壱の2 ―忘れたはずの記憶から―
壱の2 ―忘れたはずの記憶から―
目の前に立つ少女。今にも風で吹き飛ばされそうなその姿、そして、感じることのできない重さ。霊感なんて全く無い俺だけど、皆無と言っていい程無い俺だけど、それでも、目の前に立つ綺麗な少女は、紛れもない幽霊だった。
「えっ…と、幽霊?」
「はい。」
「名前は?」
「ある。」
「怪我は?」
「君が助けてくれたから無い。」
「というかダメージあるの?」
「一回大型トラックに轢かれたけど無事。」
「…。」
「…。」
しばし沈黙。水の音がサラサラと響く。すると、少女はおもむろに口を開き頭をぺこりと下げた。
「ともかくありがとう。」
にこりと微笑んだその笑顔は、どこかで見たことがあるような奇妙な感じがした。
「あの…どこかで会ったこと、あったか?」
「何のこと?」
どうやら勘違いだったようだ。しかし、その答えを聞いて何故か安心しているような、落胆しているような感情を持った俺自身に、俺はまた違和感を抱いた。
「助けてくれたお礼に自己紹介をするよ。私は翼。よろしくね!」
「翼…?」
その名前は、懐かしくて辛い記憶の象徴に思えた。胸がじくじくと痛みだす。
「…どうしたの?」
「いや、懐かしい名前だなと、思ってよ…。」
「そっかー!なら、何かしら縁があるのかもね!」
どうやら名前だけのようだ。あっけらかんとしているこの少女は、あいつじゃない。
「俺は冬人。よろしくな、翼…ちゃん。」
「翼でいいよー!」
「じゃあ…翼。一つ質問があるんだ。」
「なぁに?」
「俺は全く霊感とかは無いはずなんだが、どうして翼のことが見えているんだろうな。」
「うーん…。」
翼は、眉間にしわをキュッと寄せて、難しい顔をして考え始めた。そして、ピッタリ3分後。
「きっと偶然だよ!」
「なんじゃいそら」
ズルッと肩が落ちたのを見て、翼はくすくすと笑った。
「今日見えただけじゃ良く分からないね。明日も、明後日も、この先ずーっと私が見えるのなら、私と冬人は何かしらの縁があるってことだよ!きっと。」
腰に手を当て、俺の腰のあたりから俺を見上げて、翼は続けた。
「そしてその場合は、私は冬人に会うためにここに居たんじゃないかなって思うよ。」
その、純粋な光を宿した夕焼け色の瞳に見つめられて、俺の心臓はどくりと跳ねた。
「お、おう…。」
「ともかく、今日のこの出会いが偶然じゃないことを信じて、今日はお別れしましょう!明日もきっと会えると信じて!ね‼」
「…おう!」
その日は、翼に言われた通りそこで別れた。土手の芝生で昼寝をした。ぽかぽかと暖かかったけど、散歩中の犬に絡まれた。でも楽しかった。久し振りに。
日が暮れる少し前に、家に帰った。皿洗いをしないと真貴がうるさいから。
ザ――…と水が流れる音が台所に響いた。
「ただいまァ」
光希が帰ってきた。ちょうど皿洗いも終わったし、部屋にこもるとしよう。
「ん?なんだよクズ兄貴、珍しく仕事してんのかよ」
「おう。」
パタン…。
「今…あいつ返事した…?!」
青くなった光希の心情など、俺が知るはずもなかった。そんなことよりも、俺はとても久々に「明日」が楽しみに思えた。柄にもなくニヤニヤしながら、布団に横になると、スルスルと眠りに落ちた。
* * *
『…冬人、珍しく楽しそうじゃない。』
懐かしい声がした。暗闇の中、後ろを振り向くと腰まで伸びた黒髪の女性が背を向けて立っていた。
「…誰?」
『つれないことを言うね、君とは小さな頃から一緒だったじゃないか。』
そんなことを言われても分からないものは分からない、と言おうとした。その時、彼女はゆっくりと振り向いた。そして俺は、ぞくりと寒気が走った。
顔が、見えない。黒いもやに覆われて、誰なのか分からない。だけど、とても怖かった。
『顔が見えないのは当然のことさ。だって』
彼女は一瞬で間合いを詰めて、僕の耳元で呟いた。
『君自身が、私を思い出してくれないからさ。』
ドッと、冷や汗が噴き出す。暗闇から、白く細い腕がするすると伸びてきて、俺の体をつかんではどこかに引きずり込もうとしている。どこか?そんなのはすぐに分かった。
忘れたはずの、記憶の海だ…。
* * *
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
布団を跳ね除けて飛び起きた。ぐっしょりと汗をかいている。あの手の感触は生々しくて、未だ体のあちこちに残っていた。
「何だったんだ…。」
「冬人ー!?朝から何叫んでるの!早く出て来て朝ご飯食べて!」
「おう…。」
真貴のキンキン声で我に返った。いつもと、変わっていないはずの朝。俺だけが、変わり始めたように感じていた…。
冬人の記憶を、それに対する恐怖を上手く書けているか…うーん…。