彼女は確かにここにいた 07
それからの日々は全く比喩なんかではなく、今までの人生で一番幸せだった。
みあは今どきのスマホユーザーの今どきの若者としては珍しくラインを使っていなかった。どれだけ便利だと説明しても頑なに使用を拒んだ。その理由としては過去に使ったことがあるけれど、既読が付くか付かないかが気にかかること、それから返事を急かさせているような気がして嫌なのだという。だからラインの代わりに毎日メールや電話をした。休みが合うようにバイトのシフトを調整して何度もデートをした。みあとの関係のなかで生まれる全てのことは、不思議と何度繰り返しても一向に飽きる気配も煩わしさも感じられなかった。
やがて季節は真夏を迎えた。立っているだけで全身から汗が噴き出して呼吸さえもままならないような炎天下でも、みあは暑いねと言いながら笑う。そんな彼女の隣で呪詛の声にしか聞こえなかった蝉時雨を、人生で初めて風流だと感じた。
大学時代に利用していた乗り慣れた地下鉄でほとんど行ったことのない駅で降りた。
「海の匂いがするね!」
長い階段を上って地上に出た瞬間熱波に全身を嘗められて早速眩暈を覚えた俺の隣で、みあが子どものような声を上げた。大きく鼻から息を吸ってみたけれど、潮の匂いなんて感じられなかった。
「そうかな。全然わからんけど」
「ほんとに? どうしてー。すごく香ってるのに」
真っ直ぐ歩いて短めの横断歩道を渡って右に曲がると、正面に水族館の全景が見えた。左手には船のいない殺風景な港が広がっている。確かに海はあるのにみあの言う潮の匂いはまったくしなかった。
「水族館なんて初めて来た。魚を見て、美味しそうとしか思えなかったらどうしよう」
入り口で入場券を買っている隣でみあがそう言うものだから、思わずスタッフの前で笑ってしまった。
「イワシの群れを見て、かわいいーって言うよりは良いよ。たぶん」
カフェで喋るだけでも本屋を歩き回るだけでも楽しいけれど、たまには変わったことがしてみたくなってみあに行きたい場所がないかと聞いてみたら、水族館という答えが返ってきた。彼女いわく、今まで一度も訪れたことがないらしい。子どもの頃に連れて来られなかったのか、と聞くと覚えてないからたぶん来たことがないと言っていた。
語弊があるかもしれないが、みあは今どきの女子大生にしたら純粋過ぎる。自分より年下の女性に対していつの間にか抱いていた偏見が見事に打ち砕かれていく。子どもみたいに何事も素直に楽しんだり喜んだり、時には怒ったり悲しんだりする。
「みつくん、見て! オジサンだって!」
みあが水槽の上に書かれた魚の紹介文を見上げながら、呼ぶ。複数の種類の魚が泳ぐ水槽の中を覗き込んで、オジサンという名前の魚を探した。
「あ、あれだー」
指さす先には鮮やかなオレンジ色の大きな魚がゆったりと泳いでいる。名前からは想像しなかった綺麗な魚なんだなと感心していると、不意にそれが確認できた。
「ほんとにおじさんっぽいね。すごい髭ー」
下顎に長い髭が二本生えていた。
「この髭のせいでこんな名前付けられたのかな……」
「じゃないー? たぶん」
みあは水槽の中のオジサンたちにどんまい、と声を掛けて次の水槽へと引き寄せられるように歩いていく。平日だからか思ったよりも空いている水族館は、好きなものを好きなように見て勝手な感想を口から出るままにできて、デートの定番スポットという重圧を全く感じさせない。
薄暗い館内には幼稚園や保育園に通う年齢にさえ満たないような子供たちを連れた若い母親や夫婦がちらほらといた。あんな細くて自分の体重を支えられるなんておよそ信じがたいような足で立つ子どもと視線を合わせるように横でしゃがむ女性。少し後ろにはスマホで二人の写真を撮る男性がいる。夫婦の年齢はもしかしたら俺とそう変わらないかもしれない。いつの間にか自分もあれくらいの子どもがいてもおかしくないような年齢になってしまっていたのだ。大水槽の前で水色の明かりに照らされたみあを盗み見て、二人の間に小さな子どもが立っている姿を想像した。今まで想像もできなかった未来が、急に魅力的に思えてくる。まだ付き合い始めて二か月ほどしか経っていないけれど、もうみあと結婚したいなんて思っている。
だけど、と続く思考を断つかのように館内放送が流れた。
「三時からアザラシとハイタッチ会だって!」
放送を繰り返すみあのことばに、腕時計を確認する。イベントまではあと十五分ほどだ。
「行こっか」
