◆絶望アナウンス
意識が消失した暗闇の中で、一週間ぶりにその声が響いた。
『我々がこの一週間で出来たことと言えば、プレイヤーのIPアドレスからプロバイダを割り出し、ホスト局へアクセスして住所を調べあげたことと、そこに居た計七二名のプレイヤーを保護したことくらいだ』
カノーの声はもう落ち着いている。このゲームに居るほうがずっと長いのに、随分と懐かしい声に感じられた。
何も見えない世界で、ただひとつの細い糸足りえるカノーの声が、絶望だけを垂れ流す。
どこかわからないが、周囲に僕と似たような存在の気配を感じた。彼らも同じく、カノーの言葉に耳を傾けているようだった。息遣いと、気配だけ。存在を感じられる、唯一の情報。
『あいも変わらず不眠不休で非効率ながら、環境の改善を図っている。だがバグの根本的な原因がわからない。どこからかウイルスが流れたか、あるいはもっと単純で複雑なバグかさえ判断がついていないのが現状だ』
僕は言った。僕だけがまともに受け答えできていた。どこか他人ごと――だからではない。自分のことだから、仲間のことだから、知らなければならないことだから。
「僕らの身体は、どこにあるんです?」
僕の言葉に、カノーは静かに答える
『装置を装着したまま、つまりゲームを継続したまま病院だ。命は保証する。命だけだ、我々が保証できるのは。入院費から治療費も保証するが、それ以上の事はまだわからない』
「……つまり?」
『君たちデバッカーはゲーム内でバグを捜索して欲しい。些細なものでも構わない。我々に、君たちの時間をくれないか』
諦観を催して吐き出すような言葉。だけれどまだ諦めきれないからこそ告げる強要する頼み事。
「どれくらい、でしょうか」
僕の声は、微かに震えていた。
『多く見積もって二年。前後する可能性もある』
――絶望アナウンス。不意にクライスの言葉が蘇る。
『そして最悪の状況も考えて欲しい』
「再起動した時、僕らの意識は?」
『医師によると、覚醒状態……つまり元の状態に戻りかけたそうだ。微かだが、な。それ以上になる可能性もあるし、そのまま意識が蘇らない可能性もある。それでも我々は、永久的なゲームの停止を最終手段にしている』
「そうですか」
つまりダメだったらゲームを消して逃げる。意識が蘇るかどうかは各人次第で、そこまでを保証しない。
カノーは大人だった。卑劣で卑怯で、それでもどうしようもなくゲームを愛している真っ直ぐな大人だった。こんなゲームは早く消したいけれど、プレイヤーが居る限り終わらせることは出来ない。
彼らを助けなければならない。それはこのゲームを作り出した彼だからこそ、強い想いを抱く。
「お願いがあります」
二年でも三年でもくれてやろう。だがその代わり、と僕は言った。
「バグなら発見しますし、ツールがあれば自力で修正します。だからずっと、アップデートを繰り返してください。人はいずれ飽きる。飽きたゲームは苦痛でしか無い。それでも人生を生きるように、僕たちがシブヤで生きているような世界を」
僕の言葉に、カノーは少しの間を開けた。彼の中には無かった考えだったようだ。
ややあってから、彼は答える。
『了解だ。まずは、何が欲しい?』
「各種銘柄のタバコと、精神安定剤となるような甘いアメ。ガムでもいい。それに僕は、全く無機質なパートナーでもあればいい、と思います。アバターが居る、各人だけのホーム。僕たちが唯一安心できる場所を」
『最後のは難しいが……了解した。最初の二つは明日にでも追加する』
「ありがとうございます」
『また状況が変わったら連絡する。君たちに幸運を』
ボイスチャットが切れた。
同時に、プツン、と闇が裂けたような感覚があった。
僕の意識が全身に蘇る。身体の存在が、意識より先に神経を刺激した。
僕はゆっくりと目を開ける。
広がっていたのは、雑然としたシブヤだった。
言われた通り病院の天井でもなければ、リアルとは打って変わって健康なこの身体がある。
いつもの場所に座っていた僕たちは、いつものように世界を眺めていた。
ちら、と右隣を見る。唖然として、タミヤはマルキューのビルを見上げていた。左隣を見て、大きく嘆息したクライスがあった。
――あの絶望アナウンスは僕だけのものにした。
下手に希望を垣間見せる絶望は人を壊す。ならば深淵の中で、ゆるやかに朽ちていく方がよっぽどいい。
