第一話 はじめてのVRMMO
僕はその日、黒地に極彩色のストライプ柄のポロシャツとジーンズというラフな格好だった。そして僕は、とあるアルバイトの面接中だった。
面接官は怪訝そうな顔をしていたけれど、たかがバイトに良識を望まないで欲しい。そもそも今は無職だし。
「君は、なぜ弊社に?」
「はい。わたくしは以前より、御社の発表するゲームを愉しませて頂いており――」
そういった具合に、面接が進んだ。適当とまではいかないが、ひとまず業務のいろはをなぞるような説明と、ゲームに関する基礎的な知識の確認などをして時間が流れていく。
僕が応募したのは『デジタルレーション』というゲーム会社だ。主にMMOの運営をしていて、大手ゲーム会社のスタッフが独立し姉妹ブランドとして活動している。
やがて、面接官だった男は言った。
「じゃあひとまず、やってみましょうか」
僕の頭の上には間違いなく疑問符が浮かんでいただろう。
促されるままに、部屋から廊下へと出る。狭い廊下で何人かとすれ違って、廊下の行き止まりに到着した。正面には両開きの扉があり、説明もなしに男は扉を開く。
ぎい、と軋む音。中から肌寒い程度の冷気が流れてきた。
部屋の中は薄暗く、足元灯のような青い光が淡く点々と見えた。
「ここが作業場所だよ。一応、ここだけでも六十台のパソコンがある」
「うわ、すごいですね」
薄暗さに目が慣れてくると、僕はその状況がわかってきた。
部屋の壁に沿うように伸び、コの字型に展開する長机。そこに等間隔で置かれるモニタ。机の下にはパソコン。ちょっと大きめでかなり快適そうなリクライニングチェア。
さらに、部屋の中央部には縦五、横六列になっている机。設備は同様だ。
「君はこの席」
促されたのは一番後ろの真ん中の席だ。どの席も今は誰も使用していないから、開放感が凄まじい。緊張感も段違いだ。
(まあ、気楽にやろう。仕事だけど、ゲームだし)
ある程度の必要な説明はしてくれるだろう。
「ま、緊張しないで。気楽に行きましょう」
面接官は言いながら僕を席に促す。僕は会釈しながら、椅子に腰を落とした。背もたれに体を預け、パソコン、モニタ、そしてHMDのような装置の説明を受ける。
パソコンにインストールされているのは、僕がデバッカーとしてバイトを希望した『データジェネレーション』だ。『君のもう一つの世界』という謳い文句の通り、従来のMMOより数倍大きなクライアントデータを利用して、擬似的に自分のパソコンをサーバにしてオリジナルのワールドを作ることが出来る。
もちろん、テンプレートありきだ。本格的に作るにしても、遊びで作るにしても、サーバ用のパソコンを別個に用意しておくことを公式は推奨している。
「まずはVR装置をつけてみて」
「このHMDですか」
「そう。これは窪みに合わせて隙間なく目を収めて、耳を入れて、ベルトを伸ばして後頭部で固定する。ベルトの伸縮で勝手に吸着するから、まあある程度で大丈夫」
「はい」
僕は言われるまま、モニタの前に置かれた装置を手に取る。目に押し当て、後ろに回す。途中から布ベルトに変わっていて、シートベルトのようにカチリと接続させる。手を離すと、頭にぴったりとくっついてから、締め付けるように少しだけ縮んだ。
「椅子もデバイスの一つなんだ。マッサージチェアみたいに足と腕を包めるから、そのとおりに」
「はい」
僕は腕を通す。足を足置きに軽く押し当てると、面接官が起動させたのだろう、すっぽりと足を包むようにカバーが展開した。
視界がゼロの真っ暗な闇の中で、僕は体を拘束される。ヘタな人体実験だったら万事休すだ。
「それじゃあ起動するよ。もうログインしてあるから、意識がしっかりとワールドに焼き付くまでちょっと待っててください」
「はい」
僕はさっきからそれしか言っていない。それ以外に言うこともなかったのだけれど――。
全身の感覚器官が醒める――そんな感覚だった。
全細胞が粟立つ。細胞一つ一つが生まれ変わったように再起動する。
一陣の風が全身に吹き抜け、僕は闇の先に光を見た。光が視界を覆い網膜を焼いた瞬間、僕は否が応でもその景色を目の当たりにさせられる。
