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3式駆逐戦車奮迅録

 始まりは1939年のノモンハン戦の後であった。この戦いに戦略的な意味で敗北した日本軍参謀本部は、機械化部隊のさらなる増強の必要性を認めることとなる。その中でも戦車戦力の増強の必要性は格段に上昇するというのが大方の見解であった。その予想はおよそ半年後に発生したソ連とフィンランドとの間に勃発した冬戦争やドイツの西方電撃戦、アフリカでの戦い、そして1941年に勃発した独ソ戦などの先頭に置いて行われた戦車戦闘によって確信に変わった。


 アフリカでのロンメル軍団のクルーセイダー作戦後の大規模後退の背景の一つにはアメリカからの大量の物資支援があったことが駐独大使館や駐英大使館からの情報で確実であった。その中にはアメリカ製のM3スチュアート戦車があったことも大きいだろう。少なくともこいつは日本の戦車より性能は上であるというのが情報部の見方であった。それはフィリピン戦線や南方戦線で現実になるのだが、兎にも角にも今や日進月歩名進化を続ける戦車の開発は愁眉の的であったといえる。参謀本部は取り敢えずということで97式戦車の57ミリ短身砲から47ミリ長身砲への換装を指示した物の、それだけでは不十分であることは明確であった。そう、新型戦車を作らねばならなかった。でも金も時間もすごくかかることは間違いない。大体97式戦車だって一台あたりのお値段が15万円もするのだ(なお、ゼロ戦一機辺りのお値段は大体3万円くらい)からすごくお高い。後、エンジン作るのもいちいち手間がかかって仕方がない。それに、新型戦車つったって設計、開発には相応の時間だってかかる。まず間違いなく車体は大型化するし、その出力に見合ったエンジンも新たに開発せねばならない。そんなわけで、97式を強化したバージョンとして1式戦車の開発が行われることになった物の、足回りや戦争準備と開戦に伴うごたごたで開発は遅々として進まなかった。


 これに陸軍上層部は焦った。「マレーじゃ動けなくなった戦車一台にこちらの戦車中隊が全滅したんだぞ!」「これじゃ戦車じゃないくてキャタピラーと豆鉄砲が付いただけのおもちゃよ!」「だったら投げればいいだろ!」「俺らにとっての最強の戦車はぶんどったM3軽戦車だな」等々の前線部隊からの苦情が連日のようにメールボックスに投稿されていたからだ。もうとにかくなんでもいいから、さっさと米英の戦車をぶっ壊せる戦車を作れ!後重いのダメだから軽めに!という無茶苦茶な注文を開発陣に押しつけることとなった。これは酷い。


 この難問にある福井は敦賀にある小さな飛行機会社が手を上げた。その名を北陸飛行機という。副業として乗用車のシャーシの生産を行っていたこの会社の社長である畠山は「陸軍のお仕事をゲットできるチャンス!」と意気込み、取り敢えず技術主任である戸田らと共に戦車の開発を意欲的に行うことにした。


 畠山が元にしたのはかつて日本がノモンハンで分捕ったソ連のBT5であった。これはクリスティー戦車の系譜の初期にあたり、量産&走行性、故障に強いという多くの強みを有していた。ということで「これをモデルにドイツの三号突撃砲ッぽい物を作ってみよう!」ということで靖国神社で展示されていた物を夜な夜な社員達と共にこっそり忍び込んで車体の寸法や足回りの構造の調査、サスペンション部品をかっぱらったりして少しずつ作り上げた。もちろん国からの許可は全く下りていない。それでも畠山達は自分たちが持つ伊達と酔狂とノウハウとコネをフル稼働させて戦車の開発に邁進した。


車体は被弾率を下げることとコスト削減のために極力小型化し、足回りはクリスティー式とし、さらにエンジンは定格が落ちていらねえといわれた海軍の寿エンジン(400馬力)をつかい、さらに大砲にはやっぱり保管されていた38式75ミリ砲を採用。近接戦闘には7.7ミリで十分だと判断した。そして車体上部は勘の居るリベットではなく、溶接で止めることにし、前面を傾斜装甲とした。その結果、なんかこんな感じになった。


