1時間目
とにかく嫌だった。ぼんやり見える母ちゃん役がオムツを取り換えている間、我が身に起きている何もかもが気に入らなかった。
抱き上げられていないこと(不安!)。背中が床に着いていること(孤独!!)。大股開きされていること(羞恥心!!!)。あと、なんだか頭のてっぺんが痒い気がする(なんかすべて嫌!!!!)ーー。
結果ーー、
泣いた。ギャーギャー泣いた。周りの赤ちゃんたちの凄まじい泣き声に触発されて負けじとさらに泣いた。涙腺大決壊で涙は止まらないし、そのせいで瞼も開かないからもう何も見えない。その間もずっと尻の下でごそごそされている。
くそう、こんなに赤ちゃんが抱っこせよと号泣しているのにまだオムツをどうかしようと思うな!この女!!ーー。
とにかく動かせる手足を動かせる範囲でわちゃわちゃ動かし続けた。オムツなんてどうでもいい。一刻も早くとにかくあの柔らかい胸に飛び込みたい。早く早く温めてほしい。
「ちょっと待ってね。すこし冷たいので拭くからね、びっくりしないでね」
赤ちゃんたちの号泣と嗚咽の間に、母ちゃん役が何か言ったようだが意味ある言葉としては耳に入ってこなかった。なんせ涙の抗議と文句でこっちも忙しいのだ。ただ、文句替わりのパンチもキックも空を切るばかりで、一発もヒットしなかったが。
ひやり、突然おまたに冷たい感触を感じた。同時に思考がスパークして頭が真っ白になった、刹那、うわっと戦慄する。
な、に、いまの?冷たかった。冷たかったよ?み、水?浸水してるとか?浸水、身動きとれない体、浸かる、溺れる、死!いや、死んでる、でも苦しい?嫌!!!!ーー。
ギイヤー、ギャビー、それまでの五割増しで絶叫した。
助けて!助けてください!!苦しい?!なんか苦しくなってきた!!迫ってる!?水がそこまで!もう終わりだ!!!絶叫の合間にげえ、げえ、この苦しさをアピールする。
おい、いいのか、赤ちゃんがもうじきドザエモンになるぞ!死んじゃうぞ!!いや、死んでるんだが。お前、それでも人間なのか!はっ、こいつ人間なのか!?母ちゃん役とか言ってっけど、信用ならん!!とっとにかく、助けてくれい!後生だから!ーー。
「どしたの?泣きすぎてえづいちゃったの?大丈夫?大袈裟なんだから、もう終わったよ」
ひょいと抱き上げられると、ふわあっと安堵感に包まれる。すっと涙も引いて目も開けられるし、母ちゃん役は笑ってる。たゆたうおっぱいの感触に満足しながら、なんであんなに泣いたのか自分でも現金なものだがニヤニヤ笑ってしまう。
「あら、可愛い。笑ってるの?うれしいの?じゃあもっとぎゅうしちゃおう」
母ちゃん役はそう言うと、おっぱいにぎゅうして頭をよしよし撫でてくれた。
なんだよ、よしてくれよ。そういうことされる年齢じゃないんだ。いや、まあ無理には止めねーけど。頭ナデナデとか女子がすきなやつじゃねーか。……ふうん、なかなか気持ちのいいもんだな。ほうほうーー。
ニヤニヤ笑いが引っ込まず、されるがままさせていると、
『はい、じゃあ一回赤ちゃん下ろしてください』
ハスキー女が無責任にも最悪な一言を放ちやがった。
母ちゃん役の手が頭と尻にすっと添えられ、こわれものを置くように床に近付けていく。
おい、止めろ!それだけは止めてくれよ!!嫌だ嫌だ離しちゃ嫌だ!!!ーー。
体が強ばる。口元はひきつりニヤニヤ笑みも消えた。両目を見開いて母ちゃん役に必死に哀願の念を送る。
「オ・レ」のリズムで手を二度パンパンと叩く音がすると、体操選手のようにさっと床に降り立つことができた。もちろん自分の足で。気持ちも安定してるし、不安なこともない。とりわけハッピーではないが、絶望感もない。
「なんか、すんません」
今までの自分のリアクションのでかさに照れて、首をふるふるしてからてへへと鼻を掻いた。
それに喋れる!動ける!ビバ日本語!!ビバ動ける体!!ビバ自分!!さよなら赤ちゃん!!!いや、体は赤ちゃんなんだが、小さいことはまあよろしい。
周りを見回す余裕もできてくると、みんな、てへてへ恥ずかしそうに半笑いでどこかしか掻いている。うん、気持ち解るよ。
『どうでしたか?赤ちゃん体験は?みんなはこれから生後だいたい6ヶ月までの体験、予習をしていくことになります。こんな感じで、今のは1時間目ってとこね、まずはオムツ換え。オムツ換えもね、やっておくと覚えているかもしれない。覚えていてマイナスなことはないわ。ただ、みんな違うことに意識がいってたみたいだけど。大丈夫、いまの感情面は転生後に覚えていることはないから』
赤ちゃんの予習?ーー。
『赤ちゃんは無知で予備知識なんて何にもないまま、誕生していると思っていませんでしたか?いやいや、そんな無責任なことはしません。可哀想です。確かにここで習ったこと、ここのこと、すべて100%覚えている赤ちゃんは居ないでしょう。でも、平均二、三割、中には五割程度習ったことを覚えている赤ちゃんもいます。すべて忘れた真っ白なんて赤ちゃんはまず居ないんですよ』
赤ちゃんに生まれ変わるためーー。
『ただ、皆さん勘違いしないでくださいね。さっき感情面は覚えていないと言いましたがそれはもちろん、転生後の人格、性格、すべて、いまの皆さんのものじゃありません。もちろん新しく生まれる赤ちゃんのものです。皆さんは記憶を繋ぐバトンの一端を担っているだけ。まあ、この記憶も誕生6ヶ月過ぎると消滅していくんですが。皆さんも自身が誕生したときにはバトンを受け取ったんです。こんどは渡す側で責任を果たしましょうね』
転生て、そんなんなのか。バトンの一端を担うだけ。感情も人格もなんて。なんだよ、自分、ちょっとも入る余地ないんだ。じゃあ、あんまり関係なくないすか?ーー。
『皆さん、一生懸命がんばりましょうね。及第点を取れなかった赤ちゃんは今まで1人もいませんでしたが、もしものときは、そこでバトンは途絶えます。そしてその張本人は私の権限で、地獄に落とします』
こわっ!地獄とか急に!!やめてよ!!ゼウスすか?ーー。
見上げたハスキー美女の顔の下に本当の顔が透けて見えた気がした。恐ろしすぎて、赤ちゃんたちにどよめきすら起こらなかった。ただ息をのみ、誰かのオムツの中でショーっと同情する音が漏れ聞こえてきた。いや、自分のかもしれない。