第十話・ふるべゆらゆら
爪と化した水間が補食するかのようにダイに覆い被さろうとします。
ですが、そのおそらくは通常人間相手には必殺となる抵抗もむなしく、ドシンという衝撃とともに水間は木に磔になりました。
水間の中心にはダイの腕。
ダイが使ったのは貫手でした。貫手で水間をまさしく貫いたのです。
ピンク色の動く水が色と仮初めの形を失って溶けていきます。
水間が消えてなくなるまでのその間ずっと、私たちはこの世にあらざる声を聞き続けることになりました。
水が管を流れるような、喉で泡が鳴るような、胃腸の音のような、そういう水の転がる音です。
それこそはおそらく水間の声であり、その断末魔だったのです。
跡には水、水のみ。
「姉さん」
脱いだ服をかき集めたダイが近づいてきました。
もう日は落ちきって真っ暗です。山の暗闇は夜空より黒くて、なのに、ダイの顔がはっきりとわかります。
その表情はどこか冷たくて、寂しげでした。
先ほど感じたダイへの感覚は間違いです。ダイは相変わらずダイでした。
儚さを感じさせる、水面に落ちた真珠のような、どこへ行くのかもわからない少年の瞳。
聞きたいことはたくさんありました。確認したいこともたくさんあります。
でも、そのときすでに少しだけわかっていました。
これは、昔、あの水溜まりの思い出の、きっともっと前から繋がる話なんです。
そう気づいたのは、いま友人を背負っている年配の男性があの水溜まりの監視の人だったからです。
暗闇のハイキングコースを友人が搬送されていきます。
行き先は、私の地元の病院です。
わざわざ遠い土地まで病院のスタッフが迎えにきたのです。それも、山中まで。
スタッフは異様な風体でした。
足元を覆う白い袋、体全体を被う服と半透明のエプロン、白い布手袋の下からは黄土色の厚手のゴムグローブが覗いており、顔には透明なシールド。
そして、それらどころではない、完全な防護服の人間が二人。
通常する格好ではありません。あからさまに接触を警戒しています。
それを証拠に、水間に襲われた友人は何かしらのシートでラッピングされ、寝袋のようなものに包まれて運ばれていきました。
友人は意識はあるものの反応が薄くなっています。
隠さずに言えばその搬送されていく友人の姿は死体袋に入れられた遺体のように見えましたし、もっと言うと、ミイラとそれを運ぶ神官のようでした。
半ば無理矢理に下山した後、監視の人とダイと共に車に乗り込みました。
生き残った方の友人との会話はありません。
「行くぞ」
監視のお爺さんが言いました。
「もう少し……」
もう会えなくなるかもしれない友人の乗った車を見送ります。
救急車ではありませんでした。
暗くてわかりにくいのですが、ワゴンと、フェンダーミラーのセダンのようです。
緑色のセダンが隣を通りすぎていきます。乗員の顔は見えませんが、チラチラとした視線を感じさせながら、我々を照らす古いオレンジ色の電灯の世界から暗闇の中へとヘッドライトの光が消えていきました。
「サイロ……」
ダイが小さく呟いたのを聞き逃しませんでした。
それがCIRO、内閣情報調査室のことであることは、そのときの私にはまだわかっていませんでした。




