6.訳わかんねぇよ
地震があったときから二ヶ月後の九月。
日本ってほんと地震多いよな。あれから何度か他の地域でも震度4くらいの揺れが起こった。
避難用の道具や食料は前から用意してたけど、この内容で本当に大丈夫かって改めて見直すようになったよ。耳栓や薬も荷物の中に忍ばせておくことにした。
あんま考えたくはねぇけど、いつかもし避難所生活とかしなくちゃいけなくなったら、当然精神科にもすぐには行けねぇ。少しでも蓮の不安が和らぐよう準備しておかねぇと。
通院はちゃんとしてるみてぇだけど、先生とどんな話してんのかな。大丈夫って言ってるけど本当に信用していいのか? 無理してないのか? そもそもどっから何処までが“無理”にあたるのかわかってねぇような奴、もっと時間があれば傍で見てやれるのにと歯がゆくなる。
だけど仕事は家庭の為。通院費用も食費も馬鹿にならねぇ。精神状態が優れないってことは、体調も崩しやすいってこと。精神科だけ通院してれば万事OKって訳にいかないのが現実だ。実際、蓮は皮膚も胃腸も弱いから皮膚科や内科にも通ってる。医療費が一部免除になるの自立支援医療制度で登録してある精神科だけなんだ。
頑張れ、なんて言う訳にはいかねぇけど。
あともう少しの辛抱だぞ、蓮。あたしまだプロジェクトのリーダーになって間もないけど、今に必ず慣れてみせるから。落ち着いたら通院にも付き添うからな。話も沢山聞いてやるからな。
あたしはそんな一心で頑張ってた。
だけど……
ある日、帰宅前に電話すると蓮の具合が悪そうだった。
このところ体調崩す頻度が増えてる気がする。単に季節の変わり目だからなのか、そうだったらまだいいんだけど。
気がかりなのはそれだけじゃない。
最近の蓮はあたしと同じ部屋で過ごしたがらないんだ。
今日もまた、寝室で壁の方を向いて座ってる。エアコンもついてないのにイヤーマフをしてる。
まぁそういうときもあるよなと、あたしはすぐに気持ちを切り替えようとした。
買ってきた弁当をドカッとテーブルに置き、ガタッと椅子を引いてそこに座る。缶ビールを開けて彼に呼びかける。
「おーい、蓮! メシ食うぞ!」
「…………」
「蓮〜〜!?」
待っててやりたいけど、時間がない。明日も早い。あたしは少し苛立っちまった。
おずおずとした仕草の蓮がやってきた。
あたしはゴクゴクとビールを流し込んで、カン! と置くと振り返って彼の様子を確かめる。
「なんだ、まだ具合悪いのか? メシ食えそうか?」
「ん……あの……」
「どうした」
「…………」
「黙ってちゃわかんねぇんだけど。なんだよ、遠慮しねぇで言ってみろ」
そう、遠慮するなと言ったのはあたしの方だ。なのに後から思うと全然受け止める覚悟が足りてなかった。
「音、が……つらくて……」
「…………音?」
「ご、ごめ、なさ……」
蓮の言わんとしてることがわかったとき、なんだか全身の力が抜けたような気分だった。走った後の爽快感みたいなのとは違う。何日も徹夜した後みたいな脱力感。
「そうか、わりぃ。あたしうるさかったな」
「ごめ……」
「いや、いいんだ。わかった。気分良くなったら来いよ。静かにしてっから」
(あたしの声は聞きやすいって、好きだって言ったくせに)
胸の奥がヘドロみたいに粘ついてドス黒く染まっていく。
テレビもつけてない、エアコンもついてない。帰ってきてから音を立てたのはあたし以外にいない。だから間違いなくそういうことなんだと思ったら、駄目だとわかっててもムシャクシャした。
そんで苛立ち以上に寂しい。
最近感じていた不安感は気のせいじゃない。あたしは蓮に拒絶されているような気がした。
「茅ヶ崎さん、眉間に皺寄ってるよ。大丈夫?」
翌日の職場で坂口に覗き込まれてはっと我に返る。そこまで難しい実験してた訳じゃねぇのにそんな顔になってたのか、あたし。
ふるふるとかぶりを振って向き直り、大丈夫だと言って笑った。
「茅ヶ崎さんがそういう笑い方するときってな〜んか心配なんだよなぁ。覚えてます? 何か困ったことがあったら相談して下さい。俺、茅ヶ崎さんの恋愛アドバイザーだった実績があるんですから!」
どん、と胸を叩いてあたしの倍以上の笑顔を返す坂口がなんだか眩しい。
ありがてぇんだけどよ、正直何を相談していいのかもわからねぇ状態っつーか、頭が上手く回らねぇんだよなぁ。
今日の仕事は結構早めに切り上げられた。18時半頃だ。
会社の最寄駅のホームで日課の電話連絡。
だけど蓮は電話に出なかった。
(なんだ? 寝てるのか? 昼間ならまだしもこの時間なら大体起きてんのに)
疑問に思いながらもそのままマンションに帰った。
インターホン鳴らしても返事がない。そこであたしはやっと思い出した。
(そういや皮膚科行くとか言ってたな。確か今日は午後しか診療やってない日だ。時間かかってんのかな)
ふう、とため息をついて鍵を取り出す。鍵穴にねじ込んでドアを開けると啜り泣くような悲しい音に聞こえた。
なんだろう、この感覚……っていうか、予感?
