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目覚めたら見知らぬ天井があった。
天蓋に豪奢な家具。高そうな壁紙にシャンデリア。
ここはどこだ。
あたりを見回すが心当たりはない。
とりあえずベッドから起き上がり、窓の外を見る。広い庭はよく手入れがされているだろうことが分かった。以前テレビで見たイングリッシュガーデンに似ている。
となるとここは英国か。
しかし昨日は仕事だったはずだ。
と、思ったところではたと気が付く。
…自分のことが分からない。
分かるのだが、霧がかったように嫌な感触があるだけ。すっきりと思い出すことができない。
寝ぼけているのか、転倒時に頭でも打ったのか。
庭園を窓から眺めていると豪奢な飾りが彫られたドアがノックもなしに開かれた。
「奥様、お目覚めになったのですね」
これまた英国風なメイド服を着用した30代くらいであろうか、女性が目を見開いている。
手にはタオルがかけられた洗面器を持っている。
洗面器を持ったまま、メイド服の女性はそのままドアから姿を消し、医者と思わしき数名のものと一緒に再び戻ってきた。
戻ってくるときもノックはないのね。
入ってきた者たちの中には男性もいるのに、ノックもなしに開かれた扉に違和感を持つ。
医者と名乗った男性が手首を持ち、脈を図りながらいくつかの質問をする。
結果。
結婚して僅か2日の、帝国唯一の公爵夫人のサラシナ・エバーグリーンはおそらく転倒し、頭部をぶつけるなどしたため、記憶が混濁している可能性があることが発覚した。
「おそらく」とついたのは、夫人が転倒した瞬間をみたものが誰も見たものがいなかったからだ。
侯爵夫人にお付きの侍女が1人もいない?
サラシナは手首を持たれたまま周りを見渡す。
慇懃な目でサラシナを見つめる執事。頭を垂れてはいるが、軽視を隠そうともしないメイドたち。
結婚して2日なのに既に嫌われているとか何故?
サラシナは渡された苦い薬を飲み干す。
記憶がないと言われたが、記憶がないというよりも、混濁しているといった方が正しいと思う。
サラシナには記憶があるのだ。
経理として、社畜をしていた、確固たる記憶が。
そしてサラシナとしての記憶も。
しかしそのどちらの記憶もあるが、どちらも曖昧ではっきりと思い出す事が出来ない。
両方の記憶があることがキャパシティオーバーなのか、酷く頭が痛む。
明日できることは明日やろう。
とりあえずサラシナは医師の指示のもと、再びベッドで眠りについた。
◇◇
目覚めたら、昨日みた天井だった。
どうやらこちらが現実らしい。
サラシナは起き上がり、窓から庭園を見る。朝陽に照らされた木々の葉が輝いている。美しい庭園。
どうやら今日で嫁いで3日。
見慣れない庭は光り輝く緑が美しいが、花が少ない為が彩が欠けているように感じだ。
朝の支度をするためにベルを鳴らしてメイドを呼ぶ。
ノックもなしに入ってきたのは昨日と同じ30代くらいのメイド。
昨日と同じように水が入った洗面器を持っている。
一晩眠って、残念ながら記憶は混濁したままだが頭痛は収まっている。
窓を背にしたままサラシナは無言で洗顔用意を整えるメイドに声をかける。
「たしかメイ、だったからしら」
声をかけられたメイド、メイが顔を上げる。
その目にはサラシナを見下す色があった。
なんだかサラシナの記憶の中だとメイどころか、ここのメイドたちに馬鹿にされてた感じなのよね。
結婚して今日で3日のはずなのに。
腕を組みながらサラシナはメイを見る。
蔑ろにされていた記憶のあるサラシナは、しかし社会人として生きていた記憶もしっかり持っている。
『貰っている賃金分は働け』
社会人であった時の信条だ。
何故か社会人として生きていた時の名前は思い出せない。サラシナではなかったような気もするが。
「あなたは子爵婦人だったかしら?」
「…そうですが」
窓からゆっくり歩き、メイが用意した洗顔用の水に指先を入れる。
氷が入っていたかのように、よく冷えた水だ。
「挨拶もできない子爵婦人ねぇ。おまけに水は冷たい。
洗顔用の水は温めるってことも知らないの?」
「それが嫌ならば洗顔しなければよろしいかと」
鼻で笑ったメイに冷たい水が入った洗面器をぶちまけた。
「なにを…!」
言い返すメイに平手打ちする。
殴られて転倒したメイが睨みつけてくる。
「あなたは子爵婦人。わたくしは?」
メイが目を見開く。
「答えて。わたくしは?」
「…サラシナ・エバーグリーン公爵夫人です」
「そう。わたくしは公爵夫人。あなたはメイド。
で。あなたは誰に雇われて、誰のメイドなの?」
「…私は公爵様に雇われて、夫人のメイドです」
「違うわ。あなたはエバーグリーン公爵家に雇われているの。そして私は公爵夫人。あなたはわたくしに雇われているの。
意味、分かる?」
メイの体が震えだす。
「あなたは主に立てついたの。立てついたメイドを教育する権利は雇い主であるわたくしにあるの。
言っても分からないならムチでも打たれたい?」
「…」
「わたくしムチを振るう趣味はないのよ」
溜息とともにムチ打ちがないと告げれば、メイが止めていた息を大きく吐いた。
「でもわたくし、無能が嫌いでね。最低限貰っている分の賃金分を働くのって当然のことでしょう?
最低限の仕事もできない無能を雇っている意味なんてないでしょう? 公爵夫人付きのメイドなんて地位も賃金も高いものね。そんな無能にそんな役職与える必要ないと思うのよ」
サラシナはしゃがみこんで床に座り込んだままのメイと視線を合わせると、にっこりと微笑んだ。
メイは目に見てわかる程に震えている。
「で? どうするの? 今を以てして解雇となって出ていくか、あなたの仕事をするか。紹介状が貰えるなんて思わないでね。何もやらない無能に紹介状なんて出したら公爵家の恥だわ」
「…働きます」
サラシナはにっこりとした作り笑いをけし、真顔でメイの目を見る。
「わたくしね、誰にでも失敗はあると思っているから一度で首にしようとは思ってないのよ。チャンスはあげる。でもね、まずあなたはやるべき事があるのではなくて?」
「大変申し訳ありませんでした。すぐに洗顔用のお水を用意させて頂きます」
その場で額を床につけて謝罪するメイの姿を見て、サラシナはにっこりとほほ笑んだ。
メイがサラシナのメイドになって2週間はたっただろうか。
公爵がサラシナの寝室を訪れたことはない。
それに比例してメイ以外のメイドたちのサラシナへの態度は酷くなるものだった。
帝国唯一の公爵家ともあろうが、執事筆頭に能無しばかり。
メイの入れた紅茶を飲みながらサラシナは深く息をつく。
大体わかってきたし、動きますかね。
「メイ、今夜は旦那様とお食事をするから。そのように伝えて頂戴」