近くて遠かった(4)☆
しとしとと降り注ぐ音をこの耳が捉えた。随分と長い夢を見ていたような気がする。
次第に鮮明になっていく意識の中で、ああこれは雨音だと確信できた。
蓮との思い出は大体雨がセットだったことを思い出す。ちょっと遠くまで買い物に行ったときに突然の大雨で交通が麻痺して、結局その街のビジネスホテルに泊まったこともある。
でもそうやって私たち二人を安全な場所へ閉じ込めてくれる雨はなんだかんだと嫌いじゃなかった。
「……一人だと憂鬱なものね」
ベッドから降りてカーテンを開けた私はいつの間にかぽつりと呟いていた。結露した窓に指の跡が走る。
あの頃は蓮が雨男なんだと思っていたけど、今思うと私が雨女だったのかも知れないわね。
だってルームシェアを解消して別々の道を歩んでから、初めて再会したあの日、蓮は夕方の晴空の下にいたんだから。
……あの女と一緒に。
長い夢。そんなのがあるのなら、実は現在が夢なんてこともあるんじゃないかしら、なんて思った。
でも現実は揺るがない。窓の外の景色に哀しげな雨音、湿気を帯びた匂い、足の裏の冷たさ……この後食事をすれば尚更実感するだろう。どうやっても五感は確かにここにあるのだと。
どんより暗い空のせいで時間の感覚がイマイチわからなかったんだけど、時計を見ると午前9時近く。私にしては朝寝坊だった。まぁ今日は休みだから別にいいんだけどね。
すっかり作り慣れたグリーンスムージー、それと小皿に盛った無添加のミックスナッツが今日の朝ごはん。ぼんやりとテレビを眺めながらポリポリと摘む。
一応部屋着には着替えたけど、特に出かける予定もないからノーメイクのまま。日課であるヨガも、なんだろう、今日はやる気が出ないわ……なんて思っていたとき。
ブブッ
ブブッ
テーブルに放り投げていたスマホの着信に気付いた。
同じ事務所のモデル仲間の名前が出てる。
「はい、二宮」
『相変わらずクールな出方ね。明日の時間なんだけどちょっと変更があってね……』
温度のないような私の声色が面白かったのかクスクス笑いを含みながら話すモデル仲間。
でも私が察したのはそれくらいで、後はなんだかピンと来ないような感じがして首を傾げた。
「待って。明日って?」
『え! やーね、合コンよぉ! しっかりしてよね。花鈴が来なきゃ盛り上がらないんだからぁ!』
あぁ、あの人数合わせの。そう呟く前にお口にチャック出来て良かったわ。
とりあえず明日の時間変更を手帳にメモしてから電話を切った。ふーっと長いため息をつく。
正直、早くもワインが恋しくなっていたところなんだけれどね、なんだか今日の私は危うい。飲み過ぎて酒焼けでもしたら明日気まずいし……と、せめて昼過ぎまでは開けるのを我慢しようと決めた。
チラ、チラ、と光のようなものを放ちながら泳ぎ回る過去の残像たち。それはいつか蓮が教えてくれたネオンテトラという魚に似ているような気がした。
昨夜、浴槽の中で二匹のグッピーに再会してからずっとこうなの、私の頭の中。青や赤や黄色や縞模様、色とりどりの魚たちが行ったり来たりしている。おかげでテレビの内容も小説の内容も全然頭に入ってこない。でも鬱陶しくはないのがなんだか不思議で……
「ああ、もういいわ」
私はクッションを枕にして仰向けになった。
目の上に手の甲を当てて照明の光を遮る。
それでも眩し過ぎた。天井を行き交う魚たちが当時の感情まで連れてくるからたまったもんじゃない。観念して私は瞼を閉じた。
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あの秋の夕暮れ時、私はやっと蓮と想いを遂げられたと思った。一度だけだと夢だったんじゃないかと疑ってしまうから、そんな不安を振り払うべく何度か同じような時間を過ごしてみた。
彼は確かに応えてくれていた。でも私の不安は消えなかった。私の為にそうしてくれている、だけどそこに彼自身の望みはないように見えたの。
どんなに身体の距離が近くても。
