「そのボタンを押すな」とは言ったが、
「やぁ、久しぶりだね。待ち合わせ時刻をきっちり守るのは相変わらずだなあ」
「よう――ってその頬どうした」
旧友の竹田と久しぶりに再会して早々、俺は思わず顔をしかめる。垢抜けない服装も瞼の重そうな垂れ目も、微妙にふざけた口調もそのままだが、左の頬が何やら腫れ上がり大げさなガーゼが貼られていた。
「これね。気にしなくていいよぉ、それよりもほら座って」
俺は指し示された籐椅子に座ってブレンドコーヒーを注文する。こいつが指定する場所としては少し意外なシックな内装の喫茶店だった。
「荒井君はさぁ、どうなの? 最近は」
「どうなのって……授業受けてゼミ用にレポート書いて、てな感じで特に面白みなんてないぞ」
「そうかな? まあ真面目な荒井君のことだから何でもそつなくこなしてるんだろうね」
「知らんよそんなの。……それよりもあれだよ、被験者のバイトやってくれって聞いたけれど、それを教えてくれよ。俺、被験者バイトなんてやったことないんだよ」
そうそう、とにっこり笑って竹田はぱちんと両手を合わせる。
「今回、研究のためにある実験をしたいんだ。だけど、アルバイトを公募する前にまず知り合いに被験者になってもらいたくて、君にも頼んだって訳」
知り合いとは言えもちろんアルバイト代は払うよ、と電話で依頼された時は、相手が竹田というのもあって少し怪しかったがどうやら話は本当らしい。しかし、肝心の内容については未だ聞かされていないのが不安だ。
運ばれて来たばかりのコーヒーの湯気越しに、竹田が何やら物々しい雰囲気の一枚の紙を置く。
「誓約書みたいなものかな。一応ね」
俺はざっと目を通してみた。
「――”実験に関する器物の損壊などについては参加者である私が一切の責任を請け負います””被験者の身体の不調に関しては、実施者がその賠償責任を負わないことを認めます”」
「……」
「……安全な実験だって言ってたよな?」
「当たり前じゃないか。そこは保証するし、友達を信頼して欲しいなぁ。一応書いてあるだけだって」
竹田は自分の胸を叩く。少しその字面を見つめてから、俺はバッグからペンを取り出した。
「じゃあそのコーヒーを飲み終えたら行こうか。あ、そうそう。実験場所に着いたらそのバッグ、持ち物点検していいかい?」
「メールにあった通りスマホは置いてきたけれど、まあいいよ。それよりも実験の内容__」
「ところで君」
俄かに身を乗り出した竹田が目を光らせる。コーヒーの香りに混ざって微かにガーゼの薬臭い匂いがした。
「人間は強い欲求と強い抑制がある時、どっちに引き寄せられると思うかい」
「何の話?」
「だから、実験の話だよ。カリギュラ効果っていうらしいんだけどね。例えばキリスト教の原罪、ギリシャ神話のオルフェウス、日本神話のイザナキの黄泉への旅、君も知っているだろ。取っちゃいけないものを取ってしまうし、だめと言われていることをやってみたくなってしまう。恋愛で言えば、ロミオとジュリエットの話かな。周りから禁止されたりして障害があるほど燃えてしまうことがあるんだってね。そういうの、聞いたこと無いかい」
今回はそんな人間の行動心理についての理解を深めてみたくてね、と竹田は言った。
連れていかれたのは竹田の通う大学の構内だった。階段を降り、少し蒸した空気が溜まっている地下の廊下をどんどん歩いていく。連休中で人の気配もなく廊下の電気も無いため昼間とは思えないほど不気味だ。周りが暗い中でたどり着いた一室の中だけから薄く光が漏れていた。扉にはガラスの小窓が嵌っているが、竹田が前もって準備したのだろう、外側から紙が貼られていた。扉の取手近くにも何やら細工がしてあるようで、いかにもといったコードのついた装置のようなものがついている。触ろうとしたら竹田に止められた。
「普段はこの部屋専用のカードを貰って開けるんだけど、すぐ施錠されるから不便なんだよね」
ピピッという電子音が鳴った後、俺は促されて重たい扉を押し開ける。四方が白い壁の、それほど広くない物置のような部屋。壁に近い場所に、無造作に安物の椅子と白い長テーブルが置かれていた。テーブルの上に置かれていた物を見て俺は口を開く。
「これ、よく見るやつだな。テレビとかゲームとかで」
「見たことがあるなら話は早いなあ」竹田は目を細めた。