試作駆逐戦車 要目


全長6,2メートル  31口径75ミリ砲1

全幅4,8メートル  7.7ミリ機銃1

全高1.7メートル  正面装甲:42ミリ

全重量14トン

速力38キロ


 外見上は、ヘッツアー(短身砲)的な感じになった。第一号車のロールアウトは1943年12月。さらにこっそり試験などをした後、陸軍に「こんなんできたんだけど、どうよ?」と取り敢えず見せてみることにした。当初は「勝手に戦車なんて作りやがって!」と憤慨していた陸軍上層部であったが、その性能に触れてみると、完全に惚れ込むこととなった。

 というのも、当時日本の戦車開発は三菱と日立が主に行っていたのだが、1式戦車や3式戦車その他の開発に手間取っており、肝心の戦車の量産も今いちであったため、陸軍上層部は新型戦車の1943年中の開発は半ば不可能であると考えていたのである。しかし、この北陸の小さな会社が伊達と酔狂によって作り上げたこの戦車は列強の戦車とも(なんとか)まともに戦えそうなものであった。当然三菱は反発したが、顧客的には「それはお前らがマトモな代物を作ってからにしろよ」ということで一顧だにすることはなかった。お陰で切れた三菱はしゃかりきになって4式、5式戦車の開発に邁進していくことになる。

 量産性が高くて計量。旧式とはいえ、日本軍の主力砲である38式の物を利用したことも補給の効率化などでプラス材料となった。不足していると思われる対戦車火力ではあったが、41式山砲用に開発されたタ弾(成形型炸薬)を元に開発した物を用いればぶち抜けると判断された。


これは・・・逝ける!


 そう確信した陸軍参謀本部は、北陸飛行機並びに日立自動車、日産などにこの戦車の量産を命じた。と同時にいつまでたっても完成しない一色の開発は停止するよう命令を出した。そして同時にこの駆逐戦車は3式駆逐戦車と命名されると同時に大東亜決戦戦車と銘打たれて全戦車部隊に配属するように命令を出した。


 かくして、三式駆逐戦車の生産が開始されることとなった。とは言っても、量産自体はそう簡単にできる物ではない、例えそれが戦時であったとしてもである。まずラインを組み、工員を用意しなければならない、そして資材や部品の発注・・・ただでさえ戦時中であり電車のダイヤや船の入港時間が滅茶苦茶であるこの時期、量産ラインを組み立てるだけでもテンテコ舞であった。かくしてようやく量産一号車が完成したのが1944年の6月であった。それでも当時の日本としてはかなり早い。

 とはいえ、このままでは不味いことに変わりなかった。すでにマリアナは落ち、米軍の手はフィリピンに迫っているし、ビルマでもムッチー率いる第15軍のインパール攻略作戦は失敗している。お陰でイギリス軍も反撃をぼつぼつ始めているのが現実である。これはヤバイのでさっさと前線にこの戦車を送り届けなければならなかった。




1944年12月20日 サイゴン


 サイゴンは南部仏印に位置し、後にホーチミンと改称されベトナムの首都となっている。仏蘭西にとっての広州と並んでアジア支配の拠点の一つとして機能していた。しかし、戦争勃発後、日本によって占領された今は、日本軍にとっての東南アジア進出の重要な拠点であった。この日、港に一つの船団が入港してきた。レイテ海戦に敗北し、バシー海峡周辺に米軍の潜水艦部隊がうろうろしている昨今、大規模な船団が入港できるというのは奇跡に近いことであった。大型の貨物船が4隻に回送用タンカーが2隻・・・この時代にしては非常に有力な船団であった。


 船団はボチボチと桟橋にて荷下ろしを始めた。ラッタルから鉄砲を背負った将兵達が下りてきて、ジブクレーンを用いてトラックや三式駆逐戦車が降ろされ始める。その様子を、陸軍独立戦車第106旅団長の相沢三郎少将が遠い目をしながら見つめていた。


