◆プレイタイム・168時間
何よりも心配だったのは、寝ている僕が何もかもを垂れ流して居ないかということだった。
下らない、と思うかもしれないが、僕にとっては何よりも大事なことだった。
「それは二番です」
タミヤは凛然とした表情で言った。
次の日、僕らはさっそく宿をとった。ゲームという仕様上宿に定員が存在しないのが嬉しい。
宿では無用な不安を避けるために一部屋を選んだ。ベッドが二つあるだけの、粗末な安宿だった。
そのテーブルに僕らは座って、ただ時間がすぎるのを待っていた。時間が全てを解決してくれる……実働は無論として『デジタルレーション』のIT社員たちだが、それを待つのが僕らの仕事だった。
「私は、家族が心配です」
自分を心配しているだろう家族が心配だ、と彼女は言った。
飲まず食わずで死んでしまうかもしれない自分よりも、と彼女は少しイタズラっぽい顔で微笑んだ。まだ余裕があるようで、僕は嬉しくなる。女性の笑顔で心を動かされるなんて、とても恥ずかしいことだ。これが強面のおっさんだったら、多分なんの根拠もなく安心して眠っていたことだろう。
「まだ学校もあります。もしこのまま、なんてことがあれば……」
「それはないよ。そんな例は、これまで存在しないし」
「初めてのケースになった場合は?」
「そりゃ大変な仕事になりそうだ」
僕は冗談っぽく言って笑った。タミヤは目を細めて、悲しそうな顔をした。
どうやら僕に冗談の才能は無いらしい。それを確認して、僕は軽口を封印した。
「死ねば意外とログアウトできたりね」
冗談でも何でも無くマジメな事を言ったと思ったのに、タミヤは少し怒ったような顔をしていた。
理由がわからないわけではないが、僕は元来こういった性格だ。どれほどマジメにリアクションをとってもオーバーだと思われ冗談にされる。どれだけマジメに訴えても、冗談だと思われてあしらわれる。
声に力がないのだろうかと思って声を張っても、今度は無駄にテンションが高いからこれは冗談だ、と断じられる。
いい加減に生きてきたわけではないけれど、だからこそそういった人間だから、と好き好む友人たちも居たけれど。
この時間ほど、クソ真面目な勤勉野郎になりたいと思った事はなかった。
「死ぬなんて、怖くてできません」
絞り出したようにタミヤが言った。確かにそうだ、死ぬのは怖い。
ゲームの中でもそうだ。リアルで体験しているかのようなゲームはともかくとして、自分の視界が暗転するのが怖い。その際にラグが生じて、今度は一生を暗闇の中で過ごすことになる可能性もある。
ログアウトできない。一生ゲームをやめられない。その可能性、一部の現実が、冒険をさせない。限りなく小さな可能性さえも試せない。
恐らく一人ならなんの躊躇いもなく死んでいただろうが、タミヤを残すことは出来ない。唯一と言ってもいい友人だ。また彼女が言うように、僕を心配している彼女が心配でもあった。
「ま、ともかくだ」
時刻が六時五九分から七時ちょうどになった。
瞬間、チリンチリンという鐘のモーニングコールと共に、テーブルに朝食が並んだ。温かいクリームシチューと、焼きたてのパン。色鮮やかなトマトとレタス、キュウリなどのサラダ。
「朝ごはんにしよう」
腹が満ちる感覚と、冴えた食感、馴染む味覚。それさえも反映させる為に、僕らはひとまず朝食にすることにした。
朝食後、僕らは他プレイヤーと接触することにした。
まずは自力での情報収集。カノーからの連絡はまだ無いから、それまでの時間つぶしのついでだ。何よりも、一つくらい安心できる情報が欲しかった。
駅前に出ると、そこはいつも以上に人で溢れかえっていた。同じデバッカーと、βのプレイヤーたち。総数は七二名。思ったよりも多かった。
僅か一日で諦めて駅前の壁に座り込んでいる人も居れば、大騒ぎしている人も居るし、何も変わらずどこに冒険しに行くか話している人たちも居る。世の中、色々な人がいるもんだ。
僕は手近に、座り込んでいる人に話しかけてみた。
テンガロンハットを被った、カウボーイ風の衣装の男。恐らく彼は、『軍人タイプ』。戦闘能力が非常に高く、何より遠距離武器に夢中なキャラクター。
「すみません、今大丈夫ですか?」
声をかけると、男は顔を上げた。ちょびひげを蓄えた、壮年の男だった。歳は三十代前半といったところだろうか。彫りが深く、それでやつれたような顔になる。彼は少し疲れた表情で立ち上がる。
「昨日から大丈夫じゃない。そりゃおたくらもだろ?」
若い声だった。恐らく見た目より、一回り若い。