そこにあったのは、土台の部分に”押すな”と書かれたシンプルな赤いボタンだ。押すなというのならこんなボタン作るなよ、と見る度に身も蓋も無いことを思ってしまうのは俺だけなのだろうか。
「そのボタンに書いてあること見えるよね? 押さないでよ」
俺が血圧測定と前払いで受け取ったアルバイト代の勘定をしている間、竹田は俺の持ってきたバッグの点検をしていた。
「ちゃんと数えてね、うっかりしてることが無いとも限らないから」
「はいはい、そういうお前も俺の財布から金取るなよ」
「そんなことしないよ、君から見て僕のイメージって何なのさぁ」
被験者のバイト代というものが普通どれぐらいのものかは知らないが、そこそこの額なのではないかと思うような給与だ。竹田も金がある訳では無いだろうしもう少し安くてもいいけれど、まあここは頂いておこう。
「考えたんだけど、腕時計は今回は預かっておくことにするよ」と言われつつ、竹田からバッグが返ってくる。
「時間が分からないのは不安だな」
「荒井君だから大丈夫だよ。それに時計なんて気にしなくても必要なものはこの中に全部入っているしね」
「そんなに大したもの入れてないぞ」
「簡単な実験なんだからこれで十分だよ。でも簡単な実験だからこそ難しかったりするかもよ」
天然パーマの髪の下の垂れ目が笑みの形に歪む。じゃあ、そろそろ僕は行くから、と部屋を出ていこうとする竹田に俺は手を挙げて「一ついいか」と聞いてみた。
「お前さ、俺の性格知ってるだろ。本当に押さないままだったらどうするんだ」
「みんなそう言うよねえ。押すな、って書かれているんだから押さなければいいんだよ。それを押して起こったことに僕は責任取らないし」
「え、これ、安全な実験……」
「あとこのドア、施錠したら中からも鍵がないと出られないようになってるよ。実験中は出られないってことでよろしく。じゃあね」
呆気に取られた俺の前で扉が閉まり、室内に無情に電子音が鳴り響いた。
扉を睨んだ後で、苛立っても仕方ないと思い椅子に腰を下ろし、腕を組んでボタンに向き合った。赤いボタンのつるりとした表面が誘惑するように光を反射している。触ってみるだけでも、と手を伸ばしかけて止めた。うっかり何かの弾みで押してしまう危険が無いとも限らない。テーブルの上にはボタンの他にも水の入ったペットボトル、それとテープでテーブルに固定された録音機器がある。カメラは無いのかと思ったが、ここから見えないだけでどこかに隠されているのかもしれない。
一つ深呼吸をすると、思わず口元が緩んだ。バッグから文庫本を出してテーブルに置く。これを持ち込んでいいということは竹田もそれなりにこの実験が長引くことを想定しているのだろう。あんなことを言われた後で気軽に押す気にはなれないし、最低でも2、3時間ぐらいは持ちこたえてやりたい。
元々静かな中で読書をするのは好きなのだ。活字に集中している間は実験中であることを忘れてしまうほど、平和な時間だった。ただ、時々ふと顔を上げると視界にボタンが入ってくるので、わざと椅子の向きを変えて視界に入らないようにした。
それでも時間が経つにつれ、徐々にもういいだろうかという声が頭に響き出す。もう1時間半は経っただろう、そんな気がする。ここらでそろそろ考えてみてもいいのでは……
俺は頭を振って考えを振り払う。こういうことを一度考え始めるとじわじわと退屈が思考を侵食していくのを感じてしまいそうになるのだ。本を閉じて、ボトルのキャップを回した。常温より少し冷たいだけの水を一口含んだ後、別の事をしてみようと両手で軽く頬を叩いてみる。
狭い部屋の中で軽く体操してみたり、うたた寝を試みてみたりしたが、しばらくするとまたボタンの事が気になってきて長くは続かなかった。
手帳をぱらぱらめくり、後ろの何も書かれていないページに目の前のボタンをスケッチしてみる。全体像を写し取るだけなら絵心がなくても30秒とかからず描けてしまうような造形だ。
「暇だなあ」
思わずごつんと頭をぶつける音が聞こえる勢いで机に突っ伏す。実験部屋にいるという興奮は消え失せていた。
ボタンは沈黙している。
突っ伏したままそれを横目で見つめているうちに、実際、押したら何が起こるのか気になった。
