5.届かなかった声(☆)
彼女の語り口調そのものは淡々としてたんだけど、わかりやすく明確で、臨場感もハンパなくて、あたしはあっという間に時を遡った。あたしの見たことのない過去へ。
――蓮――
――蓮……?――
――もう、またそんなところに隠れて――
『ごめんなさい、おかあさん』
クローゼットの扉が母親の手で優しく開かれる。暗闇に身を隠した少年へ差し込む光。
これは蓮がまだ声に不自由していなかった頃だ。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
生まれたばかりの弟を当時三歳の蓮はなかなか受け入れらなかった。対して蓮より二つ上の兄は率先して面倒を見ようとした。二人の少年の行動、成長には大きな差が見られた。
蓮も成長するに連れて自分から弟に近付くことがあったらしい。兄らしくしなければと思ったのか。
だけど長くは続かなかった。弟は長男の方に懐き、蓮とは距離が開いていった。
家族ともほとんど喋ることもなく、気が付けば一人離れたところで水槽の金魚ばかり眺めている蓮に、面倒見のいい長男もさすがに困り果てていた。
そして蓮が小学五年生の頃、ついに弟がこんなことを言ったのだ。
――蓮が神経質なせいでゲームも出来ないし友達も呼べない! あいつは好きな魚買ってもらってるのに、なんで俺ばっか我慢しなきゃなんないんだよ!!――
まさか本人が近くで聞いているとは思わなかったらしい。
リビングの向こう側で走り去る足音がしたそうだ。それで気付いたものの、弟はへそを曲げたままだったという。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
「私はこのとき自分の子育てを見直さなければと思いました。三人兄弟の中でも蓮は特に扱いが難しかった。物をねだったりする訳じゃないんですよ。我儘もほとんど言いません。時々一人でパニックになっていたんですけど、嫌とか怖いとか言うばかりで具体的な理由がわからなかったんです。私はそんな蓮が心配で、少しでも元気付けたくて、水槽を増やしたり魚の本を買ってあげていたんです」
「弟さんは寂しかったんでしょうか」
「ええ、きっと。末っ子は陸というんですけどね、幼い頃から相手の顔色や場の空気をよく感知できる子なんですよ。そして公平さを大切にしています。蓮はあの通り顔も女の子みたいで、ご近所さんや親戚にも可愛いがられることが多かったから、尚更ちやほやされているように見えたんでしょうね」
蓮が小五のときなら陸くんは小二か。
まぁ、無理もねぇだろうな。ちょうど遊びたい盛りだし、表面上は強がっててもまだまだ甘えたい年頃だったろう。
事あるごとに「お姉ちゃんなんだから」って言われてたあたしからすると、そういうパターンもあるのかってびっくりなんだけど。本当、家族っていろいろあんのな。
「だから私も考えたんです。魚たちの世話をするというのは蓮にとって欠かせない習慣になっていた。それはそれで良いのですが、この子はもっと外の世界を知らなければならない。協調性を覚えなければならない。陸が自由に遊べる時間も作ってあげなきゃ。悩んだ結果、蓮を子ども会に入会させました。小五からなので周りの子よりちょっと遅いんじゃないかとためらいはしたのですが……」
子ども会、か。もちろん声には出してないけど、蓮にとっては結構ハードルが高かったんじゃないかと思う。
だけどそれは現在の蓮しか知らないあたしだからこその感想なんだろう。他に二人も息子を抱えているんだ。実際兄弟の間で摩擦も起きてるとあっちゃ、調和を優先する判断になってもおかしくない。
集団行動なんて蓮にはつらかっただろうけど、もしあたしが親の立場だったら? 何が適切か一発で見抜く自信なんてさすがにない。
だけど意外な言葉が後に続く。
「それから蓮は随分変わりました。子ども会では低学年の子たちの面倒を見るいいお兄ちゃん役でした。中学に上がってからは時々OBとして顔を出してましたし、学校では生徒会役員も務めるようになったんです」
「えっ、そうなんですか……良かったですね!」
「私もそう思いました。この子もちゃんと協調性を持って生きていけるんだと安心しました」
そーかそーか、苦手を克服できたんだな。良かったな、蓮!
……って。
そんな都合のいい話じゃないだろうってことはさすがに予感してたよ。
だって本当に克服したんなら、今の状況と合わない。今のあいつは怯えるようにして生きているんだから。
「そして私は更に選択を誤ったんです。勉強は得意不得意が激しいけど、人から好かれる才はあるはずと期待しました。人の役に立つことが蓮の自信にもなると思ったから、あの子を立派な人格者に育てようとしたんです」
あたしの予感は的中した。
彼女が肩にぎゅっと力を入れたように見えた。
「もっとみんなの役に立ちなさい、困っている人がいたら手を貸してあげなさい、いじめられてる子がいたら助けてあげなさいって、そう、教えて……きたんです」
「…………っ」
彼女の声色の変化にあたしは目を見張る。
白く美しい顔は今、下を向いててよく見えない。かと言って覗き込むわけにもいかない。
だけどあたしにはわかった。
「馬鹿な母親よね、私。助けてほしかったのは蓮の方だったのに」
ガラスのテーブルを覆う繊細なレースの上へ、小さな光が舞い降りた。彼女が泣いているとわかった。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
それまで順調にやってきたように思われていた蓮がついに限界を迎えた。
高校二年の冬のこと。
蓮はインフルエンザで学校を休んでいた。やけに治りが遅いと母親は思ったらしい。熱は下がってきても頭痛や吐き気、胃腸の痛みなどなんらかの不調が続いていた。
そして休み始めてから二週間程経った頃に事件が起きた。
家族みんなが寝静まった深夜2時頃。
トイレに起きた母親はキッチンの照明がついていることに気付いた。
最初は消し忘れかと思ったけど違った。
――蓮?
