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ひとりぼっちの百物語  作者: 夏野篠虫
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記憶の匂い

 馬鹿な話かも知れないが、みんなに聞いてほしい話がある。

 どんな感想をもつかは自由だが、まずは何も言わずに聞いてくれ。


 今年で28歳になる僕はごく普通のサラリーマンをしている。会社は中流、給料も平均、環境もまぁ並みだ。職場もありふれたビルの21階なんだが、そこで奇妙な現象が起きるんだ。


 深夜、残業が山積みなのに自分一人のデスク。聞こえるのは空調の稼働音とキーボードを叩く音。そんな薄暗くて広い空間で仕事をしていると、ふとしたときに“ある匂い”がする。

 オーブンから出したばかりの小麦とイースト特有の、パンの匂いである。

 僕は夜食にパンなんて食べなければ、何度も言うとおり他に人はいない。

 似た匂い、ではなくパンそのものが顔の周りを回っているんじゃと思うほど濃厚な香りがする。


 さらに匂いが漂ってくるのは仕事場の残業中だけじゃない。

 独り身の僕がインフルエンザで寝込んだ時に枕元で、高速道路で2時間の渋滞に巻き込まれた時に運転席で、RPGゲームで何度挑んでもボスが倒せない時に真横から、焼きたてのパンの匂いがするのだ。


 しかも、感じるのは匂いだけではない。

 背後や横から人の気配がするのだ。振り返っても横目で見ても誰もいない。けれど確実に人間がいるとしか思えない、体温すらも服越しに感じてしまう。



 僕の頭がおかしいという人もいる。精神病院に行ったが異常はなかった。

 

 じゃあこの現象は何なんだと説明を求める人もいる。




 僕は答えを知っている。


 そこに辿り着くには少し過去を遡らなければならない。 






 18年前。

 初めて会ったのは服ごと溶けるような暑い夏。

 僕の夏休みに合わせて引越しをした我が家。他県に越したため友達と会えなくなることが何よりも苦痛だった。至福の1ヶ月半は不機嫌と共に始まった。

 

 車を降りた時、道路に面した新居の前にはお腹が空く香りが漂っていた。

 隣がパン屋だった。小さな町のお店といった感じ。地元にはなかった、ちょっと新鮮な光景。


 荷ほどきを必要最低限終わらせ、両親と僕は挨拶回りに出かけた。

「初めまして。今日引っ越してきた――」

 初めに訪れたのが隣のパン屋兼住宅だ。

 玄関口で対応したのは、彼女だった。

 年は18だったと思う。高校生で少し明るい黒髪が朗らかに話す度細やかに揺れていたのを、なんとなく覚えている。

「どうも初めまして。あ、ちょっと待っててください」

 彼女はそう言うと、渡した粗品をもって奥に戻り、しばらくすると違う袋を持って帰ってきた。

「これ。うちで焼いたパンなんですけど、よかったらどうぞ」

 差し出されたビニール袋の中には、食パンやカレーパンやクロワッサンが入っていた。どれも香ばしい匂いがする焼きたてだった。

 母が何か彼女にお礼を何度も言っていた気がする。しかし僕はひたすら彼女をぼーっと眺めていた。

 その後も何回も何百回も見続ける顔。記憶の中ではピースが半分ほど消失したパズルのようになっている。

 どうして忘れてしまったんだろう。でも最初に思い出せなくなったのは、涼しげだったはずの声だ。


 この日を境に僕は何度も彼女の家にお邪魔するようになる。

 最初は母とパンを買いに行くとき。店頭で手伝いをしている彼女はエプロン姿がよく似合っていた。たまに制服のまま仕事をしていることもあって、小学生の僕には想像つかないくらい大人っぽくみえた。

 家族ぐるみの付き合いが増えていくと、次第に僕の母が彼女に僕の遊び相手を頼むようになった。

 遊ぶときは我が家でテレビゲームをすることが多かった。年の差も性別も無視して楽しく盛り上がれたからだ。僕の隣でゲームに熱中する彼女。時折触れ合う腕と足、いつもできたてのパンの匂いがした。


 とはいえ年上の異性と接するのは、まだ抵抗感があった。単なる思春期の気恥ずかしさ、というより明らかに恋をしていたんだと思う。

 当然、彼女は僕をそんな目で見ていなかっただろう。ただの隣に住む年下の男の子、弟くらいには思っていてくれたかも知れない。

 子供心に察していた大人の心理に、毎晩布団の中で熱を出した。小4の僕にはまだ良く理解できなかったらしい。

 日に日に会う頻度が上がる。気付けば顔を見ない日の方が少なくなっていた。

 気付けば、友達も宿題も忘れて彼女に会って遊ぶことに夏休みを費やしていた。

 バスケ部で彼氏もいると言っていた彼女。自分のやりたいこともあったはずなのに、僕の願いに付き合ってくれた。

 彼女はゲームで負けても僕が約束に寝坊をしても飲み物を服にこぼしても、何があってもいつも笑っていた。辛いことなんてこの世にないんだと信じられるほどの、小学生よりずっと無邪気な笑顔で。



