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彼女は確かにここにいた 08


 どちらかと言えばひとりでいる時間が必要なタイプだったけれど、みあには二十四時間ずっと構っていても平気なんだろう。真夜中や仕事中に電話が掛かってきてもできるだけ答えるようにして、どうしても出られないときは掛け直すかメールを入れていた。着信音で目を覚まして慌ててスマホを耳に当てると、みあは必ず、開口一番に、ごめんね、と言うのだった。謝る必要なんて少しも無いのに。そう伝えたくてどうでもいいことを話し続けたり、沈黙を共有したりしていた。


お互いに実家暮らしだからどちらかの部屋で会うということもできない。このままプラトニックな関係が続いたとしても充分楽しいけれど、例えばみあが眠れないほどに寂しい夜があったときに、朝が来るまでずっとそばにいれたなら良いのにと思う。


 深夜二時半に仕事を終えて二階の事務所へ上がる。愛煙家組がパーテーションで仕切られただけの喫煙コーナーに吸い込まれていく。彼女ができてからというもの、ほとんどバイトのメンバーで遊ぶことも無くなっていたのだが、今日は久しぶりに寄り道をする予定になっていた。汗拭きシートで全身を拭いながら、喫煙者たちの一服が終わるのを待っている間にスマホを確認する。画面を埋め尽くす不在着信の通知。一瞬呼吸が止まってさっきまでとは違う嫌な汗が背中を滑っていくのを感じた。震えだしそうな手を抑えてメールを見る。着信とは違い、こちらは一件だけだった。今から一時間ほど前に一言、ごめんね、とだけのメッセージが届いていた。


衝立の向こうに何て断りのことばを投げかけたのか分からない。許しを貰えたのかも分からない。鞄を引っ掴んでバイト先を出て、車の中に乗り込むと同時に電話を掛け直した。車通りの少なくなったバイパスは静かでコール音がやけに響く。出てほしいとも出てほしくないとも思った。このまま無事に朝を迎えられるなら、それに越したことはない。


唐突に機械音が途切れて刹那の完璧な静寂が下りてくる。そしてそれはすぐに泣きじゃくる声に打ち砕かれた。


「みあ……?」


こっちの声に反応する様子も無く、ただ激しい嗚咽だけが聞こえる。


「どうした? どこにいる?」


何度か問いかけを繰り返したあと、やっと返事があった。


「みつくん……、今から迎えに来れたりしないよね?」


それはみあにしては珍しいわがままだった。夜中に電話があっても、いつも申し訳なさそうに、これしか方法が無かったのだという雰囲気があった。こんなに必死な声で突然会いに来てほしいとせがまれたのは、これが初めてのことだった。居場所を聞いて一旦電話を切り、車を走らせた。みあの自宅があるという地域にある公園にいるとのことだった。


四十分ほどで到着する。その間、奇妙なくらいにスマホは静かだった。


電話を掛けて着いたことを知らせる。そっちに行くね、と平坦な声がして切られた。辺りにはほとんど明かりが無い。ヘッドライトを消す勇気も無かった。


コツコツ、と窓を叩く音がして思わずビクッと肩が揺れる。深夜の暗闇とヘッドライトの明るさでいまいち顔がはっきり見えないが、すぐにそれがみあだと分かった。鍵を開けると隣に彼女が乗り込んでくる。


パーマが掛けられた髪が揺れて、香った。

きつい香水と、煙草の匂い。


強い力に引かれて抗うこともできずに助手席を覗き込む。そこにいたのはみあなのに、みあじゃない。目の周りに黒いアイラインが引かれているのがはっきりとわかるし、つけまつげをしているせいか人形のような作りものめいた雰囲気がある。身体のラインが出るぴたっとした白地にピンクの花柄のワンピース。少なくとも俺はみあがこんなファッションをしている姿を一度も見たことがない。激しく動揺していたけれど、悟られまいと車を走らせる。みあは隣で俯いて、時々鼻を啜っていた。


