桜散りたまふ
新学年が始まりホームルームでクラスの生徒が自己紹介をするなんて話になった。今更などと思うんだけど、高校2年生になった俺達は、新たに成績を考慮したクラス分けを迎え普段馴染みのない奴等も何人かいたのだ。
まあ、正直どうでも良かったのだが反感を買う必要もない、ここは無難に挨拶を済ませておくのが正解だ。
自分の順番が巡り、腰掛けていた椅子から立ち上がった。春の心地良い風が教室の窓を通り抜けるのを肌で感じる。うん、爽やかな気分で話せそうだ。
「え~っと、木崎セリナです。名前で女の子によく間違えられますが健全な男の子なんで宜しく」
もう何度も女の子みたいな名前だと言われ少しウンザリしていた俺は自己紹介の度にこのセリフを繰り返している。
バンッ!
机を叩くような音がして俺を含めクラスの連中が振り向いた。その先にはやはり机に両手を付いた、ひとりの女生徒がいた。ロングの黒髪で色白の細っそりした体型の女生徒は鋭い眼差しで俺を睨みつけていた。
「あんたが木崎セリナなのねっ、成績が学年トップだからって威張らないでよ!」
ははあ~ん、なるほど、いるよね成績良いと悪人扱いする奴。俺とくに威張ってねーし
彼女の名は、柏木真琴、俺とは対照的な男みたいな名前だと、その時は思っただけなんだ。
担任に注意されたにも関わらずその後も柏木は、何かにつけて俺に絡んでくる。
それこそノートの取り方が几帳面過ぎるとか、消しゴムがステッドラなのが気に入らないとか、果ては弁当のオカズがバランス良すぎて腹が立つだとか、もはや言い掛かりでしか無い……
それでも柏木がクラスで浮いた存在にならなかったのは、見た目のおかげなんだろうと思う。黙っていれば間違いなく美人だと俺ですら思った。
「柏木っ、いい加減にしろよな、何か俺に恨みでもあるのかよ、お前みたいな奴、嫌いなんだよ!」
流石に俺も我慢の限界だ。文句のひとつも言いたくなる。
驚いた様子で俺を見つめる柏木の顔は、ひどく赤くなり、何も言わず席に戻って行った。
少し言い過ぎたかも知れないな、だけどこれで、もう近付いては来ないだろう。
次の日、柏木は学校を休んだ……
俺のせいだろうか? 関係無いよな。
清々するかと思っていた柏木のいない教室は、なぜか寂しく思えた。
思えば、この学年になってから俺はいつも柏木といた記憶しか無かったのだ。
あくる日の朝、教室に柏木がいるのを見て正直ホッとした。俺のせいで休んだんじゃないかと気にしていただけなんだと自分に言い聞かせた。
ただ、その日、柏木が俺にちょっかいを出して来る事は無かった。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると柏木が待っていた。何か文句でも言いに来たのだろうか?
そう構えていた俺に柏木は、一通の手紙を手渡した。家で読んで欲しい、とだけ言って歩き出した柏木は一度だけ振り返って俺の顔を見たのだが、後はそのまま急ぎ足で帰ってしまった。
なんなんだ一体、俺には訳が分からなかった。
家に帰り柏木に渡された手紙を開けた、気にならないと言えば嘘になるだろう。
さいわい挑戦状とは表に書かれていないな、ゆっくりと桜色の封筒の中の便箋を取り出した。
白い便箋には沢山の文字が書いてあり、俺は文面に眼を走らせた。
そこには、ごめんなさいと言う謝罪の文章が綴られていた。そして手紙を読み進めていく俺の手は、次第に震えた。
「ばっかやろう! 何でアイツは、言わなかったんだよ」
柏木がどうして俺に事あるごとに絡んできたのか、俺の言葉にあんなにショックを受けたのか、馬鹿は俺の方だ。何で気付いてやれなかったんだよ。体育だって何時も休んでいたじゃないかよ。
やり切れない想いで、俺は家を飛び出した。
学校に柏木の家を知っている奴がいるはずだ。
俺の頭に手紙の内容が思い出された……
木崎君へ
あなたに沢山の意地悪をしてごめんなさい。
威張ってるなんて言ってごめんなさい。
嫌な事ばかり言ってごめんなさい。
分かっていたけど、やっぱりあなたに嫌われてしまったね。本当は、木崎君の事は1年生の頃から知ってたんだ。
当時から学年1番だったあなたの事をずっと2番だった私が興味を持ったのがキッカケで友達に木崎君の事をいろいろ聞いてまわったんだ。
