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あたしが大黒柱  作者: 七瀬渚
第4章/理解を得るのは困難で
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6.自分に優しくならなくちゃ


 その後、あたしは蓮の身体をぬるま湯に漬けたタオルで丁寧に拭いた。華奢な指の一本一本まで労わる気持ちで。

 二階と一階を行き来している途中で母さんが手渡してくれたのは小ぶりなお椀に入った梅干し入りのお粥。少しずつでいいぞと言いながらそれも食べさせた。


 再び蓮を布団に横たえた後、みんなのいるリビングに戻った。時刻はもう22時過ぎ。


 あたしがいない間、みんなは軽く飯を食ったらしい。

 そんでさっき圭介が風呂に向かったところ。母さんはマイペースにテレビを眺め、父さんはソファで軽くイビキを立てながら眠っちまってる。テーブルの上にはビールやチューハイの缶が五本、無造作に置かれている。小皿に残ってる裂きイカやミックスナッツ。のんびりくつろいでたのが伺える。


 あれ? もう一人いねぇなって思ってたとき、敦が玄関の方面を指差しながらあたしに言った。


「葉月さん、冴子さんが落ち着いたら二人で話したいって言ってましたよ。いま外で一服してるところです」


 あ〜、冴子の奴。結婚してから子どもがある程度大きくなるまではやめてたけど、時々ヤニが恋しいわ〜とかぼやいてたもんな。結局また吸い始めちまったかと理解したあたしは苦笑いする。


 それより二人で話……なんだろう。あたしの分と思しきチャーハンがラップをかけた状態でテーブルに置いてあったけど、気になることは先に済ませたい気分だった。


 あたしは敦に礼を言って再びリビングを出た。

 秋ともなると夜はわりかし冷たい。それは歩みを進める私の裸足にしっかりと伝わり、気分を程よく引き締めていく。



「冴子〜? わりぃ、待たせちまって」


 庭に出ると立ち込める煙が星空をぼかしていた。振り返った冴子が目を見開いた。


「あっ、こっちこそわりぃ。葉月が来る前に吸っちまおうと思ってたんだ。葉月もう煙草とっくにやめてるから煙いだろ。すぐ消すよ」


「あたしはそんなに気にしねぇから大丈夫だぞ」


「葉月は吸いたくなったりしねぇの?」


「あ〜、あたしはただカッコつけてたっていうか、今思うと小道具感覚で持ってただけだからな。そんなに美味いとも思ってなかったし未練は全然ねぇよ」


「いいなぁ〜! 私だってそんなに美味いと思ってねぇよ。でもやめられないんだよぉ〜!」


「残念ながらそれが依存性ってモンだ。禁煙外来行ってみたらどうよ?」


 上手くいくかねぇなんて苦笑する冴子に、程々にな〜なんて返すあたし。二つ分の笑い声が響く時間。それも自ら頃合いを察したように秋の夜風に溶けた。



「それで、話ってなんだ?」


 煙も自然と薄れる。あたしが切り出さなくてもわかっていたように。



「あの、さ。葉月、カサンドラ症候群って知ってる?」


 サクッと重要な部分から言ってくれた冴子。携帯灰皿を握る手に力がこもっているように見える。


 あたしの反応は少し遅れた。


「聞いたことは……あるな。確か自閉スペクトラム症のパートナーを持つ人が発症するっていう……」


 記憶を手繰り寄せていると、それは蓮の障害についてネットで調べているときに得た情報だと鮮明に思い出せた。ただ意識としては頭の片隅に置いていたという程度。あぁ、こんなこともあんのか、くらいの感覚だった。


 冴子の言わんとしていることが見えた気がして少し息を吸い込んだ。多分ぽかんとしたマヌケ面で訊いたと思う。



「まさかあたしがそれだってのか?」



 ちら、と横目でこっちを見た冴子がすぐに空を仰ぐ。いつになく静かな横顔にあたしは釘付けになったまま。


「……わかんない。断言は出来ないよ。私は医者じゃないから」


 うん、まぁあたしも野暮なことを訊いたな。そりゃそうだ。


 それから冴子たちと再会してからここへ来るまでの自分の振る舞いを思い返してみる。そんなふうに見えるところあったかって。でも駄目なんだ。記憶はちゃんとあるはずなのに客観的になれねぇ。今もそう、蓮のことで頭いっぱいになり過ぎててよ。