目的地も無いまま走れば走るほどに、どこか戻れない場所に迷い込んでいくようで不意に恐ろしくなった。


「……どっか行く?」


こんな今にも震えだしそうな情けない声をみあにだけは聞かせたくなかった。


「今日は帰りたくないよ」


反対にみあの声は勢いが良くて、だけどどこか投げやりな感じがした。


「海とか行ってみる?」


みあは口を引き結んで窓の外を眺める。


「……みつくんとくっついて寝たいよ」


よく通る高いけれど耳あたりの良いその声が水滴が水面を揺らすように、車内の空気を震わせた。そのときになって初めて音楽を掛けていないことに気が付いた。


「家には家族が……」


この期に及んでこんな言い訳なんて、今どき中学生だってしないかもしれない。だけど確かに俺は少しずつ壁際に追い詰められていくような息苦しさを覚えていた。


「ホテル、行こうよ」


こんなよくわからない状況下で、こんなことをみあに言わせたくはなかった。


酒を飲んだわけでもないのに、どんなふうに駐車場を車に止めて、どんなふうに部屋を選んで、どんなふうにみあに接したのか全く覚えていなかった。気が付けば大きなベッドの上に腰を下ろして、テレビも付いていない静かな部屋で聞こえてくるシャワーの音を気にしながら動けずにいた。


経験が豊富なわけではないけれど、全くないわけでもない。大学時代に付き合っていた恋人と肌を重ねたことはある。だけど今は高揚感よりも不安のほうが強い。


いつもと違う化粧をした彼女が言う、くっついて寝たいとはどういう意味なのだろう。本当に寄り添って眠るだけなのだろうか。それだったら良いのにと願わずにはいられなかった。


しばらくしてシャワーの音が聞こえなくなる。ずっと自分のつま先ばかりを見つめていた。


「ごめんね。お先に」


くっきりと縁取りがされたみあの声がした。反射的に顔を上げると、そこにはいつものみあがいた。派手なメイクは洗い流されていて、濡れた髪が緩やかにカールしている。頭からバスタオルを被って、これしか着るものが無かったの、とタイトなワンピースを着て恥ずかしそうに微笑む。その姿に心から安堵した。俺は途端に自分が汗をかいていたことを思いだして、入れ替わりでシャワーを浴びることにした。小さなパックに入ったシャンプーとリンスを使うと、不慣れな香りにまた少し緊張を覚えた。


浴室から出ると、髪を乾かし終えたみあがベッドに腰かけてテレビを見ていた。


「通販?」


この時間帯に不釣り合いなくらい溌剌とした声で女性が布団乾燥機の説明をしている。


「これしかやってなかったの」


そういうみあの隣に腰を下ろしてリモコンをテレビに向ける。ローテーブルにはチャンネルの案内が書かれたシートが数枚置かれていた。


「映画も見れるみたいだよ」


みあにシートを差し出す。


「あ、これ前にみつくんが感想書いてたやつだね」


一本の古い映画の紹介文をみあが指さす。洋画好きじゃなくても知っているくらい有名な俳優が主演のサスペンス映画で、最後の台詞の一言の意味をどう解釈するかによってストーリーが全く異なるというものだった。


「これ面白かったからなー。最後の一言のためだけにそれまでの二時間がある感じがするんだよね」

「それ、ブログで読んだなぁ」


みあがふふっと声を漏らして笑う。


「そういえば最近、全然更新してないね」

「ああ、確かに……」


あれほど更新していたツイッターもブログも今はそれほど必要だとは思えなかった。感想が溢れて止まらないような音楽や小説や映画に出会っても、今はそれを聴いてくれるみあがいる。他の誰の共感を得られなくても、みあが受け止めてくれればそれで良い。


「……ごめんね」


不意にみあが消え入りそうな声で呟いた。声に出して聞き返すこともできずにその顔をそっと覗き込む。


「……嫌なことがあって落ち込んでたの。びっくりさせたよね。ごめんね」


俯いた視線が予期せぬタイミングで上を向いて、交差する。その不安で寂し気な表情を見た瞬間、さっきまで自分が覚えていた違和感など黙って飲み込んでしまえるような気がした。