そういえば、「そのボタンを押すな」とは言われたが、押したら危険なのかは分からない。安全な実験という言葉を信じるなら自分や、誰かが身の危険に晒されることはないだろう、多分。ただ、思い浮かぶのはテレビで見たドッキリ企画で、この実験と同じようなことがなされていた時の事だ。
立ち上がって、物置のような部屋を今一度見回してみた。椅子とテーブルの他にも畳まれた段ボールや未使用のままで丸められた方眼紙などがある。棚の上には何かが入った大きな袋が2つ載っていた。一見して埃はそれほど被っていない。
テレビでも、確かボタンを押した途端に部屋自体が動いたり、あるいは鉄球や動物が壁をぶち破って来たり、上から水や粉が降ってきたりと色々嫌がらせのような仕掛けが作動していた。それほど大がかりな仕掛けがここにある訳が無いけれど、例えば棚の上の袋が裂けて粉塗れになったりというのはありそうな気がする。あの中に入っているのは荷物で液体では無さそうに見えるから違うか。どちらにしても手の届かない場所にあるし、ここの大学の物だったらあまりいじるのも良くないだろう。
うーん、と思わず唸った。これは実験だし、考えすぎなのだろうか。でも、責任を取らないと言われているからにはそういう悪戯があってもおかしくないし、何より俺が無様に引っ掛かったのを見て竹田がにやにや笑う様子が容易に想像できてしまうのが困る。実はもっと下らない仕掛けで、押した途端にボタンから「意志が弱いねえ」と鼻で笑う竹田の声が流れてきたりして……うわあ。想像しただけなのに腹が立つ。
一向に竹田が戻ってくる気配はなかった。
もう時間の感覚が大分ぼやけている。静寂が続く部屋の中で、俺はゆっくりと手を伸ばしてボタンを手に取った。片手に収まるサイズという見た目の通り、大して重くも無い。じっくりと観察してみても、どこかにコードが繋がっているという訳でもなく、何かの機械だということしか分からないー―つまりは何も分からない。何事も無かったような顔をしてテーブルにそれを戻す。
ボタンをずっと押さなかったら、という問いに対して、みんなそう言うよねえ、という竹田の意味ありげな答えが脳裏に蘇った。他の人もみな結局はボタンを押したということだろうか。
もしかして、これは本当は押さなくてはいけないものなのだろうか?
もしくは、竹田のあの脅しのような言葉はただのはったりで、本当は押しても何の害にもならないものなのだろうか?
出来ることならそろそろ、室温が上がって空気が鬱陶しくなってきたこの部屋から出たかった。それに、実を言えばどうせ実験なのだから、何が起こるか知らないままで終わってしまうのもつまらないという気もしてきている。意味もなく周りを確認しながらボタンの上に恐々手をかざして、すぐに引っ込める。
『いいから早く押せよ』
ただ室内をうろうろするだけの俺を上から眺めて、歯痒さ半分にせせら笑う声がどこからか聞こえてきたような気がした。
俺はボタンの上に手を乗せ、少しだけ躊躇った後で、それを押した。
部屋の外からけたたましくブザーが鳴り出したので血の気が引いたが、それ以外には何も起こる気配が無い。身構えた姿勢をゆっくりと元に戻す。
拍子抜けしたような気分だったが、思い直してそろそろと扉に向かい、少しだけ取手を引いた。依然としてロックが掛かっている。こちらから開かないのなら、多分竹田が迎えに来るのだろう。開き直って待っていようと溜息をつく。
椅子に深く腰掛け、いつもの姿勢で再び本を開いてからおそらく十数分後。同じ本が無造作に投げ出されて机を滑っていた。
あいつは何を考えているんだ。録音機器が無ければ何か悪態をついていたかもしれない。
気付けば、何度も立ち上がって扉が開かないことを確かめていた。竹田に何か急なアクシデントでもあって遅れているのかもしれないし、何を焦っているんだと思うが、寒くもないのに指先が冷えてくるような気がする。この扉の他に抜け出せそうな場所は無い。
躊躇った後でもう一度ボタンを押してみたが、今度は本当に何も起こらないままだった。
静けさに慣れた聴覚は僅かな音でさえも捉えるようになる。蛍光灯の虫を焼くような音が次第に大きくなり、不安ばかりを煽ってくる。何もしなければ、この部屋にボタンを押してしまった惨めな人間がいることを自覚するばかりだ。
待ち人はいくらたっても来ない。さすがにこれはわざとだろう、と思われた。できるだけ楽観的に考えたいところだが、時間が経つにつれてあの誓約書の内容と、起こったことには責任を取らないという脅しのような文句が力を増していくような気がするのが腹立たしい。
