ネヴァルト 2
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ルーベンスによってエイジェリンが伯爵令嬢(正確には元だが)だと暴露されたせいで、ブラッド家の使用人と少しぎくしゃくしたけれど、日が経つうちにアニスやドーラなど一部の使用人たちは自然に接してくれるようになった。
もともとエイジェリンの仕事がウィリアムの身の回りの世話に限定されていたこともあって、ほかの使用人と仕事がかぶらないから、変な気を遣わせずにすんだのかもしれない。
ドーラは「通りで包丁もまともに使えないはずだよ」を苦笑して、アニスなどはわくわくしながら伯爵令嬢の暮らしについて根掘り葉掘り聞いてくるようになった。ただ、ケリーだけは、まるで腫れ物に触れるのを恐れるかのように、今まで以上にエイジェリンと距離を取って、話しかけられることもなくなってしまったけれど。
アニスは「厭味がなくなっただけましよ」と言うし、ケリーに何か言われるかもしれないとビクビクしなくてよくなったのは確かだが、雇われたばかりのころに、丁寧に仕事を教えてくれたのは彼女で、その時の厳しいけれど優しさの垣間見えるまなざしを思い出すとやるせなくなるのも事実だった。
ロバートが一方的に告げてきた二週間がたって、ウィリアム家の前に一台の馬車が停まった。
栗毛の馬四頭に引かれた馬車には、白鳥の紋章が描かれている。懐かしい。ハーパー家の馬車だった。
ウィリアムとともに馬車に向かうと、御者台には二人の男が座っていた。そのうちの一人が、エイジェリンの知っている知る御者で、懐かしい顔に、エイジェリンの胸がぎゅっと締め付けられた。
「ポール?」
そっと、ささやくように呼びかけたのに、五十手前ほどの少しぽっちゃりした御者が振り返り、目尻に皺を寄せて微笑んでくれる。
「お嬢様……なんとまあ、お美しくなられて……」
そのまま、感極まったように泣き出した、エイジェリンが生まれる前からハーパー伯爵家に仕えてくれている御者に、エイジェリンの涙腺も緩む。
ウィリアムにそっと肩を押されたので駆けよれば、ポールも御者台から降りて、少しぎこちない様子でエイジェリンを抱きしめる。
エイジェリンは子供のころから、ポケットに飴を忍ばせては「旦那様には内緒ですよ」と言ってエイジェリンの手に乗せてくれていたポールが大好きだった。
エイジェリンが去って、ハーパー家の使用人のほとんどが入れ替えられたというが、気難しい一部の馬たちがポール以外の御者に懐かなかったため、彼はそのままハーパー伯爵家に残されたらしい。
「道中、彼女をくれぐれもよろしく頼む」
ハーパー伯爵家の馬車に乗るのはエイジェリン一人だ。ウィリアムはブラッド家の馬車に乗って後ろをついて走るらしい。
「もちろんです。これ以上ないくらいの安全運転で走りますよ」
ポールが大きく頷いて、エイジェリンを馬車に乗せてくれる。
ハーパー伯爵領は、王都から馬車で三日ほどの距離だ。
途中の休憩や宿では、ウィリアムも馬車を降りるので会えるけれど、馬車の中では基本的に一人きりである。
ちょっとの不安と淋しさを覚えて、馬車の窓からウィリアムを見れば、彼はにこりと笑って手を振ってくれた。
ウィリアムが後続のブラッド家の馬車に乗り込むと、ガタンと小さく揺れて馬車が動きはじめる。
ハーパー伯爵家に帰るのは、五年ぶりだ。
懐かしくて、嬉しいけれど、とても緊張する。
(お父様、お母様……見守っていてくださいね)
エイジェリンは左の手首にはめているルビーのブレスレットに触れて、そっと目を閉じた。
☆
窓外の景色が、見慣れたものに変わった。
ハーパー伯爵領の入口に差しかかって、広がるブドウ畑に目を細める。
父がはじめたワイナリー産業の調子はどうだろうか。味が安定するまでに十何年もかかる父が言っていたから、まだ試行錯誤を続けている状態だろうか。
収穫が終わって葉も落ちた枝だけのブドウの木が広がる畑を眺めながら自分が植樹したブドウの木はまだあるだろうかと昔に思いをはせる。
ワイナリー産業は、エイジェリンが十二歳だったころにはじまった。その時に、父とともに一本のブドウの木を植えたのだ。この木が大きくなって、たくさんの実をつけるころ――エイジェリンが結婚するときに、このブドウで記念のワインを作ろうと笑った父の顔が瞼の裏に蘇る。
ここからハーパー伯爵家までは馬車で二時間もかからない。
伯爵家に向かうまでに、川沿いにある茶屋で休憩を挟もうとポールが提案してくれたので、今はそこに向かっている。
その茶屋は、エイジェリンのお気に入りの場所で、店主が作るマーマレードジャムと蜂蜜がたっぷりとかかったパンケーキが絶品だ。
小さなテーブルが三つ並んだ小さな店だが、子供のころのエイジェリンは何かにつけて行きたがり、父が暇を見つけては連れて来てくれていた。もう五年以上来ていないが、エイジェリンのことを覚えてくれているだろうか。
道が狭いので、店から少し離れたところにある空き地に馬車を停車する。
後続のウィリアムの馬車が停まる前に、御者がエイジェリンの乗った馬車の扉を開けた。いつもポールが開けてくれるのだが、馬たちに何かあったのか、今日扉を開けたのはもう一人の三十前半ほどの外見の御者だった。
「ありがとうございます」
五年も家庭教師や使用人として働いていたから、御者相手にもつい敬語を使ってしまう。
礼を言って立ち上がろうとしたエイジェリンに、御者が無言で手を差し出した――その、瞬間。
「エイジェリン! だめだ‼」
完全に停車していない馬車の扉を開けて、ウィリアムが大声で叫んだ。
え、と顔をあげたときには、もう遅かった。
キラリ、と視界の隅で何かが光って、腹部にドン、と衝撃を感じる。
何が起こったのかを理解する前に、ただ、熱い、と思った。
「エイジェリン‼」
ああ、刺されたのだ、と、理解した直後に、エイジェリンの意識は暗転した。