 独立戦車旅団とは、この時期日本陸軍において数多く編成された機甲部隊である。戦車一個連隊に機動歩兵一個大隊を基幹とした機動部隊である。当時の日本軍の戦車連隊の一個連隊辺りの編成は2個中隊から3個中隊50両前後。場合によっては100両近い車両定数を確保している部隊も居るがそれは例外と見た方が良いだろう。諸外国で言う大隊規模の戦力しか有していなかったのである。いや、場合によってはそれ以下であろう。何しろ基礎工業力が違う。需要に対して補充能力が十分でなかったため、多くの場合その定数を満たすことは難しかった。

 当時日本が編成していた機甲師団は戦車数個連隊に機動歩兵連隊・・・いうなれば自動車化歩兵を装備していた。が、先に言ったとおり日本ではトラックの生産能力も低かったため、十分な数が確保できない。そもそも戦車部隊は膨大な補給部隊が居て初めて運用できるのである。だが、機動歩兵連隊を編成できるほどのトラックは準備できない・・・だからこそ数個中隊規模の部隊が編成できるだけのトラックをかき集め、それを元に独立機動歩兵大隊を編成した。こうして編成されたのがこの独立戦車旅団であった。言うなればミニ戦車師団といった方が良いだろう。これなら下手な師団以上に小回りがきいて編成上使いやすくもなると言うことで当時の日本ではおよそ既存の部隊や新設の部隊を含めて計12個旅団が編成された。この独立戦車第106旅団もその一つであった。この部隊には三式駆逐戦車の1個中隊12両に95式戦車1個中隊12両、95式戦車を改良して120ミリ溜弾砲を装備した4式砲戦車が8両装備された一個中隊が編成された。これに機動歩兵3個中隊からなる大隊が編入されていた。とはいえ、これで到着したのは第一陣の三式駆逐戦車の一個中隊11両と4式砲戦車中隊、それに整備中隊と機動歩兵2個中隊(後通信一個小隊)でしかなく、戦力としては不十分であった。


「全く、十分とはいえないな・・・」


「仕方ありませんよ。そもそも潜水艦の攻撃を受けずにやってきたこと自体がある意味奇跡みたいな物ですからね・・・」


戦車第48連隊長の藤村亮輔中佐は諦めたように頭を振った。


「これから、鉄道を使ってタイを経由してビルマ入りか・・北部はもう危ないらしいな。」


「ええ、途中のトングーまでですね。そこで第33軍と合流する手はずになっています。」


「トングーまで行けるのかも問題だが・・・」


「命令である以上仕方がないでしょう。」


「そうだ・・・な」


藤村の言葉に相沢は深い溜息をついたのだった。

かくして相沢率いる独立戦車第106旅団はサイゴンより鉄道によってタイに入った後、対面鉄道に乗りかえることになったのだが、当時のこの辺りの鉄道はゲリラの襲撃や空襲、頻発する脱線事故などによってダイヤが乱れに乱れていた。そのため106旅団主力は一時タイとビルマの国境に近いバンボンにて足止めを食らうこととなった。しかしそれが意外な結果をもたらした。後続の輸送船からの弾薬や、シンガポールから輸送された燃料を受け取ることが出来たからだ。これによって第106旅団はその機動力を手に入れることが出来たのだった。その後、ようやく鉄道に載せ替えられた旅団は数日間を掛けて鉄道で輸送され、国境にある町、タンビュヤサトに入ったのが1945年1月20日のことであった。

 

 この頃、ビルマ戦線は風雲急を告げていた。イワラジ会戦に敗北しつつあり、要衝たるマンダレーが陥落しつつあったのだ。これに対してビルマ方面軍参謀長の田中中将は弾力性のある作戦が必要であるとしてなおも積極的な作戦指導を行おうとしていたが、すでに現地に展開している第15,33,28軍のいずれもそんな戦力は残っていなかった・・・いや、一つだけあった。106旅団である。が、こいつらもまだ前線に到着しているわけではなかった。