だから僕は、なんでもないようにこう言った。
「きっと戻れるよ」
白々しい笑顔はこんな時に役に立つ。僕はきっと、こんな未来を知ってこの笑顔を張り付ける練習をしていたのかもしれない。下手くそな冗談に、クソ真面目なオーバーリアクションは、僕を取るに足らない人間にしてくれた。縋るでもなく、縋られるでもない、ただの人に。
隣のタミヤは泣きじゃくっている。嗚咽を押し殺して、両手で顔を抑えて俯いている。僕には、掛ける言葉が見つからなかった。
隣のクライスは一層疲れた顔をしていた。タバコがあればふかしていただろうが、今は明日までお預けだ。
その中で、笑顔なのは僕だけ。それでも、それでいいんだ。みんな泣いてしまったら、それこそ覆せない絶望アナウンスになる。
絶望アナウンスは公式がきっかけを作り、人々が増幅させてスピーカーになる。絶望を重ねて人は自壊する。僕はそんな未来を現実にするつもりは毛頭なかった。
「いつか、きっと」
言葉に説得力はいらない。耳障りの良い、漫然とした落ち着く台詞。希望しか無い、眩しすぎる薄っぺらい小洒落たミラーコートみたいな声が、今は丁度いい。
渾身のフックに全力のカウンターパンチを喰らったような今だからこそ、ただの癒やしだけが、何よりも大切だった。
◆ ◇ ◆ ◇
各人が一人になれる時間が必要だ。
そんな言葉の間逆なことを考えながら言った台詞に、タミヤとクライスはただ頷いた。
安宿を三部屋とって、僕たちは一人では随分と広く感じてしまうような粗末な部屋に一人ずつ入った。
少し寂しい。嘘だ、すごい寂しい。呑気に騒いだ声も、はしゃいだ熱気も、虚ろな悲しみも、辛気臭い身の上話も、その空間には何もなかった。
一人になれば、いつでも死ねる。無駄な可能性だけが増大する。
たった一週間。されど七日。この世界に慣れ、元の世界が恋しくなるにはあまりにも長い一六八時間だった。
八時間労働なら三万超え。二四時間の仕事だから十六万超え。夜勤手当やもろもろを含めれば、額面は二十を超えるだろう。
そう考えれば、随分な世界だと思う。カノーが言った『保証』ってやつを考えれば、今僕には時給が発生していない。僕はただ金を浪費しながら病院のベッドで寝こけているのだ。贅沢な暮らし方だと思う。プロのニートだって、ただ寝るのに金は使わない。プロじゃなくたって、会社員だって、自営業だって無い。しているのは患者か、可哀想な僕たちだけだった。
「まったく、僕は何をしているんだ」
本当に、何が起こって何をしようとしているんだか。
一つ息を吐く。明日になったら、クライスにお勧めのタバコでも教えてもらおうかな、なんて呑気なことを考える。
悠長なことを考えなければ、僕は深夜十二時すぎに、そっと宿を抜け出す決心がつかなかった。
深夜に宿を飛び出したのは、何もホームシックで自棄になったわけでも、今日実装される嗜好品を購入する為でもなかった。
僕がこうすると考えるならば、つまるところ彼らもそうする筈だ、と思ったからだ。
「……君らも、デバッカーなのか」
ハチ公前での待ち合わせ、というわけではなかったけれど、僕が行けばそこには四人の男女が居た。三人が男で、一人が女。一様に年齢が統一されていて、僕と同い年か、一回り大きいかくらいのものだった。
「これで全員かい」
僕は言った。一人の男、フードで顔を隠している彼が頷いた。名前はそれにちなんでか『Hud』。イスラム教の聖典に出てくる預言者の名前だ。
「じゃあ君らは僕の指示で動いてくれないか」
「ああ?」
食って掛かるのは、やはりフードの男だった。この中でも一等の実力や経験を持つのだろう。
僕は構わず続けた。
「ルールその八、被害は最小限に」
「……何言ってんだ、お前」
「最低限他のプレイヤーとの接触が必要になる。たった五人でなんのバックアップもなくバグを捜索するのはまず不可能だと考えれば、可能性を広げる為に頭が働くだろう?」
「ケンカ売ってんのか、テメエ。今すぐPVPに移っか? ああ?」
僕は小さく息を吐いた。僕らはプレイヤー以前に一人のバイト社員だというのに、下らないプライドばかりが先行する。
こんな状況だが、こんな状況を逸するにはろくでもない上司の指示が最適切だった。坊主憎けりゃの理論で何もかもを台無しにしていては、本当に何も進展しないというのに。