強い排気ガスの匂い。雑踏の喧騒。車の駆動音。クラクション。話し声。人の気配。
僕は縦横無尽に交差する横断歩道のちょうど真ん中辺りに立っていた。
――雑踏・シブヤ。
視界上部中央に、白抜きの硬いフォントでそう表示される。
検査プログラムが走査する。視界左端に常駐する半透明のチャットウィンドウに無数の文字列が流れたあと、誰かがそう言った。
『大丈夫かな。ちゃんと見えてる?』
「ああ、はい」
僕はまた、それしか言えなかった。
僕は座っている。なのに、体はすっかり立ち上がっているのと感覚が変わらない。
手を握る。顔を上げる。その動作一つ一つは、リアルで僕がしている時とまったく同じだ。
空気を感じる。風が肌を撫でる。息を吐き、鼓動を感じる。僕はこの世界で、リアルと変わらず生命を実感していた。
人の気配やなにやらはあるけれど、実際に人の姿も車もない。遠目に見える人影も、たぶんNPCなのだろう。
『僕はカノーとして、これから君に指示を出すよ』
チャットウィンドウが消えて、左下に四角いアイコンが出る。『面』とだけ書かれたアイコンの上に、小さく『カノー』と名前があった。既にボイスチャットが始まっていて、僕はただ頷いた。
「よろしくお願いします」
この世界に、違和感はない。だから実感が無い。僕がゲームの中に居て、ここがゲームの中なのだという感覚がない。ましてや、この街はシブヤのトレースだ。真新しさがない。といっても、僕はシブヤに行ったことはないのだけれど。
ゲームと現実の線引きが曖昧になるのは怖いなあ、と思っていると、カノーが言った。
『ちなみに、現在のフィードバックは最低レベルに設定してあるから。刃物で刺されても、感覚は殆ど無いと思ってもらっていい』
なるほど、ゲームだ。だったら尚更、ぬるま湯の現実になりえるんじゃないのかな。
もっとも、その危惧は不要だろうと思う。だってそんなことを心配するのは、一度に数十時間もプレイする廃人クラスの人達だろう。その廃人にしたって、廃人なものだからそんな心配もしない。だってゲームが現実だろうとなんだろうと、自分の好きな世界に居られればどこだっていいはずだから。
『じゃあまずはハチ公前まで移動しようか』
常駐してる半透明のマップウィンドウを眺めていると、自分の青いマーカーの近くに黄色のマーカーが出現した。それと同時に「ピコン」と音がなって、視界端に帯状のウィンドウが小さくはみ出る。
メニューからクエストを選択。感嘆符のマークが出た新しいクエストの表題は、『ハチ公の前で十回、装備を着脱せよ』とある。
間もなく、また「ピコン」と音がした。データを受信し、アイテムバーに感嘆符。追加されたのは地図だ。『順路』と題されたそれを使用すれば、全体マップにある道の一部が赤く染まる。現在地から黄色のマーカーまでをつなぐそれが、順路というわけだろう。
「便利ですね」
『実装予定のアイテムだからね。名前は考え中』
「じゃあ僕が考えていいですか」
『さあ、ハチ公前まで急ごうか』
僕は話をはぐらかされた。当然といえば当然だからなんとも思わない。
僕はマップを睨みながら進む。その道中で近づいてきた通行人に、勇気を出して肩をぶつけてみる。
通行人は大きくよろけて、姿勢を立てなおして、再び歩き出す。なんとも罪悪感が残る反応。一方で僕は、肩にふわりと風が吹いたような感触だけがあった。少なくとも人とぶつかったものではない。
やはり、ゲームだ。
納得しながら、僕はハチ公前まで無事に到着した。マップのありがたさもそうだが、現実とは比較にならない程度の人口密度のおかげでもある。
とはいえ、ハチ公前は人が多い。これまでが一割だとしたら、ここは三割くらい居る。ハチ公前で何かを待っている風情の人や、どこからともなく通り過ぎて行く人が多い。僕は待ち合わせらしいNPCの隣に立った。
ここで大丈夫だろうか。カノーに確認をとる。
『OK、問題ないよ。判定はハチ公像を中心に三歩分だからね』
「了解です」
僕は返事をして、さっそく作業を開始した。
まずはメニューウィンドウを開く。これは意識するだけでいい。それだけで視界内に四角のウィンドウが展開する。その中からアイテムを開く。ツリーメニューのように、消耗アイテム、装備アイテム、キーアイテムなどが羅列する。僕はその中から装備アイテムを開く。