「ええ、まあ。何か、進展のような話はないですかね?」
「さっぱりだよ。公式のアナウンスもなけりゃ、たった一晩でクソ騒がしく喚いてる連中が湧いてきた。あれが絶望アナウンスってやつか? 冗談にもなりゃしねえ」
「いいですね、絶望アナウンス」
「よくねえっつってんだろ」
男に覇気はなかった。僕は少し思考を巡らせて、今にも自殺してしまいそうな彼に手を差し伸べた。
「同じ暇つぶし者、友達になりましょう」
仲間は多いに越したことはない。彼のような、少し冷静で達観しているほうがなおさら良い。ハチ公前のあわてんぼうを誘うより、利口な判断に思えた。
男はゆっくりと手を伸ばし、強く握手を仕返してから言った。
「そいつは二番だ。今はなによりもさっさと帰りてえ」
「うふふ、二番ですって」
今朝の垂れ流しの話を思い出したように、タミヤが笑った。
男は自己紹介をする。名前は『クライス』で、レベルは二五。思った通りの軍人タイプで、装備は頼もしく三八式歩兵銃と三十年式銃剣。
「おおクライスト、我を救い給え」
冗談で言ってみれば、クライスは力いっぱい僕の頭を殴って見せた。
「やめろ!」
やはりクライスの由来はクライスト。クライストはキリストのことだ。恥ずかしい名前だが、カッコイイのだから仕方がない。男でクラリスよりずっとマシだ。
「友達になりましょう」
「うっせーな、さっさと承諾しろ」
僕が言っている間にやってのけたのか、気づいた時には『Chrisさんを承諾しますか?』と簡単にあった。簡単に『Yes』を選択すると、フレンド関係が出来上がった。
「で、あんたらはなにか情報でもあんのか?」
「うん、まあ。僕は一応デバッカーとして参加してるから、上司と連絡がとれる」
「んじゃあさっさと助けてくださいお願いしますってメール送れや」
「送ったよ。それでメンテナンスのアナウンスを流すっていうのが、この世界に干渉する情報の最新。クライスと何も変わらないんだ」
「最後に連絡をとったのは?」
「昨夜の十時。それからメールを送って見てるけど、返信はない」
「っち」
クライスは舌打ちをして、また座り込んだ。
彼もまた、彼の身体を自宅に置いてきたという。一人暮らしだから、垂れ流しよりも餓死のほうが怖いらしい。
なるほど、二番だ。
僕は彼の隣に腰をおろした。恐らく他の誰に聞いても、同じ返答しか無いだろうし、下手にデバッカーという身を明かして殺されるのも楽しくない。非常に楽しくない。とてもこわい。ありえない選択だ。
「これから、どうしましょう?」
タミヤが言った。僕は「どうしようもないよ」と言って、言い方を間違えたことに気づく。
「今動いても何も変わらないよ。まずは公式の動きを静観して、それから本格的に考えよう」
その場の流れに流されて行き着く先は決まってる。僕はハチ公前で躍起になって騒ぎ立てる連中を眺めながらそう言った。
「不安になるのは仕方ないけど、不安を煽ってもしょうがないしね」
不安は身を助ける。慎重になるからこそ、自分の選択をしっかり考慮する余地が生まれる。
だが彼らのように騒いで不安を増大させては、数多あるかもしれない選択肢が一つしかないような錯覚を覚える。勢いに任せているから、思い切りもいいだろう。
僕はまだ死にたくないし、その選択は最後までとっておきたい。
「友達になったついでに、一つルールを決めたいと思うんだけど、どう?」
思い出した映画を彷彿とさせるように、僕は言った。
あの映画の主人公は、ルールを決めていた。この世界よりもずっと絶望的な環境で、一人しか居なくて、一人しか居ないからこそ、決して死なないために、生き残るために、故郷へ帰るために定めたルール。
「まずルールその一・死なないこと。これは自殺も他殺も含めるからね」
「んなの、当り前だろうが」
クライスがくたびれたように言った。大きく息を吸って吐く姿から、タバコが恋しいのだろうと思う。
もし世界が元に戻ったら、カノーにお願いしてみようと思う。現実と同じ銘柄を、この世界でも揃えること。どうせ現実と似て非なる世界を構築するなら、酒やタバコも必須だろう。
「当たり前でも決めなきゃ。守るべきことは、数百数千になっても、ルールとして決めておきたい」
僕はアイテムボックスから白紙と万年筆を取り出し、地面に置いて記した。
ルールその一・死なないこと。
「そもそも、なんの為のルール?」
タミヤが言った。僕は答える。
「ここで生きていくために、朽ちない為」
