第二十九話・完全なるエナ
私が水溜まりに近づくと、青く煌めく水が落ち着きだして氷かガラスのようなまったくの平面になりました。
玉座に身を置く鏡美は、その清んだ肌から透明な糸を広げ天を覆う網に絡ませると宙に浮きはじめました。
その美しい姿は蝶のようでもあり、蜘蛛のようであり、それらは同時に、蜘蛛の巣にとらえられた哀れな蝶のようでもあります。
儚い儚い蒼い蝶。私はそれを掌に取り握り潰す者、つけ狙う蟷螂。
水溜まりの上を私は駆け出しました。迅く、速く、疾く、捷く。
鏡美は沈黙したまま私を見下ろし手を広げると網を通して雫を垂らしはじめました、まるで雨のように。
その雨は硬く、見た目をはるかに上回る質量を持っていました。
水でありながら、それは平らになった水面に突き刺さり、罠のように私の足へ食いつきます。同時に私自身を直接打ち、全身に立っていきました。
私はそれを何本か引き抜くと、鏡美に向かって投げました。彼女はまるで避けようともせずただ受け止めます。
目的はただの目くらましです。
玉座を駆け上がると、私は高く高く跳びあがりました。
その超越の蝶は一瞥し、興味なさげにその身に結晶を纏いはじめ、脚を高々とかかげると足先を鋭い刃とし私にふりおろしました。
私は避けることなく両腕で体を庇うとそのまま鏡美の脚を受けました。
腕に深々と斬り込まれた氷の刃は私の腕を落とすにはいたりませんでしたがその機能を一瞬で奪いました。そして、私の胸の奥にまで冷たくも熱い切断の感触が届きました。もちろんそれも私の機能を奪うには十分なものです。
その剣は、私に宿る水間ごと『支配体』切り裂くこの世で唯一の武器だったのです。
ふくよかでしなやかで艶かしい鏡美の脚を見上げながら私は地に落ちはじめました。私の一撃は届きませんでしたが、しかし、勝利は目前です。
落下の力を利用し、私もまた脚を道具とします。
下に目を落とすと目標をしかと見据え、自身の持つありったけの力を込め、跳ねたときの勢いで体をまわし、重力に重さを乗せ、鏡美の力を加えて『玉座』にぶつけました。
玉座は見事に砕け散りました。そして、きらめく光の欠片とともにダイの体が解放されました。
私はダイの身体を抱きしめ、共に墜ちます。
傷と落下の衝撃で眠りに落ち行く私は最後の力で死したダイの体にまたがると、そっとその体に身を委ねました。
冷たく、生臭い、死の影に沈んだダイの命。私もまた彼の世界へと向かいます。
私の戦いは終わりました。私は勝利しました。私は私の居場所を取り返したのです。
「そう、それがあなたの……」
鏡美の声が遠く聞こえましたが、私にはもうどうでもいいことでした。
涙のようなものを頬に感じました。ですが、それが私のものなのか鏡美のものなのか、はたまたもう物言わぬダイのものなのかはわかりませんでした。
ただ、冷たかった感触が暖かなものとなったとき、狼狽した鏡美の声が聞こえたのです。
「なに……? なんなのこの感じは……?」
なにも見えない視界がぐるぐると回りはじめました。
「まさか、エナ!? エナの力で実世界を変えてしまおうと!?」
まわる、まわる、まわる走馬灯。
「そんなことは! なんだこれは……離せ! 離せ!!」
もう苦しみはなく、辛く悲しい過去も、二人の思い出を浮き彫りにするだけ。
「やめなさい左々! やめて! やめて! やめてぇ!!」
もうなにもいらない。全ては手の中にあるから。
「温かい……私が、とけていく……」
今再び私を貫いて、私の中にあなたがいる。
「これが……完全なる……包衣……」
私の耳に遠く聞こえた鏡美の言葉を最後に、私の意識は金色の世界へとのまれていきました。