実験は竹田と出会った時点で既に始まっていたということは分かる。ヒントはあるのだろうが、考えた先から答えが消えて価値の無い白紙に戻っていくような感覚だった。コーヒーの湯気……行動心理……。
何かが間違っているのだろうか。何か、ボタンを押す他にしなければならないことがあるのだろうか。何かを見落としているような、忘れていることがあるような気もするのだ。竹田との会話、実験が始まってからの行動を頭の中で反芻しているうち急に、自分が根本的な失態を犯していた可能性に気が付いた。
――竹田は確か最後に、「施錠したら中から出られない」ということと、「実験中は出られない」ということをのたまっていた。
だが問題は、思い出す限り竹田は「この扉を閉めた時にロックが掛かり、被験者が閉じ込められた状態になる」とは一言も言っていなかったことだ。
例えばの話だが、俺がボタンを押そうか悩んでいるうちはいつでも外に出られる状況で、ボタンを押して初めて本当に扉にロックが掛かったという可能性は無いだろうか。
扉が閉まった時に電子音が鳴ったのを覚えているが、それが密室になった合図だと思いこんで、俺はボタンを押すまで一度も扉を開けようとしなかったのだ。俺が部屋に入った時に電子音は鳴っていただろうか。電子音と扉のロックが連動しているというのもまた、思い込みなのかもしれない。そんな馬鹿な、とは思うが、ボタンを押してしまった今はもうその可能性を否定できない。
思わず唾を飲んでいた。拳を握ったり開いたりと気を紛らわせながら、誓約書に想定されていたことだし、この際思い切って扉を壊してやるという手もある、と一瞬だけ考えた。蝶番はこちら側にあるが、壊すための知識などもちろん持ち合わせていないし、高校の頃ならともかく、今の俺は力の方ではあまり自信が無い。
バッグには工具どころか食べ物さえないのに、これで十分だといったのだから竹田は実験にこれほど時間がかかると想定していなかったのだろう。どうせ俺は頭が固い。
意志薄弱と言われようが、何なら土下座を求められようがどうでも良くなってきた。今はただこの部屋から出たいだけだった。本を読みながら悠長に待っている気分なんかではない。
どこからどこまでが実験なのか、一体何をすれば実験が終わるのだろうか。ボタンを押さなかったらどうなるかなんてことより、それを聞いておけば良かった。
これは本当に研究のための実験なのだろうか。
恐ろしいほど人気が無かった薄暗い廊下を思い出す。単にまた揶揄われているだけなのならばまだいい。確かに竹田は何を考えているか分からないへらへらした所があって、おおよそ誠実な人間では無いけれど、最低限のことは信用できる友人だと思っている。そう信じている。
でなければこのまま……
嫌気が差して扉から目を逸らし、自分の足元を見た。そのまま自分の手を眺めたところで、突然俺はあることに気が付いて、口を半開きにした顔を扉へ振り向けた。
テーブルの上に赤いストローの刺さったアイスコーヒーのグラス。中身が半分くらい残っていた。だが注文した人間はカフェインどころか睡眠薬でも飲まされたかのような状態だった。
「お前何寝てるんだよ、起きろ」
肩を叩いても起きなかったので、強めに頭をはたいて奴を起こす。テーブルの上に乗っているモップのようなもしゃもしゃの髪がゆっくりと動いた。
「あれ、電話聞き逃してたっけ。終わったら公衆電話掛けて、って言い忘れてはないよね?」
横にあったスマホの黒い液晶を睨む竹田を見て、深く息を吐きながら首を振る。
「俺が掛けてないだけだよ。あの室内にカメラとか無かったんだな」
寝起きの竹田に負けないぐらいに低く抑揚の無い声に気が付いたのか、垂れた前髪の下で相手がうっすら口角を上げるのが見えたけれど気に留めずに、向かいの席に座る。
「結局この喫茶店にずっといたのか? 迷惑じゃないか」
「いや、一度家に帰ったよ」
――で、どうだった? 実験は。
冗談なのか本気なのか分からないその口ぶりに簡潔に答えるのならば、
「阿呆らしい」
『××号室専用』とだけ印字されているプラスチックの白いカードを放り投げる。