決定的な“何か”に触れられない。モヤモヤした気持ちはつのっていった。
そうしているうちに季節は更に過ぎた。
そして十一月初めのある日のこと。
「ハァ!? 何それ、知らないわよ!」
仕事の帰り道の途中、まだ人の多い場所であるにも関わらず私は思わずぶっきらぼうな声を上げた。そのままスマホをタップして一方的に通話を切った。
遅れてハァ……と重いため息が零れた。
電話の相手は親父。私が家を出てから今まで一度だって連絡よこしてきたことないクセに一体何事かと思ったら、会社が倒産寸前の危機だから金銭的援助をしてほしいというとんでもない内容だった。きっと兄貴の方にも連絡が行っているんだろうと容易に想像できた。
明らかに私の方が不利じゃない。すぐにそう思って唇を噛み締めた。
先に家を出た兄貴の方がきっと蓄えはある。でも私はまだ土台を作っている最中な上に同居人までいる。
現実問題、蓮はすぐに働くなど難しいだろう。頑張って探しているのは知ってるけど何せ体調が安定してない。そのうえ実家に仕送りまでしてたら蓮と二人の生活は成り立たない。
落ち着かなきゃ。そう自分に言い聞かせたけど、あのときほど足取りの重い帰り道はなかった。
日の暮れかかった空は雲行きが怪しくなっていた。
「……あのね、蓮。話があるの」
アパートに帰る頃にはもう夜になっていた。
私はまず彼に聞いてほしいと思った。
最初は落ち着いてたの、私。ちゃんと蓮の目を見て、出来るだけわかりやすく、ゆっくり、私の実家の状況と、それが私たちのこれからの生活にどう影響する可能性があるのかを伝えたわ。
だけど彼は、彼ときたら、私の目の前にいながら何処か遠いところを見ているような目をして。何処か他人事のような顔をしていて。
頷きもしない。読めない表情。私は何か自分の中に焦りのようなものを感じた。ゴウ、と壁を圧迫する強風に煽られるようにそれはみるみる膨れ上がって……
「聞いてるのッッ!?」
ついにタガが外れてしまった。
……私ね。
正直、この後、蓮に対してどんな言葉をかけたのか詳細には覚えてないの。ただ気が付いたら激しく息を切らしてた。頰がすっかり上気しているのが鏡を見なくてもわかるくらい熱かった。感情はまだ芯で燃えている、それは私がたったいま怒り狂ったことを示していた。
これ自体はそんなに珍しいことじゃない。昔、兄貴と喧嘩したときもこんなだった。お互い言いたいことをぶちまけて、ちょっと落ち着く頃にはもう喧嘩の原因さえ忘れてる、そんなことだってザラにあった。
でもそのときの蓮の怯え方は尋常じゃなかった。
顔面は蒼白、こめかみあたりを両手で抱え、うつむいて、カタカタと小刻みに震えていた。細い声でうわ言のように、ごめんなさい、ごめんなさい、と続けていた。
私は思わず後ずさりした。
いくらなんでも叩いたりはしていないはずだけど、私はそれに匹敵するくらい酷いことをしてしまったんだろうか。
足元がぐにゃりと沈むような感覚の後、視界がぐらりと回り出した。
私の知る“人間”とは、もっと弾力があるものだ。跳ね返してくるものだ。
だけど彼はどうだ。まるでガラスみたいに目の前でバラバラに砕けてしまった。
そう、自分と同じだと思っていた人間が実は全く別の材質で出来ていたと知ったような気分。このとき私が受けたのはそんな類のショックだった。
私はついに背を向けた。
怖かったの。自分がしてしまったこと以上に、自分の言葉で呆気なく壊れてしまう蓮のことが。
でも立ち去ろうとした瞬間。
「ごめんなさい!! 花鈴ちゃ……!!」
バラバラに砕けたはずの彼が信じられないような力で私の腰にしがみついた。
大粒の涙を零す瞳が懇願していた。だけど私はもう引き返せなかった。
「……やめて。何が悪かったのかわかってないクセに」
そう吐き捨てたことだけはハッキリ覚えてる。彼の声がそこから途絶えたことも。
このまま一緒にいてもお互いの為にならない。そう判断するまでに時間はかからなかった。私はどんどん我儘になるし、蓮は依存心をこじらせる。本当はもっと前から気付いていたのかも知れない。私たちの繋がりが歪なものになってしまったこと。