 2月23日、第106旅団は前線に近い補給拠点であるメイクテーラに到着し、補給を受け、前線に出る準備をしていた。そこで一本の急報が飛び込んでくることとなった。


『戦車、自動貨車およそ2000両がメイクテーラ方面に進撃中!』


これに驚いたのは相沢であった。ここにいるのは自分の旅団を除けば輜重部隊や傷病兵ばかりであった。マトモなのは1000人ほどでしかない。ただ、幸運なことは物資集積拠点だけに砲弾がたんまりあることであった。砲兵も充実していたことが相沢達にとっての幸運であった。


「どうしますかい?」


「決まっている。ここで俺達で何とか食い止めるんだ。」


「死んで英雄になんてなりたくないですな。できれば、生きて帰りたい物です。」


「・・・俺もだ。今更死ぬきになんてなれん」


ノモンハンから生きて帰り、その後も辛酸をなめて生き延びた藤村の言葉に相沢は苦笑いをしつつ言った。

この時、彼の頭の中にはおよそ10年ほど前に出会ったある海軍士官の姿が浮かんでいた。


数十分後、メイクテーラの相沢からミッタの作戦司令部に対して一本の電文が発せられた。


『我、此ヨリメイクテーラノ防衛ヲ指揮ス』


ちなみにこの時、すでに第15軍は第18師団、第49師団にメイクテーラへの造園を決定していたが、機動力を欠く日本軍は兵力の輸送にかなりの時間を要し、とてもじゃないがイギリス軍のメイクテーラ攻撃に間に合いそうもなかった。


さて、メイクテーラに攻撃を掛けたのは、インド第17師団および第255戦車旅団であった。戦車部隊は名称こそ旅団であるが、イギリス軍の戦車旅団の定数はおおよそ100両前後であり、とてもじゃないが日本の戦車旅団にとってはまるで勝負にならない数であった。

 しかし、藤村達には勝利こそ難しいがある程度戦えるだけの自信はあった。三式駆逐戦車の特性を存分に生かした待ち伏せ戦闘であった。


「いいか!俺達の戦車の車高は低い!ついでに言えば戦車は道路状態から街道沿いからそうはなれられんからな!俺達は街道沿いのジャングルに隠れて敵の側面を狙う。なお、正面はメイクテーラノ砲兵部隊と砲戦車部隊に任せる。」


そして3月1日、イギリス軍はメイクテーラに総攻撃を仕掛けた。まず手始めに第255戦車旅団が突撃を開始した。しかし、そこには息を殺して隠れていた第106旅団の戦車部隊と現地に隠れていた方兵隊が手ぐすね引いて待ち構えていたのだ。


突然、砲撃の音と共に戦闘を突っ切って走っていたM3リーが煙を上げて停止した。何事かとうろたえていると次々と砲撃を受けた戦車が停止していく。さらに後続の歩兵部隊に対しても4式砲戦車からの120ミリ砲による砲撃が開始され、兵士達をミンチに変えていった。さらに足を止めた戦車に日本兵達瓦わらと忍び寄ってきて火炎瓶や手榴弾、地雷を投げつけ、撃破していった。

 この攻撃で第255旅団は一度に22両もの戦車を損耗し、慌てて後退した。かれらはここに日本軍の戦車部隊が展開しているという情報を受け取っていなかったのだ。


 これによって出鼻をくじかれたイギリス軍はメイクテーラにいた部隊を過大評価し、戦車部隊の他に師団規模の敵が居ると考え、直ちに造園としてインド第5師団を呼び寄せると共に、腰を据えての戦闘を決意させた。尤も、別に此はイギリス軍にとっては困る物でもない。なにしろ主戦戦であるイワラジから敵部隊をこちらに引きつけることが出来るからだ。


 その後、相沢の指揮するメイクテーラ守備隊はイギリス軍部隊と一進一退の攻防戦を続けることとなった。車高が低く、それなりに火力のある三式駆逐戦車はイギリス軍の戦車部隊に対しても歩兵部隊に対しても有効な戦力であった。それでも、当初の数が違いすぎたこともあって、三式駆逐戦車は次々と損耗していった。