「そうかな? 意外と落ち着いてるね。カメラはあったはずだよ、モニターできるものじゃなかっただけで。様子が分からなければ結果にならないけど、やっぱり高いから妥協したんだよねえ」
「本当に実験だったのかよ」
竹田はカードを取り上げて指先で弄び始める。
「多分1時間以上は何も行動を起こしていなかったんだろう? それを思えばまずまずじゃないかなあ、荒井君にしてはね。実験の試行数自体が少ないけれど時間の長さでは平均ぐらいになると思うよ。君より早くボタンを押してそこから長考する奴もいたし、ある奴はひねくれていたというか疑り深かったんだろうね、15分もかからず公衆電話から連絡が来た時はちょっと驚いたよ。その一方で、同じ学部の女の子だったんだけど、あまりにも連絡遅いから仕方無く見に行ったら泣かれたね。トイレに行けなくて大変なことになる寸前だったらしいんだけれど、ドアを開けたらまず一番に殴られたのは流石に酷いよね」
「お前、こんな実験で友達減らしてるんだな……」
まるで反省していない顔に呆れつつ、バッグからあの室内にあったボタンを取り出す。色々言ってやりたいことがあるけれど、一つずつ聞いていくことにする。
「結局これは何だったんだ」
「僕、この間電子レンジを買い替えたんだけど」
「待て」
「そのおまけで付いてきた商品だったんだよ。在庫処分だと思うんだけど丁度いいから使ってみたんだ」
目の前に出されたのは玩具の箱のようなものだった。『爆弾スイッチ 小型パトランプ付き 押すとブザーが鳴って赤く回るよ!』と書かれたメルヘンな字体と共にボタンの写真が載っている。正直100均にあっても買う人がいるのかどうか分からない。
「ドアの前に取り付けられていたあの機械みたいなものは何だったんだよ」
「そうそう、それだよ。コードも外装もただそれっぽく見せるだけのものだよ。あの装置の中にはブザーが鳴るランプの部品を入れていただけだからね。でも押した時に十分吃驚する要素にはなったんじゃないかなあ」
「かなあ、じゃない。てっきり俺はこのボタンで閉じ込められたのかと思ったんだから」
俺の言葉に、アイスコーヒーに再び口を付けていた竹田が噴き出し、思い切り身を引いた俺にも構わず「ふへへへ」と気色の悪い笑いを漏らしながら身体を揺らしている。そのアイスコーヒーにはアルコールでも入っているのか。
「ねえ、面白いよねえ。大体僕が大学のセキュリティに干渉できるわけがないじゃない。冷静に考えればすぐに分かるはずだよ、扉を開くのにボタンなんか関係ないってさ。始めから閉じ込められてなんていないんだよ。それなのに実験をこなさなければならないという使命感か、騙されやすいだけかは知らないけれど、みんな勝手にボタンとつなげて解釈するんだよねえ、面白いよなあ。君みたいに馬鹿に真面目で融通の利かない人は特にね」
「お前、人を怒らせたいのか」
ぐっと眉を寄せた俺に、竹田は目を光らせた。
「『そのボタンを押すな』とは言ったけれど、『押したら何かが起こる』って誰が言ったんだ?」
「……言われてなくても、何かが起こるって思うだろう、普通」
「勝手に視野を狭めて、目立つ物にしか目を向けなくなってしまって、そればかりに囚われてしまう。……そんな人間の行動心理について理解を深めてみたくてね」
でも、次からはもっと分かりやすい場所にカードを入れておこうかなあ、財布のカード入れとかじゃなくて。欠伸しながら頭の後ろで手を組む竹田の髪を掴む。
「一発殴られても懲りてないのならもう一発殴ってやろうか」
「ええっ、間に合ってますので大丈夫です。誓約書にも書いたでしょ」
「心配いらないよ、医者にかかった分だけ俺が払ってやるから。何が行動心理だ」
「すみません店員さんこの人酷いです助けてください」
「うるせえよ、お前もう少し実験に付き合ってくれた人達を労われ」
棘のある会話に躊躇いながら、アルバイトの店員さんが近づいてきておずおずと告げた。
「お客様方、もうすぐラストオーダーのお時間ですので、何かご注文などございましたら承りますが……」
推理ジャンルにはしてみましたが、推理とも言えないようなものかもしれません。大目に見てください。
暫定的にイラストを入れないままにしています。
……竹田のやらかしたことを抜きにしても、まだ一つ大きな問題があることにお気づきになられた方もいらっしゃるかもしれませんが、本筋ではないので本文ではあえて触れないままにしておいています。