だから数日後、私は蓮に言ったの。
「地元に帰るのはやっぱり嫌? もしここに残りたいなら物件を譲ることも出来るわ。ご両親と相談してみてほしいの。就職が決まるまでの間の生活費をどうするか」
あれからほとんど喋らなくなってしまった彼がおずおずとぎこちなく私を見つめた。震える唇がなんて言おうとしているのか、なんとなくわかる気がしたけれど……
「蓮はこれからのことだけ考えればいいわ。悪いけど私はもう力になれない。いちいち実家に仕送りするのも面倒だし、いずれにしても私はここを出て行くわ」
考えを変える気はないことをハッキリと示した。私も蓮の顔を真正面から見つめることはもう難しくなっていた。
それから蓮は実家に頼み込んだらしく、ひとまず生活費と必要最低限の家具を送ってもらえることが決まった。
彼も本当は親を頼りたくなかったんでしょうね。電話を切った後、唇をぎゅっと噛み締めていたわ。
私はただ黙々と物件を譲り渡す為の手続きを進めた。
湧いてきているはずの感情を押し殺して過ごす日々は、両親の離婚が決まった後の記憶と重なって私をますます無口にさせた。
そして十二月上旬に準備が整った。
私の私物がなくなってすっかり殺風景になった部屋の片隅で、二匹のグッピーはひらりひらりと緩やかな追いかけっこをしていた。
窓辺から射し込む夕日、その皮肉なまでの美しさを私は忘れられない。
「……私ばっかりだったね」
「花鈴ちゃ、あの、ぼ、僕も……」
「じゃあ最後にキスしてよ」
「…………っ」
「……嘘。いいわよ、もう無理しなくて」
最後の会話はこんな感じ。こんなときにまで素直になれなかった私。でもそれでいいと思った。
キャリーバッグを引き連れて、振り返りもせず玄関を出た。
いっそ嫌われればいい。嫌な女だと思ってくれた方が都合がいい。全部壊れてしまえばきっとお互い一からやり直せる。
そう思って早足で進んでいたのに。
ゴンッ!!
その音はキャリーバッグのキャスターの音さえ遮った。私は思わず振り返った。
玄関のドアから、ゴンッ、ゴンッ、ともう二回。
それから……
――――――――っ!!
――――――――っっ!!
きっと必死に押し殺した結果、裏返って時折高く響いてくる。離れていたって私には想像がついた。
頭を打ち付けているのか、拳で叩いているのか。彼のことだ、いずれにしたって自分を痛めつけているんだろう。悪いのはいつだって自分。そう信じて疑わないんだろう。
そういうところが嫌なのよ。
彼の声にならない悲鳴は強烈な熱を持って私の中へ一気に流れ込んだ。涙が滝のように溢れ出した。
「聞こえてるのよ、バカ蓮……!」
私の片足の爪先は彼のいる部屋の方へ向いていた。
だけど駄目。このまま私がここにいたら彼は思いっきり泣けない。そう思って袖でぐっと涙を拭い、キャリーバッグを持って足早に階段を降りた。
彼は彼なりに覚悟を決めた。だから私も覚悟しなきゃ。
……蓮なんて嫌い。大嫌い。
これからはそう思って生きていく。
しばらく歩いたときキャスターのやかましい音が途切れた。それは私が膝から崩れ落ちるのと同時だった。
「はは……馬鹿みたい、私」
彼の引き出しに置いてきたピアスのことを思い出していた。もちろんわざと。この期に及んでまだ何か期待している滑稽な自分に、もう終わったのよと、言い聞かせる時間が欲しかった。
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ゆっくりと、現在へ戻っていく意識。
明日からまたモデル・二宮花鈴としての日々が始まる。
難なくこなせるだろう。私にはそれだけの自信がある。だけど時折チクリとくるこの痛みからは当分逃れられる気がしないし、それどころか今は忘れたくないとさえ思ってしまうの。
あの日、彼の心が砕けた瞬間、真正面に立っていた私も無事ではいられなかった。鋭くて愛おしい破片は今もこの胸の奥に残っている。