 でも冴子の言葉ではっとすることになる。



「旦那が行方不明になって連絡も取れないってなったらそりゃ心配になるだろうね。実際何かあってからじゃ遅い訳だし、葉月の判断を間違ってるとは言わない。だけど昔からの葉月を知ってる私からすると、今回はやけに取り乱したなってのが正直な感想だった」



 ひやりとした汗が滲む。

 そう……だよな。冴子だって家庭があるのにこんな夜中に車出すことになって迷惑してないはずがない。敦も圭介も笑顔でいてくれたけど、本当は……きっと。


「ごめん……」


 力なく、ようやく口に出来たとき、冴子がゆっくりと首を横に振った。


「でもね葉月。私がそう感じたのは、葉月たちの家庭の事情を詳細まで知らないからだと思うんだ。警察を頼ってでもすぐに見つけなきゃと思った理由が葉月にはあるんだろ? ちなみに警察の人はなんて言ってた?」


「……苦笑いしながら夫婦喧嘩も程々にねって」



「そう、それ。警察の人がどんな気持ちだったがまではわからないけど客観的に見ると夫婦喧嘩。それこそ事情を知らない人が聞いたら大袈裟だって思うかもね。障害を持つ人のパートナーは、そうやって自分がどんどん孤立していく感覚に苦しむことがあるんだ」



 孤立していく感覚、脳内でその言葉を繰り返すと暗闇の中で両足が宙ぶらりんになった。


 確かに蓮の捜索を依頼したとき、二十四歳男性というだけの情報で軽く受け流されるのが怖くてたまらなかった。あのときの気持ちをいま再体験しているようで視界さえもがぐるぐる回っていく。


「私のママ友の一人なんだけどさ、最近旦那が発達障害だとわかったらしいんだ」


 そんな状態の中へ冴子の声が届いてあたしは我に返った。



「結婚前からマイペースで個性が強い感じはしてたけど、そのうち足並み揃えてくれるようになるだろうって考えてたんだって。でも子どもが生まれた後、家事の手伝いを頼んでも本当に頼んだところしかやってくれないし、個人の時間を優先しようとするし、なんでもっと察してくれないんだろう、家族に興味ないのかなってイラつくようになってったらしい。マジで離婚しようと考えたこともあったって言ってたな」


 気を利かせるのが苦手、人に対して無関心に見える、自閉スペクトラム症の人が誤解されやすいところだな。あたしも正直、蓮に距離を置かれたときは寂しかった。


「凄く頭のいい旦那で大学時代も優等生だったから、社会でもなんの問題もなくやっていけてると思ってたんだって。でも違ったんだ。実際は周りに馴染めず孤立して、部下と比べられたり吊るし上げられたり、相当なパワハラに遭ってた。それでも家族を養わなくてはならないというプレッシャーもあった。そういうの全部わかったのは重度の不眠症になって精神科を受診した後」


 そう。得意分野では人並み以上の能力を発揮することがあるから、学生時代は皆が一目置く優等生なんて人も結構いる。



 それが社会に出た途端……



 お前なんか要らないとばかりにぶった切られるんだ。



 いま想像したらゾッとしたよ。蓮みたいにずっとイジメに遭ってた人も凄くつらいけど、これはこれでダメージでかそうじゃねぇか。



「その頃にはママ友も、子育ての疲れと旦那との不仲で相当衰弱してた。それで彼女も医者に相談してみたらカサンドラ症候群かも知れないと言われてさ、確かに前より神経質になったし何を考えても不安に結びつくから、可能性あるの納得だって言ってたよ」


「…………」



 何か相槌打とうと思ってたんだけどよ、いつの間にかそんな余裕もなくなっちまった。あたしは言葉を失くしていた。


「ママ友は後悔してる。気を利かせることが上手く出来ない旦那を軽蔑して、男として情けない、親として情けないって散々罵ることを言ったって」


 きっとどっちが悪かった訳でもない。でもこんなことになっちまうなんて……って、やるせない思いがつのった。


「私もさ、葉月とかそのママ友とか、発達障害のパートナーを持つ人が身近にいたから考える機会が持てたんだと思う。知らなかったら一方的に決めつけるようなこと、もっとしてたかも知れない」


