彼女は確かにここにいた 03
最寄りの駅に着くころには酔いはどこにも残っていなかった。冴えすぎているほど冷めきった頭で帰宅して、部屋の明かりを付けるより先にパソコンの電源を押した。Itunesで音楽をシャッフルにして流す。書きかけで保存していたファイルを開く。どんな風にどのシーンまで書いていたのかさえ定かではないけれど、キーボードを叩いた。どうにかしてこの身体と脳のなかに溜まった感情を吐き出さないと今すぐにでも窒息死しそうだ。
一心不乱にキーボードを打ち続け、ふと我に返ると部屋はまだ真っ暗だった。時計を確認すると四十分ほど経っていた。少しだけ気持ちが落ち着いて、明かりを点ける余裕ができた。静かにキッチンへと降りて冷蔵庫から缶ビールを盗み、部屋に持ち込んで開けた。缶に口を付けながらツイッターを開くと、通知が一件来ていた。
みあ @mia_mamma 1時間
@hikaru_humanity おつかれさまでした。どうでしたか?
さっきまでとは違った感情で胸が詰まる。そのまま目の奥が熱くなって泣いてしまいそうにさえなった。画面の左端のアイコンにカーソルを合わせる。クリックしてポップアップした白紙に、何を打てばいいのか分からなくなる。何を言いたいのか言われたいのかもわからないのに、誰の目にも触れない方法でみあにメッセージを送りたくなった。
こんばんは、と打つ。ヒカルです。その後が続かない。いつもお世話になっています、じゃまるで取引先に送るメールみたいだ。お元気ですか、も堅苦しい。リプライありがとうございました、と送ったら何をわざわざと思われそうだ。候補となった様々な文章を入力しては消すことを幾度か繰り返して、気が付けばビールはすっかり温くなっていた。
一気に流し込んで深いため息を吐く。そのままパソコンをぱたんと閉じて、ベッドに横になった。
翌朝胸のムカつきを覚えつつ目を覚ましてからも、とりあえずリプライをしてからもバイト中も通勤中も食事中も入浴中も布団の中にいるときも、気が付くとみあにダイレクトメッセージを送るかどうかで悩んでいた。優しい雰囲気のある彼女のことだし、頻繁にリプライやコメントをくれるのだから少なくとも嫌われてはいないはず。余りにも悩み過ぎて、悩むことすら面倒くさくなった勢いでメッセージを作成する画面を開いてみても、やっぱりこんにちは。ヒカルです。以降が上手く続かない。同じクラスに好きな女子がいるのに声さえかけられない中学生か高校生のような気分だった。
バイトを終えて帰宅してパソコンの前で悶々としている内に寝落ちしていた。ふと目を覚まして時間を確認しようとスマホを見ると、ラインが一件来ていた。
駿介:久しぶり。
これはまたなんとも懐かしい名前だった。連絡を取るのなんて下手をすると四、五年ぶりかもしれない。それでももし誰かに親友はいるかと尋ねられたら、彼の名前しか思いつかないだろう。
mitsuhito:めっちゃ久しぶり。急にどうした?
高校時代の同級生だった駿介は、大学に進学はしたものの一年目の冬には自主退学した。それ以降何をしていたのかは風の便りすら耳にしたことが無かった。
駿介:久しぶりに飲みにでも行かんかなと思って。
深夜というより明け方と呼ぶべきような時間帯に送ったにも関わらず、すぐに返信が来た。メッセージを開かずに通知画面で内容だけ確認すると、数分前には確かに感じていた懐かしさと高揚感が静かに萎んでいった。駿介が今の自分を知ったらどんな反応をするだろう。彼の近況に興味があるのと同時に、そんな恐怖心もある。
mitsuhito:いいね。飲み。早めに予定教えてくれたら都合つけるよ。
それだけを送信して、風呂へ入った。結局その晩もみあにメッセージを送ることはできなかった。
「おお、久しぶり」
最後に会ったのはいつだったのか、どんなことを話したのかさえ覚えていなかったけれど、その声に釣られて顔を上げた瞬間、昨日別れたばかりかのように容易く空気が混ざった。
「……久しぶり」
ロゴの入ったオーバーサイズのTシャツに黒のスキニーパンツを合わせて、つばのあるハットを被った駿介があの頃と同じ笑顔を浮かべていた。だいぶ瘦せたというか、ほっそりとした印象になった。
「なんか食いたいもんある?」
「べつになんでもいいよ」
「地味に旨い店あるんだけどそこでもいい? お洒落でもなんでもないけど」
「旨けりゃいいよ」
駅から徒歩十分。駿介に連れていかれたその店は聞き覚えのある名前の居酒屋だった。アロハシャツを着た女性店員に案内された席はスライド式のドアに仕切られて半個室状になっている。
「とりあえず生で。ミツは?」
「俺も生で」