女の子みたいな名前で私の中の木崎君は、とてもなよなよしたイメージだったんだ。
初めて遠くから木崎君をみた私は結構ショックを受けたんだよ。背が高くて男らしくて笑った顔が幼くて、その日から木崎君はライバルから憧れの人に変わったんだ。
2年生になって木崎君と同じクラスだと分かった時、私は舞い上がって倒れて家族に心配掛けちゃったけど。
これは黙っておこうと思っていたんだけど私はあまり長く生きられないみたいなんだ。生まれつきの心臓疾患で確率の低い手術をしないとダメな所まで来てるみたい。
だったら私は、悪い子としてでも木崎君の記憶に残りたいと思ったんだ。だけど間違ってたみたい、ごめんなさい。
大好きな木崎君、どうか悪い私ごと忘れて下さい……
学校に向かった俺の目に涙が溢れて、嫌いだと言った自分に怒りがこみ上げて来る。
「謝るのは俺の方なんだ、柏木」
聞こえるはずも無いのに言葉がもれた。
辺りには人影も無く職員室に向おうと思った俺
の目に校庭の桜の木が飛び込んで来た。
「こんな事ってあるんだな」
偶然が俺を驚かせた……
帰ったはずの柏木が桜の木の下にいたのだ。
「木崎君、どうして……」
柏木の驚いた顔を見るのは2度目だった。
「柏木を探してたんだ、どうしても謝りたくて」
「えっ、謝るだなんて……私が悪いだけなのに」
「手紙読んだよ、酷いこと言ってごめん」
柏木は、一瞬、嬉しそうな顔をした後、悲しそうに眼を潤ませた。
「私、桜の花が好きなんだ、桜は花びらが散る時がいちばん綺麗なんだよ……」
柏木の言葉が痛いほど伝わった、残された時間は、少ないのだと恐らくわかっているのだろう。
もうずっと彼女は、そんな覚悟と付き合って来たんだと思った。
消えてしまいそうな体を思わず抱きしめると彼女は、震える手で俺の服をギュッと握りしめた。
「でも、やっぱり私は……死にたくないよ」
俺は、何も言えず、ただ彼女が泣き止むまでずっとそうしている事しか出来なかった……
日曜日の朝、俺は柏木と待ち合わせをした。
心臓の手術を受ける事を決意した柏木は、入院前に俺と出掛けたいと言ったのだ。それってデートじゃないのと聞いた俺に彼女は、そうとも言うかもねと赤くなった。
「じゃあ、今日は楽しまないとね」
彼女は黙って頷いた。まだ頬は、赤かった。
映画を観たり、食事をしたり、俺たちは普通のデートをした。お互いの時間を共有出来る、それだけでとても楽しかったのだ。
公園のベンチに座り、夕方まで桜を眺めた。陽も暮れて、帰る頃に俺は柏木に言った。
「なあ、治ったら、また、ふたりで桜を見に来よう」
「うん、じゃあ頑張らないとだね」
そう言って彼女は、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、なぜか俺の心に焼き付いた……
柏木の家族が見守る中、手術は、行われた。成功すれば執刀医の実績として高い評価を得られる程の難しい手術だと看護師に教えられた。
締め付けるような長い時が流れ、手術は成功に終わった。
しかし彼女の脈は弱り続け、やがて……小さな心臓は耐えきれずにその動きを止めたのだった……
慌ただしく、看護師が出入りする様子を俺は離れた所で茫然と見ている事しか出来なかった。
あれから10年が過ぎようとしている。様変わりした街の中、俺はただひとり公園を歩いていた。
ここだけは変わらない景色、ちょうど桜があの頃のように色を付けていた。
やわらかな陽射し、懐かしい思い出を春の風が運んで来るような気がして眼を細めた。
あの頃、彼女の為に俺が出来る事、そんな大袈裟な事じゃなく、ただ側にいてあげようと決めていた。
差し掛かった公園のベンチの前で足を止め、腰を下ろした。桜の花びらが、ひらひらと舞う様子はとても綺麗だった……
ーー 桜は散る時がいちばん綺麗なのよ ーー
不意な声に振り返ると、そこにはいくつか歳を重ねたけれど、変わらない嬉しそうな笑顔があった……
「遅れてごめんね」
あの日、奇跡的に鼓動を取り戻した心臓は、今も彼女の中で脈打っていた。
散りゆく桜は、また次の春に同じ姿を見せてくれる。
来年も、再来年も、その先も彼女と、この桜を見に来よう。そんなささやかな事がとても幸せに思えた……