 8月も中盤、夏休みも残り2週間のある日。

 朝から濃密な鼠色の空。屋根を殴打する雨と爆発する稲光が睡眠を中断させる。それと呼応するように僕の気分は下がる。

 こんな時こそ彼女と遊んで遊んで遊び尽くしたい。

 朝食のパンを2つ食べ終わると、タンスから半袖のシャツとズボンを引っ張り出して、パジャマを脱ぎ捨て階段を駆け下りた。天気の機嫌なんて関係なかったかのように心臓が跳ね上がり、足にエネルギーが巡る。

 豪雨も無視して、扉を開けて隣の家までたったの4秒。



 出迎えてくれたのは彼女――の母親だった。




 優しくて心の広い彼女は、昨晩、行方不明になっていた。

 朝起きてこない彼女を母親が部屋に確認しに行ったら、彼女の姿はどこにもなかった。

 

 そう聞かされたとき、この充実感に溢れた1ヶ月はぜんぶ妄想だったと神様に突きつけられたような衝撃が身体を貫いた。そして僕のわがままが彼女に抱えきれないほどの負荷を強いていたと思い込んだ。

 パン屋を飛びだし、泣きわめいて街を駆けた。


 ごめん。ごめん。


 謝る相手がいないのに、どこかへ向けて謝り続けた。

 届いてほしい、なのに雨は全てを閉じ込め排水溝に流してしまう。


「謝らなくて大丈夫だよ」



 一番聞きたいその声は、絶対聞けない音になってしまった。





 日が傾き始めた時刻、雲の蓋が開いて灼熱の太陽が現れた。


 膨大な水滴が瞬く間に天へと昇り、アスファルトの陽炎は視界を嫌でも歪めてくる。

 髪もシャツも靴下まで水に浸かったのに30分で乾いてしまった。代わりに汗が噴き出してきた。


 でも僕の瞳はずっと濡れたままだった。





 家に帰ると、目の前の車道にパトカーが駐車していた。

 慌ただしく人が出入りしている。その出入り口はパン屋だ。


 ふらふらと隙間を縫って自宅に入った。僕は玄関で倒れるように眠りについた。



 母親にたたき起こされた。

 飛び上がってその顔を見れば、子どもの僕にも事態が飲み込めた。


 

 2年前におばあちゃんが死んだときと同じ顔をしていたからだ。




 次の日、お通夜が行なわれた。

 

 僕にとって人生2度目の上下黒い服装。知らない人がたくさんいて落ち着かない。

 やっと回ってきた順番。両親と一緒に手を合わせる。


 棺桶は顔の部分だけ窓が開けられ、中が覗けた。僕はほとんど覚えていない。

 覚えているのは母が泣いていたのと父が僕の頭をいつもより強く撫でたこと、彼女の首元が顔よりも化粧をされていたことくらい。


 それと、涙は出なかった。両親には後でこっぴどく怒られた。


 

 人々が思い思いに悲しんだり別れを惜しんだり内緒話をしたりしていた。

 その横を通り過ぎ、会場を出る瞬間、僕ははっきり感じた。



 空腹を誘う、香ばしいパンの匂いを。








 大人になってわかった。



 なぜ夏休みなのに僕と遊んでばかりだったのか。高校には友達も彼氏もいたはずだし、部活もやっていたはずだ。

 

 どうして急にいなくなってしまったのか。両親含む大人達は何も教えてくれなかった。


 最後に見た彼女、唯一覚えている首元の濃い化粧。あれは何だったのか。




 全てがたった一つの事実に収束する。

 




 彼女は自殺したんだ。


 


 僕の前ではいつも、いつでも笑顔でいてくれた彼女は、自室で一人ゆっくりと病んでいた。

 

 その事実に気づけなかった自分を悔いた。己を謝罪して責めて侮蔑して、死のうかと思った。



 でもその刹那、あの匂いが僕の鼻に届いた。

 


 うだる暑さの日々をひたすら遊んで過ごしていると、必ず隣から香っていた美味しい匂い。



 横を振り返ったら、

「大丈夫。私が側にいるから」

 涼しげな声が鼓膜を潤した。

 

 失われた記憶のピースが復元され、暖かな表情と穏やかな眼差しが僕を柔和に抱きしめた。

 


 枯れたはずの涙が滲み出た。








 心はこれほど近くにいるのに、彼女の存在は遠く儚い。


 

 でも彼女は僕が辛い時、苦しい時、困った時に物音一つ立てずに現れてはそっと支えてくれる。

 



 丁寧に真心を込めて作られた、パンの匂いと一緒に。 

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