あの花の匂いをもう一度
ある夢を見た。
眼前は一面に花畑が広がっていた。
すごくきれいだった。
そして同時に、もう死ぬのかもしれない、とも思った。
はっと目を覚ますと、そこには自分の部屋が映り込んでいた。
夢だと分かったとたん、がっかりしたが、少しほっとした。
そして、あの手触り、におい、感動、が懐かしく思えた。
もう一度、あの感動を手に入れたい。そう思っていた。
朝ご飯を食べて、外に出てみた。
とても晴れていた。
まだ梅雨にも入っていないのに、もうすっかり真夏日のような暑さと湿気がたちこめる。
しかし、あの花の匂いをもう一度、もう一度だけ、存分に感じたいのだ。
そう思っていると、自転車を思いっきり漕ぎ出していた。
しばらくは近所をさまよっていた。
近所はただの住宅街で、花はあるにはあるが、それはほんの一部にすぎない。
いったいどうすればいいのか。
次は河原に行った。
河原は混んでいた。
しかしそんなことは気にせず河原を走った。
桜の時期で、人々はお花見やら何やらで盛り上がっていた。
桜をかいでみた。
しかし、あの匂いには程遠かった。
その後もあの匂いを探していた。
パンジー、コスモスなど、いろんな花があった。
一瞬すごい良い花の匂いがしたと思うと、すぐその匂いは消えて、その花に近づいたとしても、良い花の匂いはすぐになくなり、匂いがしなかった。
花を探し続けた。
見つからない。
今度は何㎞も走って畑のほうまで行った。
畑に入ると独特の臭さがある。
でも、なぜか今はそんなのは全然気にならなかった。
花畑のありそうな場所、もしくは良い花を求めてどこまででも行った。
でも、その日は見つからなかった。
次の日も、その次の日も、その花をまた探し続けた。
どこに行っても、どこを探しても、なかった。
何の花かも、見当もつかなかった。
ある日、気が付くと、電車に乗って、観光地の芝桜の名所に来ていた。
眼前には一面の芝桜が広がっていた。
だけど、自分の見た花畑とは似ていても、あの花の匂いにはたどり着けていない。
この芝桜を見れただけでも、満足だった。
でも、やっぱり、あの匂いを欲していた。
ずっと考え込んでいた。
考え込んで、体験したことあるような匂いだという結論に至った。
それでも、どこの、どこで体験した匂いかもまったくわからなかった。
あの匂いを、あの花の匂いをもう一度かぎたいだけなのに。
そしてまた、夢を見た。
花畑。
コスモスの花畑
右を向くと百合
左を向くと向日葵
またあの匂いがした
そして花畑の先にだれか見えた。
そこで目が覚めた。
知覚というのは何が一番敏感なのか。
視覚は重要、視覚であらゆる情報を受け取り、記憶させる。
聴覚はもっと重要、聴覚で危険を察知し、世界を自分の中で作り出す。
でも、嗅覚でも思い出を収める役割があるのだろう。
これは懐かしい思い出、どこかの思い出。
だれかとの思い出、なのかもしれない。
この匂いには、温もりもあった。
この匂いに、感覚的に好きという感情がいつのまにか加わっていた。
再び今日の午後も漕ぎ出した。
あの花の匂いを求めて。
もうあてもなかった。
ずっと近くでさまよっていた。
夕方になっていた。
最近は日の沈みが遅くなっている。
明るい時間が増えることは自分にとってはいいことかもしれない。
そろそろ夕日は沈みかけていて、もうろうとする時間帯になってきた。
今日もあの匂いを見つけられなかった。
もうそろそろあきらめていた。
今日で終わりにしようかと思っている。
考えてみれば馬鹿なことだ。
自分でもわからない形のない「感覚」を頼りに形があるかわからない「もの」を探し出そうとしているのだから。
植物ではないのかもしれない。
思い込みなのかもしれない。
そう、橙色に染まった空の下の河原で一人耽る。
するとだれかが近づいてきた。
「久しぶり」
女の人の声だ
顔をあげてみると、どこかで見たことがあるような感じだった。
そしてそこで気づいたのだ。
今まで探し回っていた「感覚」が「もの」として浮かび上がった。