そして3月10日に第18師団が東飛行場に到着。すでに3000人ほどにまで激減した守備隊と手を結ぶことが出来た。この時手元にあった三式駆逐戦車は僅かに2両にまで激減していた。その後第106旅団とメイクテーラにいた部隊は第18師団と共に戦闘を続けることとなった。その後あらたに第49師団が到着し、そして遅れて到着した第33軍司令部の指揮の下、106旅団はメイクテーラ防衛に当たったが、イワラジ川をイギリス軍が突破したことを受けて第33軍はこの方面の防衛が無意味な物として後退を開始。そこで第106旅団と三式駆逐戦車(修理によって稼働車両は4両に回復していた)は殿として第33軍の後退を支えた。

 この際にも三式駆逐戦車はその実力を生かし、多くの的戦車を撃破し、追いすがるイギリス軍を食い止め続け、見方からは救いの神扱いされ、イギリス軍からは手強い敵として認識された。「この功績からホニ1を上回って「大戦中もっとも多くの連合軍戦車を撃破し得た日本戦車」として戦史に記されることとなった。


 その後、トングーに入った頃には稼働車両は全損し、106旅団は消耗しきった歩兵部隊として運用されていた。そして、ビルマにいた日本軍が降伏したときには、第106旅団は兵員273名にまで消耗してしまった。


 なお、こうして第106旅団は奮闘し、戦史にその名を残したわけであるが、他の部隊はどうだったのかというと、実は他は武勲に恵まれることはなかったのだ。この部隊のサイゴン輸送に前後して、実は他に三式駆逐船社を装備した第102旅団と第105旅団がフィリピンに輸送されることになっていたのだが、第102旅団は油送船が沈められてしまい、人員だけが何とか半数だけ上陸できたため、消耗した歩兵として戦う羽目となって壊滅し、105旅団は何とか台湾までやってきた物のそこで船が無くなってしまったのでそのまま台湾防衛部隊に組み込まれちまって活躍することはなかった。ちなみに第105旅団には本来106旅団に配備される予定で船に乗せられて台湾に来ていた第106旅団所属の95式戦車中隊と機動歩兵大隊の主力が編入されていたりするのだが、あくまでそれは蛇足である。


 相沢はその後藤村と共に捕虜収容所にて生活した後復員し、ある元海軍士官がやっている海運外車に入社し、役員として勤務したあと、その子会社に当たる自動車運送会社の社長に就任し、戦後の復興作業に当たった。


 なお、かつて戦車学校があった富士の裾野にある神社には、ビルマから帰ってきた三式駆逐戦車がそのズタボロになった姿で展示されていたりする。 


 ああ、そうそう。ちなみにこいつを開発した北陸飛行機はその後北陸自動車産業と名前を変えてトラックのシャーシやら何やらを作っているらしい。ということで、大変短いこのお話を終えるとしよう。


皆様こんにちは

今回も山口様の企画に参加させていただくことになりました。今回はいつも以上に短めです。いや~、速吸を手に入れるので苦戦してまして・・・できればイタリア駆逐艦は手に入れたいですね(白目)

今回は決戦兵器と言うことでかなり悩みました。最初は和製パンツアーファウストみたいなものを思い浮かべたのですが、なんか微妙でしたので戦車にしました。当時の日本では拙作の別府造船でも取り上げていますがインフラが非常に貧弱でした。アスファルトの舗装道路なんてマトモにないですし、1万トン級の船が入れる港だってとても少なかったのです。ですので、戦車は必然的にとても軽い物が必要となりました。日本が戦車開発で苦しんだのもそこが大きいでしょう

ということで、今回はとても軽くて安くて使いやすいヘッツアーの日本版を作ってみることにしました。此も最初は満州で戦わそうと思ったのですが、ソ連との戦車戦は結構あったりしますので、だったらビルマだったらどうかと考えてみたのです。フィリピンですと補給も途絶しますし悲惨ですしね・・が、結局こんな感じの壊滅エンドになってしまいました・・・

やっぱりこの時期ですとクソゲーモードなのでとてもじゃないですがあまり華々しい戦果を上げて大逆転を行うことは無理だったと言うことですね。

今度は、此をベースにもっとまともな戦記を書きたいと思います。

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