駿介がハットを外す。その僅かな瞬間の沈黙さえ、何を話すべきかと脳内を探った。戸が開けられて店員がジョッキを二つ置いて、熱いおしぼりを手渡してくる。駿介が一つ、二つ、何かを注文していた。
「ほんとに久しぶりだな」
「だよな。最後に会ったのっていつ?」
「俺が大学辞める前でしょ。ってことはもう六年ぐらい前か?」
「かもしれんな。ほんと一時期まじで何やってるか謎なときあったよな」
「え、俺が?」
「そう」
「そうだっけ」
「そうだって。大学辞めてしばらくしてさ、クラスの集まりにも来んくなったし、一回ツイッターからもラインのグループからも消えたときあったじゃん。あんときはまじで大丈夫かって心配になった」
「あー」
駿介の視線が下がる。それと同時に戸が開いて、店員が五種の串盛とだし巻き卵を持ってきた。
「あのときは結構どん底だったからなぁ」
湯気が昇るだし巻き卵に醤油を掛けながら駿介が呟くように言った。
「六年も会ってないってことは、そのへんの話もミツにしてないってことだもんな」
「なんも聞いてない」
これまじで旨いから食べてみ、と指されただし巻き卵を自分用の小皿に取り分ける。大根おろしを崩して載せて口に放り込む。出汁の香りがふわっと口の中に広がって、弾力がありながらも柔らかい卵がほろほろと溶けていく。大衆居酒屋の本気を垣間見た。これで三百円ちょっとだなんて信じられない。
「うま」
思わず声が漏れた。駿介は得意げな顔で、だろ、と笑った。
「そんで駿介、今何してんの?」
自分は現状を明かしたくないことを棚に上げて、最も興味を持っていたことを切り出した。
「ん、俺? 相変わらずバンドやってるよ」
胸の奥がライターの火で燃やされたようにじりじりした熱を持った。串揚げがやけに胃にもたれるような感覚。クーラーの効きが悪い真夏の教室で、他人の机に腰かけながら話していたことを思い出した。駿介はあの頃から変わっていない。
「ミツは?」
「……俺はフリーターしてる」
できるだけなんとも思っていないように聞こえるように、駿介が追加で注文したはまちの刺身に箸を伸ばしながら答えた。
「ふーん。就活しんかったの?」
「したよ。新卒で銀行で働いとったけど、二年前に辞めた」
まじかー、と口の中で呟きながら駿介はメニューを捲って、呼び出しのボタンを押した。
「なんで辞めたの?」
「なんか……、俺が思っとった仕事と違った」
新卒後三年以内の離職者に退職の理由を尋ねたら、多くの人が同じように答えるだろう。それぐらいにありふれた理由で、自分だけが突出して過酷な状況にあったわけじゃない。誰もが同じような苦難を経験してなお仕事を続けているのだから、どんな表現をしたって言い訳にしかならない。
駿介は自分で聞いておいたくせに、ふーんとまるで興味が無さそうな反応をしながらサーモンの刺身にわさびを載せている。その態度に少しだけ腹が立って、口が勝手に動いた。
「渉外やっとったんだけどさ、毎日バイク乗ってお客さん家行くんだけど、メインのターゲットってじいさんばあさんなんだよね。暑い中大変だろって冷たいお茶とかスイカまで出してくれる人もおってさ。一人めっちゃ仲良くなったおばあさんがおったんだけど、突然亡くなったんだよね。その人、結構預金しとってくれてる人でさ。そういうのってこっちでデータ見れるんだよ。そしたら先輩がお悔やみ言いに行くぞって突然言い出してさ。その先輩、そのばあさんと関係無かったのに。俺に初めて良くしてくれたお客さんだったから、俺も遺族に挨拶ぐらいしたくて付いてったんだけどさ」
口のなかが乾燥してビールで潤わそうとジョッキに手を伸ばした。けれど持ち上げられなかった。代わりにため息が漏れる。
「家族にお悔やみを言ってさ、そこまでは良かったんだよ。でも家を出てすぐさ、ヘルメット被りながら先輩が言ったんだよ。こうやっとければ婆さんの保険金が降りたときにまたうちに預けてくれるかもしれないからってさ。まだ家の前でだよ。窓が開いてたら聞こえそうな声でさ」
あのとき先輩の発言に相槌を打つよりさきに、垣根越しに家の窓や戸が開いていないか必死に確認しようとしたことを覚えている。遺族がその発言を聞いていたのかはわからない。もう一度顔を合わせることもないままに次の春に退職してしまったからだ。
「結構そういうことって多くてさ。お客さんイコール金、みたいな。銀行とは言え仕事だし商売だし儲けなきゃ始まんないってことは頭ではちゃんと理解してるつもりだったけど、同僚も上司も皆、お客さんを金があるかないかで判断しててさ、預金額が小さい人のことは蔑ろにしたり悪態ついたりさ、そういう裏の事情とかを見てるとなんかしんどくて」