廃人防止と言い換えてもいい。でも難しい言葉は頭の弱い彼女のプレイヤーキャラは理解できないだろうから、簡単にそう言ってやった。
「つまり暇つぶしの一貫だろうが」
「ま、それも一つだね」
「じゃあ私は、ルールその二・危なくなったら逃げること」
安い雑誌の攻略本に書いてありそうな事を言って、彼女はふふんと鼻を鳴らした。
僕は構わずルールを追加した。
「クライスは?」
「オレ? そうさな……楽しいことを見つけろ、とか?」
ルールその三・楽しいことを見つけろ。
僕はルール一覧と名づけた紙をアイテムボックスに戻して、壁を支えにして立ち上がった。
「じゃあ見つけに行こうか、楽しみ」
楽しいこと。それはこの世界でいつもどおりに遊ぶこと。遊ぶために、この世界は存在しているのだ。ならば遊ばなきゃ嘘だ。それこそ勝手に、頭の中で絶望アナウンスが流れだす。
結局いつも通りに冒険している連中は、達観したか何も感じない連中なのだろう。
僕らが立ち寄ったのは、無数のツタに覆われ緑化し崩壊の限りを尽くされた『マルキュー』の中だった。
入った瞬間に現れたブリンガーに対峙した瞬間、クライスが発狂じみた奇声を上げて小銃を構える。発砲、発砲、発砲。身震いするほどの流れで発砲と排莢を繰り返して、正確無比な照準でブリンガーを撃破した。
「雑魚どもが、寄ってくんじゃねえよ」
吐き捨てるように言ったクライスは、くそったれなほど最高の相棒だった。
◇ ◆ ◇ ◆
一つ重要な問題が発生した。
一週間が経過してしまったことは仕方がない。社内でクソも小水も垂れ流していること必至なのは四日前に諦めたが、それよりも重要な問題があった。
「新しい武器がない」
フラグが発生しなくなった。バグが発生する以前までに出現させたミッションは終わらせた。無事に全てラグもバグも無く終わって元の場所、つまりシブヤ駅前に戻ることが出来たのは嬉しい事だが、その次が無かった。
これまで依頼をしてきたNPCに話しかけても、同じことしか言わない。倒した筈のヴロウンという狼のようなモンスターを倒しても、未だにヴロウンの猛攻に困り果てていた。
僕も困り果てた。このシブヤから先へ行けなければ、レベルばかりがあがって装備が変わらない。
僕はもうレベルが四八まであがっていたし、クライスに至っては既に五六まであがっていた。タミヤは相変わらず六四と訳の分からない数値を叩きだした上で、全てを知力とすばやさに当てるという凶行に走っていた。
そんな知力があっても彼女は馬鹿だった。プレイヤーキャラというよりプレイヤーが馬鹿だった。
「確かに、新鮮味がねえな」
いつもの場所、シブヤ駅前で座って僕らはハチ公前を眺める。
騒いでいた人数は少しだけ減って、騒いでる声も静まってきた。一週間、一六八時間。途方もなく思える時間が、ほんの七日で過ぎてしまった。寝て起きるのを七回繰り返すだけで、その時間が過ぎ去ってしまった。
「私なんてドンドン色んな超能力覚えましたのに?」
「口調がおかしい」
「すごいですよ、エチピー全快ですよ」
「おかしいなあ」
具体的に言うと頭がおかしい。そんな魔法は、均等にバランスよくステータスを振ってればずっと後のはずなのに。
「お前はおかしい」
言いかねていたクライスまで遂に言った。これから彼女の扱いはドンドン酷くなるだろう。
僕は頼もしい相棒を持ったものだと思いながらクライスを一瞥すると、その反対方向から頬を殴られた。
「これからドンドン罵詈雑言の嵐が来るじゃないですか!」
「分かってるなら賢くなろうよ」
「あなたのお陰です!」
「それほどでもないさ。君には資質があったんだ」
「褒め言葉じゃないっていうのに!」
そんな、他愛もない話をしている時だった。
ふと、ピンポンパンポン、とアナウンスが流れ始めた。果たして希望か絶望か、一瞬にして場が静まり返る。
『五分後、シブヤ・ザ・ワールドの利用を一時停止します。サーバを再起動致しますので、ご了承ください』
希望とも、絶望ともつかないアナウンスに、両脇の二人は押し黙って言葉を紡がない。
僕も、何も言えずにただそれを待っていた。何が起こるかわからない。しかし受け入れるしか無い、現実。一六八時間と五分まって、ようやく進展があった。
メッセージの隣に表示されたカウントダウンがゼロに変わる。
どうにか僕の意識が飛んでしまいますように――そう願った瞬間、祈りは果たして、その時だけ作った僕だけの神に届いたようだった。
世界の全てが黒く塗りつぶされ、それを認識していた僕の意識さえも、一瞬にして途絶した。