「僕が他プレイヤーの矢面に立つって言ってるんだ。どんな誹謗中傷も、君の言うPVPでどんなメにもあってやろうって言っているんだ。わからないか? ここの全員がそんな非効率的な事をして、村八分にされて、こんな狭い世の中で何が出来る? 必要なのは協力とコミュニケーションだ。冷静になろうよ」
十中八九僕の言い方が悪いのだろうけれど、下手に出て舐められるのも癪だった。
舐められれば、つまりこの共同体の中で上下関係が生まれれば、回る歯車もすぐに齟齬を生む。上下関係は損得勘定に代わり、いかに利用するかされるかに集中する。
負の連鎖だ。デバッカーの存在以前に、愚の骨頂としか言えない。
「わかったわ。あなたに、その覚悟を見た」
一人の女が言った。黒のシャツに白いジャケットが良く映える、パンツルックの赤髪の女だった。
視界に『Lightさんを承諾しますか?』というウィンドウが出る。僕は承諾すると、フレンド数が一人分増える。
「ライト、てめえ」
「少なくともあなたより彼のほうが生きることに必死だし、頭が回るわ。新顔で単独行動っていうのが気に入らないだけでしょ? あなたは」
たったそれだけで図星をつかれたように、フードは押し黙る。
それに変わって、ライトが会話の主導を握った。
「君らはこれまで、共に行動していたのかい?」
「まあね。もともと同期みたいなものだし、あのバグ――『デバッカー・ザ・チートバグ』の後からは、自然に集まりだしたのよ」
「なにそれ」
「噂で、デバッカーがバグを流布させたって話が面白おかしく装飾されて流れてるのよ。こんな大規模で最悪なバグなんて、管理者権限でチート使ったからに違いないって」
「通称『デバチ』なんて言われてるが……クソが、俺らは、巻き込まれてるだけなのに」
「そうか。皮肉なもんだね」
「他人事かよ、テメエ!」
「ごめん。でもこういう性格なんだよ」
僕は逃げた。彼らに同調する努力を怠った。そこを責められて、ただ一つの逃げ道へすかさず逃げ込んだ。
「ともかく、それは厄介な話だ。まともに交渉する自信がなくなってきた」
「……あの、おれらは、どう動けばいいんだ?」
控えていた二人の男は、顔を合わせてそう言った。
どこからどう情報が流れて彼らの身元が割れるかわからない。つまり僕が失敗すれば、もろとも村八分だ。シビアな世界。リアルより息苦しい。
「僕はライトに情報を流す。ライトはそれを整理して、彼らに指示を下してくれ」
「あら、それでいいの?」
ライトは意外そうな顔をした。当然だ、と僕は頷く。
「僕は僕で動く。なにより、君らは僕に指示されたくないだろうしね。ライトが僕の情報を良く選別してくれればいい。些細な事でもメールするから、少し鬱陶しいかもしれないけど」
「大丈夫よ。少なくとも今までよりは、ずっと生産性がありそうだし」
「納得してくれればそれでいい」
「もし」
フードが口を開いた。試すような口ぶりだった。
「もしお前が、PVPやらで死んだら、それで復帰出来ずに消えたら、どうなる?」
「僕はルールに則って生きるから出来るだけリスクを避けるけど……まあ死んだら、その時だね。その時は君らで考えて、君らなりに動けばいいさ」
「はっ、めでたくお役御免ってワケか」
「メデタイのは君の頭だ。実働が減れば可能性が激減する。君がこの世界で一生を終えたいなら、好きにすればいいけど」
「テメエはほんとにムカつく野郎だな」
「君がそう思うなら、僕にはその資質があったんだろうね」
こういった口調で、よくタミヤを怒らせる。怒ればひとまず、今不安なことを少しでも忘れる。やがて共に笑い合って、意気消沈する。些細だけど、幸せとも言える時間だった。
彼の短気も、そんな現実逃避によるものだといいのだが。思いながら、僕は踵を返した。
「ともかく、僕はもう君たちとの接触は望まない。この話し合いと関係が出来上がれば、僕はもう満足だ」
「へ、ビビって逃げんのか?」
「僕にも僕なりの仲間が居る。君たちと同じように。下手に離脱して、彼らを心配させたくない」
ただでさえこんな世界で心配事が尽きないのだ。無用な不安など、出来るだけ少なくしなければならない。こんな僕でも、僕が居るだけで安心してくれる人がいるのだから。
「それじゃ。幸運を祈る」
カノーが言った言葉を思い出して、簡単な別れ言葉にそれを付け加える。
背中にかかるのは、フードの短い舌打ちだけだった。