そこにはパジャマを着た華奢な少年の姿があった。母の方へ背を向けて佇んでいた。
顔の前で何かを構えるような体勢、すぐに嫌な予感がしたそうだ。
足速に息子の元へ歩み寄った。
そこで母親は目にしたんだ。
ギラリと光る、鋭利な銀色の塊を。
――なに……してるの……?――
――やめなさい、蓮!!――
蓮が震える手で握っていた果物ナイフは、真っ直ぐ自分自身の喉に向けられていた。今まさに突き刺そうとした瞬間に母親が無我夢中で腕を押さえつけた。それは若干間に合わなくて数ミリほど刺さってしまった。まずこれが一つ目の傷だ。
『うあぁぁぁぁッッ!!』
母に止められたことに気付いた蓮は、首から血を流しながらも再び同じところを刺そうとした。普段の穏やかな声からは想像もつかない、荒れ狂う獣のような叫びが響き渡った。
――やめて、蓮! お願い、馬鹿なことしないで!!――
揉み合ううちに手元が狂って、蓮はパジャマごと自分の鎖骨の下あたりを切ってしまった。これが二つ目の傷。
必死にナイフを払い落とした母親もいつの間にか腕に切り傷を負っていたそうだ。
でもこのときの彼女はそれどころじゃなかった。蓮が突然脱力し、その場に崩れ落ちたからだ。
パジャマの胸元は血で染まっている。
致命傷を負ったと思った母親はいよいよ錯乱状態に陥って叫んだ。
――嫌、嫌ぁ……ッ! 蓮、目を開けて……!!――
これほどの騒ぎに他の家族が気付かないはずもなかった。
父親も兄弟も二階の寝室から駆け下りてきた。
真っ先に悲鳴を上げたのは陸くんだった。
――な、なんだよこれ、嘘だろ!?――
――京香、蓮、二人ともしっかりするんだ! 何故こんな……――
――あなた、私はいいから……蓮を助けて!――
それは父と兄弟たちにとって地獄絵図以外の何ものでもなかっただろう。
――待ってて、今救急車を呼ぶ。陸、大丈夫だからな。母さんも蓮も必ず助かるから――
冷静な長男は、恐怖のあまり泣き出した陸くんを抱き寄せながら、ちょうど近くにあった子機に手を伸ばした。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
こんな話、聞いているだけで戦慄する。あたしの視界はゆらゆらと滲み出す。
あの傷痕を見たときにまさかと思った。出会った日の夜みたいに、蓮自身が何か危ないことをした可能性を思い浮かべた。覚悟はしているつもりだった。
だけど今、あたしは、“覚悟”の意味そのものに疑問を感じている。いざ詳細を耳にすると、やるせなさの方が圧倒的に強いんだ。
「幸い、蓮の怪我は命に関わるものじゃありませんでした。身体の切り傷は骨に達していたけれど肺を傷付ける程ではなかったし、首の方も比較的浅い傷で喉の内部は無事でした」
「助かって本当に良かったです。蓮さんも、お母様も」
「ありがとう、葉月さん。私は大丈夫よ。今ではそんなに傷痕も目立たないし」
哀しげに微笑んだ彼女が無言で何かこちらに押しやってきた。
手作りだろうか? 生成りの布にレースがあしらわれたティッシュボックスだ。
「ずびまぜん……っ」
そうか、あたし泣いてたのか。情けねぇな。あたしなんかよりよほどつらい思いをした人が目の前にいるってのに。
ティッシュを取ろうとしてとき、ようやく自分がハンカチを持っていることを思い出した。慌てて懐から取り出そうとしたんだけど、彼女は構わずに使ってくれと言った。
「声帯も食道も無事だった。だけどあの子は声を失ったの。総合病院に搬送されてそのまま入院したんだけど、しばらくは誰とも口をきかなかった」
あたしが涙を拭い終えたところで彼女は言った。
暴れている最中、蓮は何やら不思議なことを叫んでいたんだと。
それはあたしにとっても予想外の内容だった。
「うるさい、うるさい、って何度も。最初は私に言ってるんだと思ったわ。でも違ったの。自分の声はうるさい、気持ち悪い、だから止める、もう要らないって、そう言っていたのよ」
「そん、な」
予想外だった。蓮はどうやら死のうとしていたのとは違うらしい。母親が止めなかったら死んでただろうけど、そんな判断もつかなくなるくらい何かに追い詰められていたんだ。
「いくらか落ち着いた頃に精神科の先生がおっしゃったの。蓮と筆談で話して聞き出した内容から分析をして下さった」
――今までどれだけの言葉を用いても正しく伝わったことがないそうです。だから蓮くんは自分の声を聞くのが嫌になった――
――お母さん、蓮くんが学校でどう過ごしていたか聞いていますか?――
――どうやらいじめがあったようですが――
――蓮くんは確かに大人しく見えるかも知れません。口数も少ないように思えたかも知れません。だけど本来は素直な子だ。自分を隠しておける性格でもないみたいなんです――
――彼は精一杯、助けを求めていたと思いますよ――
『届かない声なんて要らない』
高校時代の蓮が呟いた気がした。
虚ろな瞳に切り裂かれた身体、溢れる鮮血。生気を失い、暗闇の中でただ仰向けになっていることしか出来ない。そんなあまりにも哀しい幻想を見た。