「蓮〜?」
電気もついてない。ってことはやっぱりいないんだろうけど、一応呼びかけながら室内に入った。
せっかく早く帰って来れたのに、あいつのいない空間はこんなに寂しいのかと改めて思っちまう。
それにしてもこの日のあたしの行動はなんだか不思議だった。
いつもなら迷わずダイニングテーブルの前に腰を下ろし、一息ついてから手を洗い、気分によっては酒を飲む。そんな流れが染み付いていたはずなのに、今日は魚たちがスイスイ泳ぐプチ竜宮城へ足を運んだんだ。
「ん?」
そこで気付いた。本棚の間に何か挟まってる。いや、無理矢理ねじ込んだみたいな感じに見える。
引っ張り出してみるとそれは小さなメモ帳だった。見覚えもある。蓮が精神科に通院する際に、筆談用として使ってるやつだってすぐわかった。
最近、蓮とあまり話せてない。しかも昨日はなんだか気まずい空気になっちまった。
あたしは単純に知りたかった。今のあいつがどんな状態なのか。何を考えているのか。それだけの思いで中身を開いてしまった。
絶句することになるなんて思いもせず。
何分、いや、何十分経ったんだろう。
鍵を開ける音がした。
たしたしと歩いてくる足音が背後でぴたりと止まった。
あたしは蹲るようにして座ったまま、ただ止まらない自分の手の震えを見ていた。駆け足の音が迫ってくる。それでもなお、身体は思うようにならず。
「葉月ちゃ……!」
あたしの腕を掴んだのが蓮だとわかっても、いや、わかったからこそ怒りが抑えられなかった。
「蓮……なんだよ、これ」
低く呟き、振り返ったあたしは一体どんな顔をしていたんだろう。唯一わかるのは自分の頰の上を生温かい雫が伝っていることだけ。視界はゆらゆら揺らいで、蓮がどんな顔しているのかもわかんねぇ。
身体の芯が灼熱に呻く頃、甲高い声が喉を突いて出た。
「なんでここに自殺の名所がメモしてあるんだ! お前まだそんなこと考えてるのかよッ!?」
書いてあったのはそれだけじゃなかった。思い出すだけでやるせない思いが溢れて、器の身体が壊れそうになる。
『葉月ちゃんが僕と結婚して幸せだったのかわかりません。僕は病気を治したい。障害とも付き合っていきたい。でも僕は何も出来ない日が凄く多くて、結局いつも葉月ちゃんに負担をかけてばかりです』
『あと十年頑張ってみようと思います。それで駄目だったら自分で終わらせようと思います。遺体が残ると迷惑になりそうなので樹海に入るのがいいと思います』
『そのときは葉月ちゃん、僕のことを忘れて幸せになってほしいです』
こんな、こんな悲しい言葉、もう思い出したくもないのに……! 脳裏に焼き付いて離れないなんて……!
「忘れられる訳ねぇだろ!! 馬鹿かッ!! お前が一人で死んで、あたしだけ幸せになれるとか本気で思ってんのかッッ!! なんの為の結婚だよ!」
「葉月ちゃ、ちが……」
「何が違うんだ!! 実際に樹海の場所までリストアップしてあんじゃねーか!! あと十年ってなんだよ。どんな基準だよ。訳わかんねーよ、お前!」
もはや悲鳴と化したあたしの声は何処までも荒ぶってとても落ち着けそうにない。
ぐすっ、ぐすっ、と鼻をすする音がもう一つ。蓮も泣いてるんだってわかった。でもどうすることも出来ない。
あたしたちは今見つめ合ってるはずだ。触れ合ってるはずだ。なのに遠いんだ。視線が噛み合わないんだ。涙の膜に遮られて。
あたしと一緒にいてあんな楽しそうにしてたのに。嬉しいとか大好きとか、今まで沢山言ってくれたのに。
全部無駄だったってことかよ。こんなの悲しむなって方が無理だ。怒るなって方が無理だ。
「お前と一緒に生きたいと思って頑張ってきたあたしの気持ちはどうなるんだよ……」
「ご、ごめ、なさ……葉月ちゃ、泣かないで」
「お前は幸せじゃねぇってことか。あたしだけそう思ってたってことか」
「ちが、ちがう……僕、僕は……」
あたしはもう容赦なんか出来なかった。
自分の前髪を毟り取るようにして握り、力の限り叫んだ。
「こんなこと考えてるんだったら今すぐあたしと別れてくれ!!」
あたしを掴んでいた蓮の手の力がはらりと解けた。




