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あたしが大黒柱  作者: 七瀬渚
第3章/新婚生活はこんなんで
31/63

1.駆け出しの大黒柱(☆)


挿絵(By みてみん)


 一緒に暮らし始めたのが五月から。入籍の手続きは付き合い始めからキッカリ一年目の六月十七日に済ませた。ちょうど大安で縁起の良さもバッチリだ。


 空間を持て余していたマンションのリビングも今じゃすっかりプチ竜宮城。


 魚たちの餌やりに水槽の手入れ、これは蓮の大事な役目だってわかってる。どんなに体調が優れなくてもこれだけはやりたがるんだよなぁ。任せることにはしてるよ。

 ただどうしてもつらそうなときは代わってやらなきゃと思ってるから、あたしもさりげなく様子を見て手順を覚えるようにしてるんだけど。


 元々住んでた環境に近い場所が蓮は一番落ち着くみたいで、ダイニングよりリビングにいることが多い。ノートパソコンはほぼ毎日テーブルの上に置いてある。在宅ワークのデータ入力をすぐに出来るようにする為だ。



 そうやって過ごすこと約二ヶ月目の七月。


 穏やかに、それなりに楽しんで暮らしてるように見えた蓮が、今朝は元気がない。

 金魚が一匹入った水槽の前で言葉もなく項垂れている。


「どうかしたか? 蓮」


 昨日の仕事の疲れが取れなくてやや寝坊したあたしは、ロールパンを食いながら足早に歩み寄る。悪気はなかったけどヅカヅカ足音を立ててしまったみてぇだ。ぴくっと跳ね上がった蓮が、何処か怯えたみたいにかぶりを振った。


「なんでも……な……」


 いやいやいや。なんかあるだろって突っ込みたくなる。時間がなくてもこういうのは気になっちまう性分なんだよ、あたしは。確かめずにはいられない。


「なんだよ、遠慮しねぇで言ってみ……」


 そして身体を屈めて覗き込んだとき、彼の目が潤んでいることに気が付いた。

 時折横に流れる視線を追って更に気が付いた。



 金魚が動かなくなってる。


「あぁ……」


 原因がわかった。



「そうか、残念だな。最近泳ぎ方が変だって言ってた子か」


「ん……転覆病……餌……少なくしてた、けど……」


「あまり自分を責めるな」



 そう、蓮は水槽の手入れもこまめにやってる。餌の量にも気をつけてるし、異常が出たら他の魚たちとは隔離したり、出来る限りの対処はしてきた。

 でもこういうとき自責の念でなかなか立ち直れないんだよなぁ。



「今日、データ入力、やらなきゃ……でも、お墓、作って……他の、水槽の手入れも……あ、葉月ちゃ、朝ごはん」


「あたしなら大丈夫だ。もう食ってるぞ。お前の分のパンも一応テーブルに置いといた。食えなかったら冷蔵庫にゼリー残って……あっ、悪い! もう時間がねぇ!」


 しゃがみ込んだままの蓮の肩をポンポンと叩いたあたしは荷物を担いで玄関へ向かう。

 蓮の足音がついてくる。



「葉月ちゃ、気を付けて、いってらっしゃい」


「ああ、全部聞いてやれなくてごめんな。なるべく早く帰るよ」



 靴を履いて振り返ったとき、小動物みたいに円らな目があたしを見つめてるもんだから、あたしは彼をぎゅっと一度抱き締めた。頰と頰が柔らかく重なった。



 家を出てからしばらくはとにかく無心で歩いて、電車に乗った後にようやく一息をついた。

 出かける前のことをようやく思い返せた。



 さっき。


 蓮の頭の中がどんな状態だったのか、なんとなくわかってはいた。


――今日、データ入力、やらなきゃ……でも、お墓、作って……他の、水槽の手入れも……あ、葉月ちゃ、朝ごはん――


 やらなきゃいけないこととやりたいこと、今必要な情報とひとまず置いといた方がいい情報、そういうのが一緒くたになって混乱してるように見えた。口から出る言葉はコロコロ変わってた。優先順位がわからなくなってたんだろう。


 そう、この場合だったら私のメシなんかは気にする必要ねぇんだ。だって自分で出来るんだから。他の水槽の手入れは日課。落ち着いてからやればいい。


 こういうときどう言ってやるのが正解なんだろうとあたしは考える。落ち着けと言ってそう簡単に落ち着けるモンなのか? いや、簡単じゃねぇよなと。



 アイツは今頃どうしてるんだろう。

 やっぱり死んでしまった金魚の墓を真っ先に作るんだろうか。マンションの敷地内に埋めたりしないよな? 確かプランターがあったはずだからそっちに埋めるよな。うん、まぁ蓮はそういうの初めてじゃないから大丈夫か。メシはちゃんと食えるのか。これで気分が落ち込んでデータ入力出来なかったら、また自分を責めてもっと落ち込むんだろうか。気にするなってもう一度連絡入れといてやるべきか。


 ああ、あたしまで落ち着きがなくなってくる。



 スマホのトークを開いたけど、何を言ってもアイツは「はい」としか返さないだろう。いや、多分“返せない”。それ以外の返事を知らない。


 あれだけ沢山の魚を飼ってるんだから、蓮にとっては初めての状況じゃないと思う。どうすればいいか方法自体は知ってると思う。


 でも実際魚が死ぬという場面にあたしが居合わせたのは初めてだった。

 歯がゆいな。心細いとき、もっと傍にいてやれたらいいのに。



 アイツがどれほどつらい障害と精神疾患を抱えていようと、ずっとつきっきりで傍にいることは出来ない。安定して働ける人間はあたしでなくてはいけないから。覚悟はしていたことだけど、もっとアイツの支えになれる何かを見つけたいという気持ちが騒ぐ。ある程度持っていると思っていた知識だってまだまだ足りないかも知れないと気付いていったんだ。


(日中一時支援っていうのがあったな。蓮のサポートをしてもらうことで、私の負担を減らすことも大事。実際私は家にいない時間が長いからな。障害者手帳があるならあれも受けられるはずだ。最近少し食欲落ちてきてるのが心配だし、もう少し様子見て必要そうだったら相談してみるか……)


 そうやって考えている間に会社の最寄駅へと近付いていく。そろそろ仕事モードに切り替えなくちゃならねぇ。考える時間が足りないのがもどかしい、けど、弱気になってる場合じゃねぇ……!



(しっかりしろ。あたしが大黒柱なんだ!)



 本当は両手で頰をパチンとやりたいところ。でも公衆の面前、それは抑えてあたしは停車した電車から外へ踏み出した。


 少し曇った空。変わりやすい夏の天候。いつ容赦のない雨が降り注いでもおかしくなさそうな。


 もうこっから先は誰にもわかってもらえないのが当たり前。誰にも弱音なんか零さないつもりだ。



 そんな覚悟を決めなくちゃいけないのにも、また理由があるんだよなぁ。この頃の会社での出来事を思い出して、あたしの口からほんの少しため息が出た。


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