駿介は何も言わない。メニュー票を捲りながらときどき頷いている。不思議な心地だ。誰に辞めた理由を聞かれても詳しく説明する気も起きなかったのに、こんなにもペラペラ喋っている。自分じゃない誰かが話しているのを聞いている気にすらなる。
「営業なんだから契約取れてなんぼだし、お客さんを騙してるわけでもないし、そこは割り切ってやってくもんだって言われても俺にはできんかった。どうしてもなんか悪いことしてるような気がしてさ……。だからたぶん単に俺にはあの仕事は向いてなかったってことなんだろうな」
一方的に話したことが急に恥ずかしくなって、誤魔化すように笑った。
「まー、確かにミツには営業って向いてないよな。そんなハングリー精神無さそうだし。誰かを蹴落としてまで一番になりたいってタイプには全然見えんし」
あまりにもさらりと言われてしまって呆然とした。もっと何かを言われるような気がして、身構えていたけれど、よく考えたら何を言われるつもりだったのかもわからない。喉元を擦りながら、曖昧に返事をしただけだった。
「まあさ、その内良い感じの仕事見つかるだろ。社会人経験の無い俺に言われても説得力ないかもしれんけどさ」
「そんなことないって……」
「てかもう小説書いとらんの?」
とんっと胸を突かれたような心地だった。不意に塩素の混じった風の香りが鼻を掠める。
「……ちょこちょこ書いてはいる」
「まじか。なら良かった。やっぱりミツは小説書くべきだって」
「でもそんなに大したもんじゃないし。ちょっともやもやしたときに吐き出すためにやってるようなもんだからさ」
「お前が書く話、好きだったけどなぁ」
駿介が静かな声で言った。音楽で成功したい駿介と小説家になることを夢見ていた俺は、戦友でもありライバルでもあった。クラスメイトがいなくなって風通しのよくなった教室でお互いの夢を語り合っていた。
「駿介こそ、今バンドどうなの?」
「んー。ライブやったりCD出したりちょこちょこフェスにも呼んでもらえるようにもなってきたかな」
「まじで? すごいじゃん、それ」
「全然まだまだだよ。ちっさい箱で対バンとかばっかだしさ。それでも通ってくれるお客さんとかもいてそういうのは素直に嬉しいし、この人たちを裏切らんように俺ももっと頑張らんといかんなって思う」
頬が微かに赤らんでいるのは、アルコールのせいなのか判断が付かなかった。けれど実現する可能性の低い夢を堂々と口にできるのは、それだけ駿介が本気で夢を追っている証だろう。
もしも俺が駿介と同じように同じだけの時間を、かつての自分の夢に捧げていたらどうなっていただろうか。想像しかけて、やめた。温くなったビールを喉に流す。
「もう一つさ、どうでもいい話していい?」
「なんだそれ。なんでもどうぞ」
駿介は二人分のドリンクのお代わりを注文しながら、続きを促した。
「実はさ、……気になる人がおるかもしれん」
思わず視線を反らしてしまったが、軽やかな笑い声が聞こえてはっと顔を上げた。
「なんだそれ。高校生みたいな話だな」
指摘されて頬に熱が集まるのを感じた。
「なに、相手既婚者とか? そういう話?」
「そんなんじゃないって。まじで真剣に話そうと思っとんのにさ……」
「うそうそ。ごめんて。話してみ」
大きく息を吸って、それから意を決して口を開いた。ツイッターを通して知り合った「みあ」のことを、順を追って話していく。その内にことばにしてみると余りにも自分と「みあ」の関係が希薄であることに気づき、心細くなった。駿介は相槌を打ちながら静かに聞いていた。
「そんなん連絡するしかないじゃん」
「どうやって?」
「どうやってってDM送れば?」
「だから、どう?」
「別に内容なんてどうでもいいじゃん」
「そのどうでもいい内容が思いつかんから困っとるのに」
「なんか適当にさー、いつもコメントありがとう、とかじゃいかんの?」
「そんなこともうコメ返で言っとるし」
「いいんだってそんなこと。なんでもいいから理由こじ付けてメッセージ送ればいいだけって。それで嫌だと思ったら返事しんだけだろうし。送りさえすれば後は向こう次第だって」
そんなことをいとも簡単に言ってのける駿介が少しだけ恐ろしくなった。もしかして俺が知らない間に結構遊んでいたのだろうか。バンドマンだしお洒落だし顔もそこそこ良いし、モテないわけがないのだけれど。そう思いながらも駿介の意見には納得できる部分もあった。
「まあそんなもんか……」
「そうだって。もっと気楽にいったほうがいい。何事もね」
改めてかつての親友の顔をまじまじと見つめると、なんだよ、と笑われた。
やっぱり駿介は親友だ。昔も、今も。