「……服とか、雰囲気とかがいつもと違ってたからびっくりした」


みあの目がふと揺らぐ。


「だよね。……私もああいうファッションは好きじゃない」


吐き出された透明な呼気が部屋の空気と混ざる。


「うん。いつもの服の感じのほうがみあに似合ってると思うよ」


努めて明るい声を出すと、彼女は安堵したように笑った。その笑顔を見て、俺もほっとした。八時間立ちっぱなしで仕事をしていた疲労が急激に襲ってきて、堪え切れずにあくびをした。


「疲れてるのにごめんね」


みあが謝罪のことばを繰り返す。それには返事をせずに自分のものよりも広いベッドに身体を横たえる。ぼんやりと天井を眺めながら緩い呼吸を繰り返していたら、すぐにでも眠れそうだ。無言になったことで諦めが付いたのか、みあも同じように隣に身体を投げ出した。手を伸ばせばすぐに届く距離で、体温だけを感じながらこのまま眠りに落ちることができたら、それだけで充分幸せだ。


「……みつくんがいてくれて良かった」


震える声でそう呟く最愛のひとに、自分はこれ以上何をしてあげられるというのだろう。衝動的に彼女を抱きすくめていた。みあは腕のなかで大人しくしている。自分のものより先に彼女のペースの早い鼓動を感じた。急に身体の奥から込み上げてくるものを感じて、慌てて身体を引き剥がそうとした。


「大丈夫だから」


小さいけれど、はっきりとした声が耳まで届いた。もうどうしようもない。


できるだけそっと、優しく、みあに喜んでもらえるようにしたかった。初めてしっかりと真正面から見つめた手首の傷跡の一つ一つにキスをした。彼女が必死で苦悩に抗った証を、ちゃんと愛したかった。どうしたらこの気持ちが正確に伝わるのだろう。そんなことを本気で考えると、熱い衝動とは別の感情が込み上げてきて泣いてしまいたくなる。


どうしようもなくみあのことがすきだ。


彼女はそのことを一体どれくらい理解してくれているのだろう。今感じている温度で質量で、受け止めてくれているのだろうか。


 そのまま抱き合ったまま二人で眠って、先に目を覚ましたのは俺のほうだった。裸で眠るみあの身体からそっと腕を離して、できるだけ音を立てないようにしてトイレへ入った。部屋へ戻るとみあが寝返りを打って、そしてぼんやりと目を開けた。


「……おはよう」


カーテンの向こうに朝の気配を感じる。


「おはよう」


みあが緩慢な動作でベッドの外に出ようとして、はっと動きを止めた。シーツを引っ張り上げる。


「……見ないで、一応」


脳みそが沸騰するようだった。耳まで熱を持つのを感じて、慌てて目を反らした。彼女がベッドを出て浴室へ移動したことを音で確かめて、一つため息を吐いた。とりあえず下着は身に付けているものの、シャワーを浴びるまでは服を着る気にもなれなくて何をするでもなくみあが戻ってくるのを待った。数時間前に脱ぎ捨てたビビッドな花柄のワンピースを着て戻ってきた彼女と入れ替わりでシャワーを浴びた。浴室のモニターで久しぶりに時刻を確認すると、チェックアウトの期限まであと一時間ほどしかなかった。


服を着て部屋へ戻ると、みあはベッドに腰かけて昨晩と同じようにテレビを見ていた。俺に気が付いて振り返る顔はあどけない。瞬きから次の瞬きまでの間お互いに見つめ合って、みあが両手で顔を隠した。


「あんまり見ないで。すっぴんなの」


初めて目にした素顔は、普段のメイクをしているときとさほど変わらないように見えた。自ずと口角が上がる。


「そろそろここ出ないといかんからさ、モーニング行こ」」

「モーニング?」

「どっか朝ごはん食べに行こう」

「でも私すっぴんだし……」

「ちょっとぐらい大丈夫だって」


みあはえー、と声を漏らしながら緩い抵抗をして迷ったあと、でもお腹空いたしなぁ、と呟いて心を決めたようだった。俺は少しだけ笑って自然と彼女の手を取り、そのまま手を繋いで部屋を出た。


適当な喫茶店に入ってトーストとサラダとコーヒーのモーニングセットを食べながら、俺はいつものようにみあの写真を撮った。


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