幻覚なのかもしれない。
しかし、ちゃんと今は現実。
つまり、あの匂いが今まさに目の前にあるのだ。
泣きそうだった。
涙をすごくこらえていた
「覚えて…る?」
「…」
「梶田君だよね?」
「…うん」
「やっぱそうだ!私のこと覚えててくれた?それと約束」
「約束?」
「ほら」
そう言って彼女はたんぽぽの押し花のしおりを僕に見せた
僕たちは六歳のころ、英語教室に通っていた。
そのとき彼女も六歳で、幼稚園が一緒で、小学校こそ別になったが、英語教室で仲が良かった。
そして何よりも、彼女の、触れる手、声、そして匂いが大好きだった。
そして、彼女は突然英語教室をやめることになった。
僕は相当驚いた。
だって、あんなに英語に熱心で楽しそうで常に明るかった彼女が、まさか意欲をなくして辞めるなんてありえないことだったから。
彼女が教室をやめても、また一緒に遊べると思っていた。
しかしそれは違った。
彼女は僕にはいたずらっ子だった。
僕のことをからかったり、たまには悪だくみをして、たまには素直になって、そんな彼女が本当に好きだった。
なのに。
「わたし、てんこうするんだ」
てんこう。
僕にとってその文字はまだよく理解できていなかった。
またからかいだと思った。
でもやっぱり彼女の目は、わかりやすい、いたずらな目ではなく、本気であった。
「どこに行くの?」
「ほっかいどうっていうとこ」
僕も北海道くらいは知っていた。そしてそれがすごく遠いということも知っていた。
僕は涙を隠せずにはいられなかった。
引っ越しの日になってその苦しみは現実と感じた。
本当に行ってしまうのが悲しかった。
あんなに、いつも一緒にいたのに、急に僕は一人になるような気がした。
僕はずっとしょぼんとしていて、下を向いてばかりだった。
そんな僕に彼女は声をかけてくれた。
「十年」
「え?」
「十年したら、戻ってくる」
「…」
「お父さんが言ってた。十年したらこの街にまた住むって」
「十年後ってことは…高校生?」
「うん、そうだね」
「そんなに遠い未来、待てないよ」
すると彼女はフッと笑い、こう答えた。
「十年なんて、あっという間だよ」
「…そうだね」
「十年して、帰ってきたら、今度は玲央、いや、梶田君を探しに行くよ」
そして彼女はにっこり笑った。
僕は、彼女が行くのが惜しくて、何かを渡したかった。
彼女の家は川沿いだった。
僕は彼女を少し待たせて、川に走った。
その日は、春のぽかぽかした陽気な天気だった。
僕は一つのたんぽぽを摘んだ。
その一つだけ、輝いているように見えた。
彼女の元の家に戻り、彼女にそれを渡した。
彼女はまたすっと笑い、ひとつ、
「ありがとう」
と呟いた。
彼女が後ろへ向く瞬間、彼女自身から発した匂いと、たんぽぽのかすかな匂いがほんのわずかに絡み合って、うっとりする不思議な落ち着く幸せな匂いを感じた。
その匂いが、やはり大好きだった。
そして彼女は行ってしまった。
僕は全力で手を振った。
あの日のことは思い出したらもう忘れない。
僕と彼女は自然と河原に座り込んで話を始めた。
「いつ帰ってきたの?」
「先週。本当は四月に間に合うようにしたかったんだけど、いろいろあってね」
「そうかあ」
「梶田君こそ、毎日どこに行ってたんさ」
「え、なんで知ってるの」
「毎日梶田君の家にピンポンしてお母さんがいつもでて、玲央は家にいないって言われたから」
「いや、僕、えっと…」
「もしかして、私を探してたとか~?」
「えっと…」
「あ、でもそれはないか、さっき忘れかけてたもんね」
「あの…」
「ん?」
「花を探してた」
「花?」
「うん、花」
「花かあ、見つかったの?」
「うん、見つかったよ。たった今」
「へえ、何の花?」
「…ところで、北海道はどうだった?」
「話変えないでよ~北海道は、まあ、楽しかった」
「そうなんだ…」
「てか私ね―」
再会というものはうれしいものだ。
そして、それは花がつなげてくれた。
これからも、僕たちは、そして世界は、花を通して幸せになれるような気がした。