アザラシがいる水槽は屋外にある。自動ドアが開くと同時に今が真夏であることを思いだす。日差しだけでなくじっとりとした湿気も感じるのに、それでもみあは薄手のカーディガンを羽織っている。どうして世の女性たちはこの暑さを長袖で耐え抜けるのだろうか。毎年不思議に思っている。
ハイタッチの会場であるアザラシの水槽の周りに階段状になった座席が数段ある。さながらイルカショーをやるプールのミニチュア版のようだった。周りにはやはり小さな子どもを連れた人たちが集まっている。
音が拡散してしまって賑やかだけれどどんなメロディなのかいまいち掴めないような曲とともに飼育員と二頭のアザラシが入場してきて、会場からは可愛らしい拍手が沸き起こる。隣でみあもリズムに合わせて手拍子をしていた。飼育員の合図によってステージ上のアザラシも腹を叩くようにした。
「かわいいー」
みあは眉間に軽い皺を寄せて、ため息交じりに呟いた。目は真ん丸で、凹凸の無い柔らかそうな身体。今までじっくりと見たこともなかったけれど、確かにアザラシたちは可愛い。なんとなく大型犬の愛らしさに通じるものがある。
小さな輪っかをキャッチして鼻面で回してみたり、飼育員とキャッチボールをしたり健気に芸をこなす動物を見て何故だか無性に泣きそうになった。みあは彼らが動くたびに完成を上げている。
「さあここで本日のメインイベント、ハイタッチ会を始めまーす!」
飼育員の女性の明るく輪郭のはっきりとした声が響く。
「三組のお客様にここにいるアザラシくんたちとハイタッチをしてもらいます」
その後安全上の理由で小さな子どもは保護者と一緒に、など数点の注意事項が挙げられる。
「アザラシとハイタッチがしたいよーという方、手を上げてください!」
そう言い終えるより早く、隣で真っ直ぐに手が上がった。
「みあ、やるの?」
「やるに決まってるじゃん。早くみつくんも手ぇ、上げて!」
みあに掴まれて手を上げさせられる。周りで手を挙げているのはほとんど小さな子どもたちや、彼らの保護者達だった。そんななかで目立ったのだろうか、みあの熱意が伝わったのだろうか。
「それではまずはそこのお兄さんとお姉さん!」
いの一番に指名されてしまった。みあが参加するのはまだ分かるとして、俺はこういうときに前に出るタイプではなかった。せいぜいアザラシとハイタッチをするみあを写真に収めようと考えていたのに。弾むみあの背中についていき、ステージへ上がる。他人がアザラシと触れ合う姿など誰もそんなに興味が無いということはわかっていても妙な恥ずかしさを感じて、できるだけ客席のほうを見ないようにした。
飼育員に連れられてさっきまで様々な芸を披露していたアザラシたちが目の前まで来る。意外と大きくて、可愛さよりも迫力を感じた。
「かわいいねぇ……」
みあは飼育員にも気づかれない程度の小さな声で呟いて、アザラシの円らな瞳を覗き込んでいる。アザラシも何かを感じているのか、じっとみあのほうを見ていて微笑ましい。
「さあ、それでは握手をしてみましょう!」
飼育員が合図をするとアザラシたちは身体の片側に体重を預けて左前脚を上げた。みあがカーディガンの袖を捲り上げた。白くて細い手首に自然と視線を引き付けられて、そして一瞬世界から音が消えた。
みあが両手で包み込むようにアザラシの前足を握る。嬉しそうにこちらを向いて笑う。ひまわりみたいに暖かで無邪気な笑顔に、その傷跡は余りにも不釣り合いだった。左手首に夥しい数の線が走っている。凹凸があったり変色しているものもある。その線が何なのかは考えるまでもなかった。
「ほら、次はみつくんの番だよ」
みあに手を引かれて、アザラシの前に立つ。何も知らない彼か彼女は相変わらず真ん丸の目をしている。飼育員の掛け声とともに伸ばした手のひらに触れた生物の手は思ったよりもべたっとしていて、そして暖かかった。可愛い。愛おしい。
「ほんとに可愛いよねぇ」
すっかりアザラシに骨抜きにされたらしいみあが背後でしみじみと言う。そんな彼女のことをとても愛おしく思う。自分で自分の身体を傷つけなきゃ乗り越えられない日々があったならそれでいい。そんな傷跡に怯んだりしない。
客席に戻る前にもう一度アザラシのほうを振り返って手を振るみあの手首にこれ以上あんな傷が増えないように、せめて護れたなら良いのに。死んでしまえたらと願いながら生きていた時期が自分にもあった。でも今はこうしてみあと水族館に来られている。
だから、大丈夫だよ。みあ。