第一話「呪い子」その二
あれこれと考えているうちに、ようやく母が戻ってきた。
「待たせてごめんなさい…………記録を見たわ。その、呪いについても。あなたは私の息子、なのね……確かにその黒い髪はあの人とそっくりだけれど……でも……」
母はまだ釈然としない様子だったが、これもいつものことだ。
「分かってもらえたようで何よりです。では中に入ってもいいですか?一応俺の部屋もあるので」
「え、ええ……どうぞ」
俺は遠慮なくずかずかと上がりこむと、自分の部屋に向かう。
「あ、あの」
背後から母が声を掛けてくる。
「ああお構いなく。俺は部屋で大人しくしてますので。あつかましいのですが、食事の時だけ呼んでいただけますか?」
「……分かったわ」
腑に落ちない、といった母の声を無視して俺は部屋に入る。自分の部屋、とは言ったものの中にはベッドと小さな棚しかない。あまり物を置いて生活感が溢れた部屋にしてしまうと、母が記憶を失ってここを見たときに、混乱するからだ。
俺は棚から一冊の辞書を取り出して、ベッドに腰を下ろした。
自分の呪いを知ってから、俺は人とほとんど話さなくなった。今日のように必要な説明をする以外では、話しかけられたときに一言二言返すだけだ。
なので俺は、自然と本に興味を持つようになった。一人で過ごすには、あまりにも一日が長かったからだ。
隣に同い年の子供、トッドがいたのは実に幸運だった。トッドが祖父に文字を教わっているのを横から覗いて、俺も一緒に学ぶことが出来たからだ。おかげで読み書きが出来るようになった。一度は母に教わろうかと思ったこともあったのだが、どこか冷たさを感じる母に頼みごとをするのは気が引けて、断念した。
文字が読めるようになってからは、俺は本の虜になった。本は俺を忘れないからだ。例え三日経っても、また最初から読まなければならないということはない。はさんである栞からページを開けば、続きから読むことが出来るのだ。当たり前のことなのだろうが、俺にはそれが嬉しかった。俺は片っ端から読み漁ろうとした。
しかし残念なことに、我がヴェルネイス家は裕福な家ではないし、母も読書家という訳ではなかったので、ある本といえば辞書と料理本の二冊だけだった。
「せめてもう一冊何かあればなぁ」
それでも、全く本を読まない母がどういうつもりで買ったのか、あるいは誰かからもらったのかは分からないが、そんな母が住む家で、二冊も本があるということは、俺にとってとてもありがたいことだった。他にある本といえば母の日記くらいだったが、さすがに人の日記を勝手に読む訳にはいかない。
いい加減辞書には飽きが来て、他の家から何か借りようとも思ったのだが、この村で文字を読める者は片手で数えられる程しかおらず、大抵の人間は、本など読む暇があるならば畑を耕せ、という考えの持ち主ばかりだったので、本を持っている家は少なかった。
結局俺が今までに読んだ本といえば、辞書に料理本、トッドの家にあった古い恋愛小説だけだ。今日も辞書をペラペラとめくり、言葉を覚えて時間を潰していると、母の呼ぶ声がしたので居間に向かった。
食卓にはパンに野菜の塩スープという、料理本が全く生かされていない質素なメニューが二人分並べられていた。しかし贅沢は言えない、この村ではどこの家でもこんなものなのだ。
俺は古い木の椅子に腰掛けると「いただきます」と一言だけ言って、スープをすすり始めた。 母は料理には口をつけず、先程から何か言いたそうにしている。
俺は見て見ぬ振りをして、黙々とパンをちぎっては頬張る。あと一口でスープも飲み終える、といったところで、母がおずおずと口を開いた。
「えっと……ずっとこうやって一緒に食べてきた、のよね?その、私が忘れてるだけで」
「そうですよ」
とだけ答え、俺は最後の一切れをスープに浸して口に放り込んだ。
「そ、そう……ところであなたはまだ十一歳、よね?妙に大人びた話し方をするのね」
