとき、御者に刺されたのだ。
差しどころが悪かったら助からなかっただろうとルーベンスが言う。
あのとき、ウィリアムの声を聞いてエイジェリンが身をよじらなければ、確実に死んでいた。
ウィリアムは、馬車を停めようとしたとき、御者台に倒れているポールを見て、咄嗟に声を上げたらしい。
ポールは頭を殴られていたが、命に別状はないようで、一時間後に目を覚ましたそうだ。
「何か裏があるだろうと予想していたのに、君を一人で馬車に乗せた俺の落ち度だ……」
ウィリアムはエイジェリンの左手を握りしめて、きつく目を閉ざした。
その時、親指に硬い感触に気が付いてエイジェリンが首を巡らせば、ブラックダイヤモンドの指輪がエイジェリンの左の親指にはまっていた。
驚いていると、ウィリアムが、指輪が勝手にエイジェリンの指に移ったのだと説明してくれる。
「アルジャーノンも、君を守りたかったんだろう」
「…………違い、ます。アルジャーノン王子では、ありません」
あの夢は、指輪が見せた夢だったのだ。
思い出すと、また涙が溢れて生きて、ウィリアムが焦ったように顔を覗き込んでくる。
「痛むのか? それほど深い傷ではなかったそうだが、一か月は安静にしていた方がいいと店主が言っていたんだ」
「違います。一週間です。一週間が絶対安静で、残り三週間は重いものを持ち上げたり、運動をしたり、腹部に負担をかけなければ日常生活を営んでいいと――」
「うるさいルーベンス! 動き回って傷が開いたらどうするんだ!」
「…………一か月もベッドの上に拘束される方が可哀そうだと思いますけどね、私は」
やれやれ、とルーベンスが肩を落とす。
「ああ、それから、傷は残るらしいです」
「お前にはデリカシーと言うものがないのか‼」
「そう言うなら、絶対安静の怪我人の前で大声を出す旦那様もどうかと思いますけど」
「お前が怒鳴らせているんだっ」
エイジェリンは布団の上からそっと腹部を押さえる。
傷が残るのはショックだけれど、刺されたのだから致し方ない。命があっただけよしとすべきだ。それにエイジェリンはもう二十歳で結婚適齢期を少し過ぎている。伯爵家を取り戻すことができたとしても、良縁は望めないだろう。だから――、大丈夫。
ウィリアムがルーベンスを睨みつけるも、彼はどこ吹く風で、狭いベッドの縁に浅く腰掛けた。
「それで、アルジャーノン王子ではないというのは、どういうことですか?」
どのくらいの大きさの傷なのかなとぼんやり考えていたら、ルーベンスが訊ねてきた。
エイジェリンはハッとして、意識を失っている間に見た夢について説明する。
「彼はアルジャーノン王子ではなくて……自分のことを、ネヴァルト・クリンシアと名乗っていました」
「ネヴァルト・クリンシア? どこかで聞いたことがあるような……」
「先々王……おじい様の時代の王子で、私の叔父だ。ウィリアム」
突然第三者の声がして扉の方を見たエイジェリンはぎょっとした。
「陛下⁉」
部屋の入口に立っていたのは、フリードリヒ国王その人だったからだ。
(なんでここに陛下が⁉)
ここは川岸にある小さな茶屋だ。こんなところに国王が来たら、店主は驚いてひっくり返ってしまうのではなかろうか。
唖然としていると、ウィリアムが「あー……」と言いにくそうに頭をかいた。
「君には黙っていたんだが……、実は、一日遅れで、陛下もハーパー伯爵領に向けて出立していたんだ。ひとつ前の町の宿で待機していてもらっていたんだが、退屈して結局ここまで来てしまった。驚かせてすまない」
エイジェリンは絶対安静だから寝ている部屋まで上がって来るなと言われて、フリードリヒは一階の茶屋でパンケーキを食べていたが、食べ終わって上がってきてしまったらしい。
「それで、ネヴァルト・クリンシアとはどういうことだろうか?」
狭い部屋に三人の背の高い青年が集まったので、部屋の中はぎゅうぎゅう詰めになってしまった。
しかし、エイジェリンが動けないので部屋を移ることも、外に出ることもできない。