別枠で、人型のシルエットが出た。僕の装備状況だ。頭、右手、左手、胴、下半身がそれぞれ装備可能で、僕は胴と下半身だけ装備している。しかし装備品は『ユニクロの服』として一つのセットになっていて、装備の着脱は簡易化されていた。
ユニクロの服。奇しくも、今日着てきたポロシャツはユニクロの商品だった。
なんだか嬉しい気分になる。知らない土地で、良く知るチェーン店を見つけた安堵感に似ていた。
「じゃ、始めます」
視線で装備品を選択し、ドロップする。ウィンドウの外に捨てれば、ユニクロの買い物袋が目の前にドサリと落ちた。
僕は早速素っ裸になっていた。パンツ一枚だけで、ハチ公前に突っ立っている。NPCは誰も反応しないし、肌寒さや日差しの暑さも感じない。
羞恥心だけが、あらわになる。僕は慌ててユニクロの袋を拾う。アイテムボックスの中に装備が増え、さっさとシルエットにぶち込んだ。装備が反映され、僕はさっきと同じ服装になる。白いシャツに、ジーンズ姿だ。
それを繰り返す。三回目にもなれば、恥ずかしさも消えてきた。
そうして繰り返して六回目に、異変が起こった。
僕がユニクロの服を脱いだ瞬間、パンツまでも脱ぎ去っていた。さすがに局部のテクスチャはナニもない肌色で塗りつぶされているだけなのだけれど、僕はハチ公前で全裸になっていた。
「ううわっ」
僕は思わず狼狽えた。ユニクロの服を拾って、すぐに装備する。
「こ、これがバグですかっ」
『ああ』
どこか楽しそうな声でカノーが答えた。くつくつと声が揺れている。
『特定の場所で発生するバグ。その内、装備を連続で着脱する際に、プレイヤーのデフォのスキンが薄橙色に塗りつぶされるバグだ』
「ひどいバグですね」
女性プレイヤーキャラだったら、局部や乳首を描写しない漫画的表現になっているだけになることだろう。嬉し恥ずかしバグ祭りだ。
『そう、とんでもないバグだ』
冗談っぽく言った僕に対して、彼は静かな声色で告げた。
『このままユーザーへサービスを提供する訳にはいかない。些細な不具合は、ユーザーの多大なるストレスになるんだ』
その声が、多分僕の胸を打ったのかもしれない。
彼の確かな本気に触れた感じが、僕はした。
『ひとまず、これでテストを終了します。普通のゲームだと、画面を前にしてコントローラーを手にしてこの作業を繰り返す。だけどVRゲームだと、現実世界と変わりない作業を繰り返すことになる。君は、大丈夫そうだね』
「初めてでしたし。でも採用の折には、尽力させて頂きます」
『はは、そうなったら、期待してるよ』
初めての仮想空間体験は、そこで終了した。カノーの指示で僕はゆっくりと目を閉じ、眠りに落ちるような感覚が意識を急速に落としていく。僕はそのログアウトの感触を、全身で感じた。
VR装置を外し、僕は全身の筋肉をほぐすように体を伸ばしながら席を立った。
「あ、すいません」
「気にしないでいいよ。疲れたでしょう」
面接官が居るのも忘れて、僕は軽く頭を下げる。カノーは笑いながら首を振った。
彼は咳払い一つ、表情を引き締め僕を見る。
「君がデバッカーとして、あるいは他のVRゲームで、このデーションでMMOに触れる機会があったら、気をつけて欲しいことがある」
爽やかな短髪、黒のスーツが良く似合う長身痩躯。威厳のある彫りの深い顔が、真面目に僕を見た。
「VR系のMMOは哲学だ、と私は思っている。自分がどこに存在し、どの世界を生きているか。時間に関わらず、錯覚に陥る者は少なくない。常に、とは言わないが、意識しなければならない。慣れとは恐ろしいもので、経験を重ねるほど、プレイヤーは自分を見失う」
こんな良い世界だから、見失うんだろうと思った。少なくとも自分が気に入った場所だからこそだ、と。
特にこのデーションは、プレイヤーの数だけワールドを作れる。もちろん会社のサーバに限界はあるが、少なくともある程度の余裕はあるはずだ。
だから僕は、勘違いした。
僕の、僕だけの、僕のための新しい世界。そんな世界なら、僕は未来永劫、後悔することはないのだと。