「そうですか?まあ大体本で言葉を覚えましたので。それではごちそうさまでした」
俺は早々と食事を終えると席を立った。母はまだ何か言いたそうにしていたが、どうせ三日前と同じことを言うのだろうし、答えたところで三日後には忘れてしまうのだ。
「しばらく外にいます。夜には中に入ってちゃんと鍵をかけときますので」
俺は呼び止められないよう、わざと急いでドアを開け、外に出た。
外は夕日で真っ赤に染まっていた。この時間に外を出歩いている者は少ないため、俺は昼の間は自分の部屋で、夕方から夜にかけては外にある納屋の辺りで過ごすようにしていた。その方が母の戸惑っている姿を見ずに済むので、気が楽だからだ。母も気を遣わずに済むので楽だろう。実際ずっと外にいても、母から一度も何か言われたことはない。
その日もいつも通り、納屋の前で地面に文字や絵を書いて一人で遊んでいた。
俺が外で過ごすのにはもう一つ理由があった。この退屈な世界で、本以外の唯一の楽しみだ。
稀にだが、何の名物もないこんな辺境の村にも、旅人や行商人が訪れることがある。人との会話を苦痛にすら感じることもある俺だったが、彼らとの会話だけは例外だった。彼らは元々俺のことを知らないし、三日経つまでもなくこの村を去っていく。だから俺は何の気兼ねもなく、彼らとの会話を楽しむことが出来た。
早朝は母の畑仕事を手伝い、昼は知り合いに声を掛けられないよう家にこもり、日が暮れ始めてからは外に出て、彼らが来るのを待つ。それが俺の日常だった。
もう遠くに夜の境目が見え始めた。今日はもう誰も来ないかもしれない。諦めて家に入ろうとしたそのとき、ぬっと大きな影が俺を覆った。
顔を上げると、眼の前にぼろぼろの服、というのは控えめな表現の、布の塊を来た背の高い男が立っていた。俺は一目で旅人だと分かった。行商人はもっと身なりがいいからだ。
「やぁこんにちは。いや、もうこんばんは、かな?」
「迷ったときは、どうもとだけ言えばいいんですよ」
俺がそう答えると、旅人は一瞬驚いたような顔をしたあと、にこっと笑った。
「ははは、なるほどね。覚えておくよ。君は随分しっかりしてるね。文字まで書けるみたいだし。幾つだい?」
旅人は地面の落書きを見ながら言った。
「十一歳です。あなたは旅人さんですか?」
「お察しの通りさ。ここら辺に宿はないかい?安けりゃ言うことないね。安くて飯が旨けりゃなおいいね」
きょろきょろと旅人は辺りを見回した。しかし、あいにくここは小さな農村だ。そんな洒落たものはない。
「エナン村に宿はないですよ」
「ええ?参ったなぁ。ようやくカルミナ領に入ったから、やっと屋根と壁があるところで寝られると思ったのに……どこか近くに宿があるところはないかい?」
暗くなっていく空を見上げながら、旅人は俺に尋ねた。
「あっちに向かって一山越えたところに、ここより大きい町はありますけど、今から向かうのは危ないですよ。道が悪いらしいんです」
俺はこの村から出たことがないので、詳しくは知らないのだが、以前誰かが町へ作物を売りに行くときに転んで、大怪我をしたという話を聞いたことがあった。
「う〜ん、また野宿かぁ」
旅人が弱った声を出したので、俺は待ってましたとばかりに口を開いた。
「よかったらうちに泊まっていきませんか?」
「え?!それは凄く助かるけど……いいのかい?うちの人に聞いてみてくれる?」
母は父のことがあるからなのか、旅人に優しい。俺がこうやって家に誘って連れて来ても、嫌な顔をしたことがない。父の情報を持ってるかもしれないという期待もあるのかもしれない。
それでなくとも娯楽のないこの村では、よその人間の話はとても面白く、歓迎されるのだ。
「それはお困りでしょうね。部屋は空いてますので、今夜はゆっくり休んでいってください」
思った通り、母はすんなり旅人を受け入れてくれた。