 そして劣等感もつのっていく。悔しくて悔しくてたまらない。



 なぁ、冴子。知ってても、なんだよ。あたしは知ってたのに蓮のことを傷付けた。あたしじゃない他のパートナーだったらもっと上手くサポート出来てたのかな。


 でも離れたくない、離したくないって思う。蓮、ごめんな。



「長々とごめんね、葉月。私が言いたいのはさ……」


 そっと肩に触れられる感触があった。いつの間にか項垂れていたことに気が付いた。


「カウンセリング受けたらどうかなって。ホラ、日本人って倒れるまで頑張っちゃう人が圧倒的に多いだろ? 仕事も熱が出なきゃ休めないみたいな風潮あるじゃん。それ以外の不調は認められない、みたいな。それって問題だと思うんだよね。限界になる前に対処するべきだって私は思うんだ」


「カウンセリング……」


「そう。病気にならなきゃカウンセリング受けられないなんてことはない。その前に相談しておくに越したことはないよ。なんかパート先でさ、精神疾患なんて大体が考えすぎ、そんなにヤバけりゃ自分で病院行く力もないはず……とか言ってる人がいたんだけど」


「いや……そんなになるまで放置してたらヤバくね? 手遅れとまでは言わねぇけど」


「だろ!? 私もそれはどうなのって思ったわ。気の持ちようでなんとかなれば苦労しないのにね」



 世の中全体のレベルで考えると、病気や障害に対する理解ってまだ行き届いてないんだなと実感する。


 だけどあたしも人のこと言えないじゃねぇか。自分を労わることを忘れてがむしゃらになって働いてた。そういう気合いも時には必要だろうけど、自分に限って病気なんてあり得ないと思ってたってことじゃねぇのか? それは……それってさ……



 蓮や妹が苦しんできたこと、何処か他人事ひとごとのように考えてきたってことじゃ……ねぇのか……?



「あまり自信失くすなよ、葉月。そんな顔してほしくて言ったんじゃない」


 あたしの心に寄り添うみたいに冴子が微笑む。やべ、そんなに情けねぇ顔してたか。


「久しぶりに会ってさ、アンタが旦那のことを本当に大切に思ってるのがよく伝わってきた。旦那への愛情を人一倍持ってるように見える。そこはむしろ自信持ってほしいな。付き合い方がわからなくなることくらい誰でもあるさ」


「うん……」



「末永く付き合っていきたいと思ってんだろ? 今までいいことだって沢山あっただろ?」



「うん……っ」



 そう、そうなんだよ。結婚してからまだ数ヶ月だってのに困難なことだらけでこの先大丈夫かって心配になったりもした。かつては五年に一度泣くなんて言われていたあたしが今はどうだ。なんつう涙腺の緩みよう。


 だけど蓮から大事なものを貰った。


 こんなときに蘇ってくる。それは付き合ったばかりの頃、蓮の実家でママさんから言われた言葉だ。あたしも蓮に支えられてるって熱を込めて言ったとき。



――支えられてるっておっしゃってくれたわね。まずはその辺を詳しく聞いてみたいわ――


――貴女にとって蓮は癒し系なのね――



 あのときあたしはすっかりテンパっちまってて上手く言えなかったと思う。癒し系……確かにそれも本当だ。だけどあたしが感じてること、きっと半分も伝えられなかった。実際まだ恋人気分で浮かれてて、実感が乏しかったのかも知れねぇな。



 でも今ならはっきりとわかる。どんな言葉が相応しいのかも。


 でもこれは蓮に直接受け取ってほしいと思うんだ。



「旦那とのこれからの為にも自分を大切にして、葉月」


 力なく垂れ下がっていたあたしの手がぎゅっと握られる。

 冴子はいま真剣な顔で、ぶれない眼差しで、しっかり身体ごと向き合ってくれている。


「そしたらあたしも禁煙するからさっ! 健康勝負しようぜ!!」


 ニカッと笑い、謎の約束まで突き付けて。



「はは、言ったな? 今のあたしは健康意識高いぞ」


「酒豪が言っても説得力ねぇし!!」



 指先で目尻を拭うと視界がより鮮明になる。薄暗い景色の中で太陽のように輝く学生服姿の親友が見えた。


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