ルーベンスが場所を開けるために窓際まで移動して、フリードリヒがベッドの横まで歩いてくる。
「その前に、ネヴァルト・クリンシアについて教えてくれませんか。俺は知らないですよ?」
「それはそうだろう。叔父は十歳の時に行方不明になったままいまだに見つかっていない」
「行方不明……?」
「ああ。私も詳しくないが、どこかに出かけたっきり戻ってこなかったとかなんとか……」
ネヴァルト・クリンシアについての情報は多くないのか、フリードリヒが顎に手を当てて情報を思い出す仕草をするけれど、それ以上のことは何も出てこなかった。
エイジェリンは、そっと、左の親指にはまった指輪を撫でつつ口を開いた。
「療養で実家に帰る乳母について行ったんですよ。……そして――」
話しているうちにツンと鼻の奥が痛んで、涙があふれてくる。
泣き出したエイジェリンにウィリアムがおろおろするが、フリードリヒは興味深そうに続きを求めた。
「乳母か。確かにネヴァルト・クリンシアが生まれてすぐ王妃が……祖母が亡くなり、彼の養育は完全に乳母に任されていたらしいからな。第四王子で、しかも病弱だったため、重要視されていなかったこともあるのだろうが」
「はい。……その乳母ですが、ロンという一人息子がいました。ロンは流行り病で亡くなって、それ以来、彼女は気鬱の病にかかってしまったようです。実家に戻って療養する彼女に、ネヴァルト王子はついて行くことにして……そして、閉じ込められて死にました」
「な⁉」
フリードリヒが目を見開いた。
「乳母は、彼に迎えに来ると言いました。ここで待っていて、と。農家に話をつけてくるから、約束通りジャガイモ堀りをしましょうね、と。でも彼女は戻ってきませんでした。ネヴァルト王子は、ずっと彼女を待ち続けて、やがて命を落としました。……この、ハーパー伯爵領で」
はらはらとエイジェリンの目からとめどなく涙があふれる。ネヴァルトが見せた過去のせいで、彼がどれだけ乳母を恋しく思い、信じて待ち続けたのか、痛いほどよくわかるからだ。
エイジェリンは両手で顔を覆った。
「彼は今も待っています。乳母が、自分を迎えに来てくれるのをずっと……一人きりで」
「場所はどこだ。わかるかい?」
フリードリヒが厳しい表情で訊ねる。
「ハーパー伯爵領の北にある古城の跡地です」
「取り壊しが決まっている、あの? だがあそこは、もう上の階のほとんどが壊れているぞ」
エイジェリンは、小さく頷く。
「一階の東にある、キッチンの中です。扉はあるけれど、錆びついていて、子供の力では開けられるものではなくて……ネヴァルト王子は、自力で外に出ることはできませんでした」
「もういい、エイジェリン」
ウィリアムがベッドの縁に座ると、エイジェリンの肩に手を回す。
「指輪のせいだろう。君はネヴァルト・クリンシアに同調しすぎている。深呼吸をするんだ。それ以上泣いては、傷に触る」
傷に気を付けるように、ウィリアムがゆっくりエイジェリンを引き寄せる。
エイジェリンはウィリアムの胸に顔をうずめて、大きく深呼吸をした。繰り返していくうちに、涙が収まっていく。
「乳母は……優しかったけれど……息子のロンを亡くしてからはネヴァルト王子につらく当たることもあったようです。ロンが死んで、どうしてあなたは生きているの、と……責められて、ネヴァルト王子が泣きながら謝っている様子が見えました。でも、ネヴァルト王子は本当に乳母が大好きで……、早く、迎えに行ってあげてください」
エイジェリンも行きたかったが、この怪我では向かうこともできない。エイジェリンの怪我が治るまでネヴァルトを待たせるのはあまりにも可哀そうだった。
ウィリアムに抱きしめられたままエイジェリンが頼むと、フリードリヒが大きく頷き、踵を返した。
「ウィリアム。正義のヒーローごっこは後回しだ。私は騎士たちを連れて今から北の古城に向かう」
フリードリヒが慌ただしく階段を駆け下りていく足音が聞こえる。
エイジェリンはホッと息をついて、疲れてしまったのか、そのまますぅっと眠りに落ちた。
 




